大文字送り火(五山の送り火)・大文字山
Daimonji Okuribi (the Great Bonfire Event)

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鴨川から見る大文字送り火


大文字山から望む「妙」「法」

鴨川から見た船形万燈籠
船形万燈籠、左船体は93m、右船体は93m、帆は113m、船の深さは40m、船山(315m)に灯される。
 舳先は西方浄土を表す精霊船で、弘誓(ぐせい)の船、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。麓にある西方寺開祖慈覚大師が唐留学の途上、船で嵐に遭い、南無阿弥陀仏を唱えたところ無事還ることを果たしたことから船形に象られたという伝承がある。西方寺では、送り火の後に六斎念仏が行われる。
 

山上にある弘法大師堂


弘法大師堂


最も大きな火床、背景は京都市街地




山上からはほかの四山が望める。


 大文字山の火床。松薪が井桁に組まれ、その間に松葉が挟みこまれる。その上に護摩木が載せられ、焚きつけとなる萱(?)が立てかけられている。
 薪には、アカマツを使い、樹齢50年の木が十数本必要となる。ただ、近年、マツクイムシの発生、山林の手入れ不足、環境の変化などにより、材の確保が年々難しくなっているという。


大文字山の一番大きな金尾の火床が完成したところ。右下が焚き付け口、護摩木が立てかけられている。


大文字の小さな火床、基本的な構造は同じ。


大文字山と鴨川、大文字は鴨川からの適度な仰角位置にある。


雪の日の朝、白い大文字


冠雪、朝焼けの「白い大文字」
 8月16日(旧暦7月16日)、祖霊を送る宗教行事「おしょらい、おしょらいさん」である大文字山(466m)での送り火が行われる。現在は「五山送り火」の名称が定着している。一般的に「大文字」とも総称されている。また、今日では批判のある「大文字焼き」という呼び方も、一般化していた時期もあった。 
 なお、如意ヶ岳(嶽)(472m)と大文字山は別の山で、如意ヶ岳は大文字山のさらに東にあり、京都市内からは見ることが出来ない。平安時代には山頂に、三井寺の末寺・如意寺があったことからこの名がある。
◆歴史年表 平安時代中期以前(10世紀)、山上に園城寺別院の如意寺が建てられていた。
 鎌倉時代、寺は最盛期となる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失し、再建されなかった。
 江戸時代、1603年、送り火についての記述が公家・船橋秀腎の日記『慶長目件録』中にあり初見とされる。
◆起源諸説 送り火についての記述は、公家・船橋秀腎の日記『慶長目件録』(1603)の 旧暦7月16日が文献の初見とされる。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」とあり、これは鴨の河原での万燈籠見物について書かれている。
 送り火の起源については、平安時代初期の弘法大師説がある。山麓にあった浄土寺が火災となり、本尊の阿弥陀仏が山上に飛び、光明を放った。それを象り点火したのを弘法大師が「大」に改めたという俗説。また、808年に、都で流行った疫病、飢饉の調伏のために、弘法大師は法壇を設け、護摩を焚いたという伝承もある。
 ほかに、室町時代中期の足利義政説がある。如意ヶ岳はもともと銀閣寺の所領だった。24歳で早逝した息子・義尚を悼み、1489年の初盆の際に始めたという。相国寺僧・横川景三は、銀閣寺東求堂から如意ヶ岳の山面を望み、家臣・芳賀掃部に命じ、白布で「大」の字を形どり、火床を掘らせた。お盆の16日にこれに置いた松割木に点火して精霊を送った)。大文字山の正面は、この相国寺の方を向いているともいわれる。
 また、江戸時代初期の近衛信尹説もある。中川善雲著『案内者』(1662)で取り上げられ、大文字の筆画は、三藐院殿(さんみゃくいんでん、近衛信尹)とされている。
 「大」の字は両手両足を広げた人形を表し、75の火床はその経絡にあたるとする言い伝えもある。また、『日本紀略』の記述に、963年、空也上人の発願により、西光寺の落慶法要として、鴨川での600人の僧による般若経による供養と、夜には万燈会があったとの記述がある。これが送り火の起源という説もある。
 南北朝時代、すでに霊山、鳥辺野では、精霊迎えの万燈が炊かれていた。戦国時代、永禄期(1558-1559)、京の都で盂蘭盆が流行し、お盆には燈籠や提灯、大燈籠に火を灯し、町組単位で人々は風流踊りに興じた。また、鴨川では、現在も花背、広河原、雲ヶ畑などで行われている松上げが行われていた。庶民は松明を空に投げ上げて精霊を送る風習だった。こうした万燈籠は15世紀には成立していた。これが大規模化したものが、16世紀中期か後半に大文字送り火の起源になったと見られている。また、応仁・文明の乱(1467-1477)後、都では天変地異が続き、怨霊の祟りを鎮めるという意味も送り火に込められていたという説もある。
 曲亭(滝沢)馬琴の『壬戌羇旅漫録』(1802)には次の記載がある。「凡精靈のむかひ火おくり火はみな加茂川え出て麻がらに火を點ず。その宗旨によりて日限の遲速あり。盆中家家に挑灯燈籠を出すこと江戸の如し。東山諸寺の高燈籠は星の如くしかり」。
 江戸時代末、庶民は、鴨川の河原で焚き火をし、供え物を鴨川に流していた。(『再撰花洛名勝図会』)。また、江戸時代前期、河原に出た庶民は、送り火にあわせて手松明という松明を空に放り投げていたという。
◆大文字 大文字の文字の大きさは1画が80m、2画160m、3画120mで、弘法大師の筆(ほかに相国寺の僧・横川景三、寛永三筆の一人・近衛尹信など諸説ある)によるとも伝えられている。
 文字は75箇所の火床からなり、大の字の中心を「カナワ」あるいは「カナオ」(金尾)と呼び、ここには今も弘法大師堂の石窟がある。松薪への点火もここから始まる。
 火床の構造は、土台に大谷石を平行に二本渡してある。この上に4本の松割り木を使い、二重の井桁にして8段組みあげる。この割木の間に松葉を差し入れる。中心は煙突換として空洞にしておく。
 大文字送り火の正面については、御所、荒神橋辺り、また相国寺ともいわれている。 
 五山の送り火として、江戸末期頃は十の山々で送り火が灯され、かつては、市原の「い」、鳴滝の「一」、北嵯峨の「蛇」、「竿」、西山の「竹の先に鈴(竿に鈴)」(大正期まで)、観空村の「長刀」というのもあった。
◆近代以降 近代に入り、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈とともに、迷信、民間信仰なども規制された。たとえば、門松、雛祭り、節句、七夕飾りも禁じられている。
 1872年、京都府令により、精霊迎霊祭、六歳念仏も禁じられ、送り火も「無用の火を流すもの」「文明に進歩する児童の惑も生じ」として、1881年まで一時禁止されている。
 また、送り火以外でも、疏水通水式(1890)、ロシア皇太子入洛(1891)、日清戦争勝利(1894)、日露戦争勝利(1905)にも点火された。
 また、第二次世界大戦中の1943年とその翌年、灯火管制と人手不足から火を灯すことができなかった。8月16日の早朝、「戦意高揚」のために人文字による「白い大文字」が、白い服を着た学生(第三錦林国民学校児童ら)、市民2000人によって描かれ、「健民体操」が献納された。しかし、終戦の年(1945)は戦後の混乱によりついに中止された。なお、翌年には復活している。
 1988年、大文字山の北東部(裏側)にゴルフ場開発の計画が明らかになり、景観をめぐって議論となったが、一年後に中止された。また、中層建造物の増加、街の照明問題、後継問題など、送り火を取り巻く環境の変化がある。
 2007年に成立した「京都市眺望景観創生条例」では、鴨川から見る五山の送り火など、眺望保全も盛り込まれる画期的な条例となった。    
◆五山送り火 五山の送り火は、8月16日の午後7時、弘法大師堂でお松明が灯され、般若心経が唱えられる。8時、「大文字」(如意ヶ岳、火床75)の点火に続いて、8時10分、松ヶ崎の万灯龍山(西山、火床103)の「妙」と大黒天山(東山、火床63)の「法」。8時15分、西賀茂舟山(妙見山、火床79)の「船形万燈籠」、同じく8時15分、もう一つの大文字山(大北山とも、火床53)の 「左大文字」。8時20分、嵯峨の曼荼羅山(水尾山、仙翁寺山とも、火床108)の「鳥居形」の順に、一年をかけて準備された薪は、それぞれ30分間だけ灯される。
 なお、送り火終了後、午後9時より涌泉寺では「題目踊り」「さし踊り」、西方寺では六斎念仏が奉納される。
 杯に映した「大」の字を飲みほすと中風にならない、護摩木の燃えかすは厄除けになるという言い伝えもある。

五山送りの見える橋
橋の立ち場所などでも微妙に変わってきますが、おおよその目安としてお役立てください。なお、橋によってはかなり遠くに見えたり、斜めからしか見えない場合、建物や樹木の陰になり一部しか見えないことも多々あります。また、鴨川の堤からは望める場合もあります。‥ <(_ _)> (当サイト調べ)

北(上流)より
賀茂川通学橋 「

西賀茂橋 「
」斜め、「
御薗橋 「
」、「
上賀茂橋 「
」、「
北山大橋 「

北大路橋 「
」、「左大」斜め、「
出雲路橋 「

荒神橋   「
」一部、「」一部
葵橋    「
」一部
出町橋   「

賀茂大橋 「
」、「
丸太町橋 」、「
」一部
二条大橋 「
」斜め、「」一部
御池大橋 「
」斜め
三条大橋 「
」斜め
四条大橋 「
」斜め

大文字送り火の準備
新年に話し合い
2月中下旬~3月 松で薪を用意
5月 山の倉庫に薪の運び入れ
下草刈

松薪割 600束、松葉100束、麦わら 100束 護摩木

火床に薪が1.3メートルの高さに井桁状に組まれる。中心の井桁は一回り大きい。桁の間に松葉、まわりに麦わらがしかれる。さらに護摩木も点火される。 


鴨川河畔から見ることの出来る送り火

★★★「大文字」は、西賀茂橋~丸太町橋間あたり、鴨川河川敷西岸から見られます。

★★★「船形」は、西賀茂橋~上賀茂橋下流あたり、鴨川河川敷の東岸から見られます。出町橋以北でも見られる地点があります。
★妙法の「法」については、賀茂大橋~丸太町橋間あたり、鴨川河川敷東岸から見られます。また、高野川東岸では見られます。
★★「左大文字」も、北大路橋以南の鴨川東岸から見ることが出来る地点もあります。
×鳥居形は、鴨川から見ることはできません。


場所によっては、建築物や樹木の陰で見えないところもあります。

踊り
盆踊り 湧泉寺の「題目踊り」「さし踊り」、鉄仙流白川踊り、江戸時代には「都町踊り」というのあったという。

今も残る六斎念仏踊り 千本六斎、小山郷六斎、壬生六斎、中堂寺六斎、円覚寺六斎、梅津六斎、西方寺六斎、上鳥羽六斎、桂六斎、西教寺六斎念仏(木津町)、西光寺六斎念仏(南丹市)

ついでに七夕 江戸時代には、小町踊り(七夕踊り)という少女の踊りが催されていたという。



*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』


   関連・周辺       周辺      銀閣寺     涌泉寺       西方寺        




大文字山で直前に行われる僧侶による読経。

大文字山から見た妙、「妙法」 「妙」の字は、日像上人が1307年に日蓮宗に改修した際、杖を引いて、墓のあった西山の南斜面に書いたという。それに村人が点火したと伝わる。


大文字山から見た法、「法」は、18世紀、下鴨大妙寺の日良上人が東山に書いたという。



大文字山から見た船形

大文字山から見た鳥居 「鳥居形」地名によるという説と、愛宕神社の鳥居によるという説もある。

大文字山から見た左大文字、「左大文字」は江戸時代前期に始まったという。北山を挟んで大文字の反対側、左にあるところから呼ばれるようになった。
 
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