上賀茂神社(賀茂別雷神社)・久我の森(本山の森) (京都市北区) 
Kamigamo-jinja Shrine
上賀茂神社 上賀茂神社
  Home   Home

一ノ鳥居、明神鳥居、杉材、丹塗り、高さ7m。近代、1918年建立。南面している。表参道は幅6m、長さ160m。葵祭では斎王代らが腰輿を降りてここより徒歩で参進する。


外幣殿(重文)、御所屋、馬場殿ともいう。1628年に造替、1880年に改修された。檜皮葺、入母屋造。
行幸時の天皇の到着殿。



神馬舎、1984年建立。神馬の「神山号」



二ノ鳥居、1951年建立。明神鳥居、杉材、丹塗り、高さ6.7m。南西方向に向いている。




楽屋(がくのや)(重文)、江戸時代、1628年造営、1880年に改修した。檜皮葺、切妻造、平屋。
 神仏習合時代に供僧方が用いていた。一切経楽屋ともいう。






細殿(重文)




立砂(たてすな)、清めの砂、当社が方除けの神であることによる。白川砂の先端には松葉(右は二葉、左は三葉)が挿してある。斎砂を撒き清める風習はここから始まったという。平安遷都以前、まだ拝殿のない時には、ここに二本の御柱が立てられていた。その根元を固めるための盛土の名残りともいう。正月飾りの門松の起源ともいう。
 また、ご神体の神山をかたどった神の依り代となる神籬(ひもろぎ)ともいう。全国唯一という。


細殿(ほそどの、重文)、拝殿ともいう。檜皮葺、入母屋造、平入りの平屋。回り縁、高欄付、板敷き、折上小組格天井。
江戸時代、1628年に造営された。かつては天皇、上皇、斎王のみが昇殿を許されていた。葵祭では斎王代の到着殿として使われている。
 手前の長形の苔地は「坪の内」という。土解祭(とげさい、4月3日)ではここで稲こき(脱穀)が行われる。


細殿



橋殿(はしどの、舞殿)(重文)、桧皮葺、入母屋造、妻入。江戸時代、1628年造営、1880年に修理。建物は御手洗川の上を跨いで建てられている。
 葵祭の際に橋殿は、勅使の拝殿となり、紅紙(くれないし)の御祭文(ごさいもん)を奏上する。東遊びも奉納される。




土屋(つちのや、重文)、到着殿ともいう。桧皮葺、入母屋造、平入。礎石に柱が立てられ、白砂が一面に敷かれている。
 神官の祓所(はらえど)として使われていた。現在も祭事では、神職がここで穢れを祓い、川を渡って神域に入る。



手水舎、「神山(こうやま)湧水」といわれている。2007年より地下30mの井戸水を利用している。
飲用水としての水質検査にも合格している。市民団体「上賀茂と森と緑の保存会」により井戸が掘られた。


樟(くすのき)橋(長寿橋)、御手洗川に架かる橋、くすのきの化石という石橋。渡ると長寿になるという。






末社・橋本社、衣通姫神(そとおりひめのかみ)、和歌、芸能上達守護の神。1628年に造替。
 また、平安時代の貴族・歌人の藤原実方(ふじわらのさねかた、?-999)を祀っているともいわれる。吉田兼好の『徒然草』中に、橋本社と岩本社の逸話が登場している。また、浦明神を祀るともいう。(吉田兼満『神祇拾遺』)





楼門、玉橋、楼門は透廊を通し神山を遥拝することができる。




楼門、江戸時代、1628年造営。ニ層の楼門建築、入母屋造、桧皮葺。ニ層部分に上がることはできない。


楼門、卯状








中門(ちゅうもん)(重文)、檜皮葺、切妻屋根、四脚門、江戸時代、1628年造営。両側に西局、東局を繋いでいる。初詣期間中は祝詞屋の前まで入ることができる。


新年より節分までは中門に宝船(蓬莱船)が吊るされてる。


奥に本殿、同じ形の権殿(社殿造営の際に御霊代を一時奉安する仮殿)が並立する。


中門の西、西局(にしのつぼね)(重文)、直会殿(なおらいでん)、左奥に楽所(がくしょ)


中門の東、御籍屋(みふだのや)(東局)(重文)、檜皮葺、入母屋造


高倉殿、江戸時代、1628年造営。かつては祭事用の保管庫として使われていた。いまは神職、参拝者が直会(御神酒)を戴く場所として、また神器、神宝、古文書などを保管する。


弊殿(祈祷殿)(重文)、檜皮葺、入母屋造。江戸時代、1626年造替。1708年、内裏炎上の際に、上賀茂神社に行在所となり、三種の神器が弊殿に遷された。


棚尾社(重文)、中門に右脇にある。江戸時代、1628年造営。櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)、家屋に悪霊が入らないように守護する神、門を守る神。葵祭の御生神事の際に菖蒲の葉が投げ上げられる。
 上賀茂神社(かみがも じんじゃ)は、上賀茂社ともいわれ、京都市内の北部、洛北の地にある。境内は69万㎡の広大な社域を有している。
 正式には賀茂別雷(かものわけいかづち)神社といい、皇城鎮護の神として崇拝された。祭神は、賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)で、水、農林業、醸造、養蚕、機械、方除などの神。旧官幣大社。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「賀茂別雷神社」に比定されている。
 神仏霊場会第102番、京都第22番。「四神相応の京 京都五社めぐり」の北、玄武にあたる。京都洛北・森と水の会。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。
 厄除、方除け、雷除け、子宝祈願、縁結び、旅行安全、航海安全などの信仰がある。電気の神として電気業者の信仰を集める。片岡神社には縁結びの信仰がある。川尾社は癒しの神として知られる。
◆歴史年表 
創建の詳細は不明。
 弥生時代、初代・神武天皇の時(BC660年-BC582年)、賀茂建角身命が賀茂山の麓、御阿礼(みあれ()所に降臨したという。古代山背国に移り住んだ鴨(賀茂)族の氏神を祀る。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祖神とする賀茂県主(あがたぬし)族は、大和国葛城賀茂より山城国に入り、山代川(木津川)、岡田の賀茂(相楽郡)、桂川と鴨川の合流点と北上し、久我国(上賀茂地区)に到達し、この地を開拓したと伝えられる。上賀茂神社は、上賀茂社、上社(かみのやしろ)とも呼ばれ、下鴨神社と総称して賀茂社ともいわれた。(社伝)
 飛鳥時代、677年(678年とも)、天皇は山背国に命じ初めて社殿造営したという。(社伝)
 698年、文献の初出とされている。賀茂祭の騎射が禁じられた。(「続日本紀・類聚国史」、同年の条)
 702年、賀茂祭の騎射が禁じられた。
 奈良時代、朝廷は神領を寄進する。
 711年、賀茂祭について山城国司による臨検を詔した。
 729年頃まだ、文献中の賀茂社とは当社のことを意味するとされる。
 750年頃、下社(下鴨神社)が成立したとみられている。
 784年、長岡京遷都に伴い、上、下二社に従二位の神位が与えられた。(『続日本紀』)
 785年、上下社に社領地として愛宕郡封戸10戸を与えられ、賀茂六郷はその中心となった。(『三代実録』)
 793年、第50代・桓武天皇は壱志濃士を遣わせ、遷都の奉告を行った。
 平安時代、794年、平安遷都後、王城鎮護の神となる。二位勲一等に叙される。第50代・桓武天皇が初めて行幸する。
 807年、伊勢神宮に次ぐ神位を与えられ、正一位に除される。(『日本紀略』)
 810年、賀茂の斎院が置かれた。第52代・嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王が初代斎王として仕える。
 819年、賀茂祭が中祀となる。
 820年、第52代・嵯峨天皇の勅により、神宮寺が建立された。
 856年、片山神(片山御子神社)が官社に列する。(『三代実録』)
 859年、出雲井於神社、片山神が従五位上となる。
 889年以降、臨時祭(11月)が始まった。(「帝王編年記」)
 899年、臨時祭使が派遣される。(『日本紀略」)
 968年、式年造営が行われる。
 971年、摂政・藤原伊尹により神宝神馬を献ずる「御賀茂詣」が始まる。(『日本紀略』)。以来、摂政関白の賀茂詣が恒例になる。
 972年、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「賀茂別雷神社」の記述がある。
 994年、式年造営が行われる。
 1017年、後一条天皇は行幸し、愛宕郡(賀茂郷、小野郷、錦部郷、大野郷、中世の賀茂六郷)を寄進する。片山社が正ニ位を与えられる。
 1036年より、第68代・後一条天皇の勅により、21年の式年遷宮が始まったという。ただ、行われない年もたびたびあった。
 1037年、式年造営が行われる。
 1039年以降、室町時代中期まで「二十二社奉幣の制」中「上七社」に列せられた。
 1060年、式年造営が行われる。
 1076年、4月中申口(御阿礼日)が賀茂行幸の式日と定められる。
 1103年、式年造営が行われる。
 1106年、当社焼失に際して、神体が摂社・貴船社本殿に一時遷されたという。式年造営が行われる。
 1110年、摂政・藤原忠実が備後、阿波の五烟の封戸を寄進した。(「摂政藤原忠実寄進状案」)
 1112年、式年造営が行われる。
 1120年、第74代・鳥羽天皇行幸の際に若宮神社に官幣が捧げられた。
 1140年、式年造営が行われる。
 1143年、式年造営が行われる。神宮寺が供養となる。
 1172年、式年造営が行われる。
 1179年、式年造営が行われる。
 1182年、神主重保(しげやす)が歌人を招いて和歌を詠い、賀茂曲水の宴の始まりという。
 1184年、源頼朝に対して、賀茂社領41所への狼藉を禁ずる院庁下文が出される。(「源頼朝下文案」)
 1191年、賀茂祭の車、供人の装束が華美として禁じられる。(「後鳥羽天皇宣旨」三代制符)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、社領地の大半が他領地となった。
 鎌倉時代、1199年、式年造営が行われる。 1212年、最後の、賀茂斎院に後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王が仕える。
 1217年、式年造営が行われる。
 1262年、式年造営が行われる。
 1305年、式年造営が行われる。
 1311年、式年造営が行われる。
 南北朝時代、1346年、式年造営が行われる。
 1370年、式年造営が行われる。
 1373年、神宮寺、一切経蔵、鐘楼など焼失する。
 1384年、式年造営が行われる。
 室町時代、1425年、式年造営が行われる。
 1435年、式年造営が行われる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、以後、賀茂祭は中止になる。
 1502年、賀茂祭が中絶する。
 1556年、式年造営が行われる。
 安土・桃山時代、1589年頃、豊臣秀吉の検地後、50あまりの荘園を没収し、朱印状1572石が与えられる。
 江戸時代、1628年、式年造営が行われる。現在の社殿の多くが建てられる。
 1694年より、賀茂祭が再開された。
 1708年、内裏炎上の際に、上賀茂神社に行在所となり、三種の神器が弊殿に遷された。天皇、東宮、中宮、女院らが避難する。
 1713年、式年造営が行われる。
 1814年、臨時祭が復した。(「公卿補任」)
 1861年、和宮が降嫁を前に賀茂両社を参詣した。
 1863年、式年造営が行われる。現在の本殿、権殿が造替される。3月21日(旧暦)、第121代・孝明天皇行幸に従い将軍・徳川家茂、慶喜は当社、下鴨神社に攘夷祈願する。
 近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、神宮寺は廃された。第122代・明治天皇は王政復興の行幸を行う。
 1870年、1870年、太政官通達により臨時祭は廃絶した。
 1871年、官国幣社の制により、官幣大社に指定されている。
 1934年、室戸台風で国宝建築物に被害が出る。
 現代、1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。
賀茂伝説 川にまつわる伝承がある。祭祀権を与えられていた祭神・玉衣日姫命(たまよりひめのみこと、玉依比売命)は、貴布祢神の本殿から流れ出る貴布祢川を水源としている瀬見の小川(鴨川)で、丹塗(にぬり)の矢が流れ着いたのを見つける。
 これを持ち帰り、床に差しておいたところ、やがて孕み、男児が生まれた。子は賀茂別雷神と名づけられ、上賀茂神社の祭神となった。雷神は水をもたらす、五穀豊穣の神として崇敬された。
 賀茂別雷神の父は火雷命(ほのいかずちのみこと)。祖父は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、祖母は神伊可古夜日女(かむいかこやひめ、丹波神伊可古夜比売命)。
 また、楢の小川の左岸には、摂社・奈良神社があり、神饌を司る神・宇莫迦之御魂神が祀られている。
◆賀茂氏 『山城国風土記』逸文などの伝承によれば、賀茂氏(鴨氏、カモ氏)は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を奉じて、日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)峯より、大倭葛木(やまとかつらぎ)山に来た。さらに、淀川を遡り、山代(やましろ)国岡田、久我(こが)国北山の基(もと)に到った。その娘・玉依日売(たまよりひめ)は、小川の辺で得た丹塗矢(にぬりや、火雷神<ほのいかづちのかみ>)に感じ、賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと、天神御子<あまつかのみこ>)を産む。この天神御子は、一端天に上がり、御祖神(みおやのかみ、祖父神・賀茂建角身命、生母神・玉依日売)の願いに応え山本(やまもと)に鎮座した。
 豪族の賀茂氏(鴨氏)は、かつて大和葛城にあり、大和政権(大和朝廷)の京都への伸張に伴い古代の京都の北部へ進出した。愛宕郡賀茂郷を本拠地とし、上賀茂神社、下鴨神社の神事に奉仕した。一族には賀茂県主(かもあがたぬし)氏、鴨禰宜(かもねぎ)氏があり、前者は後世、宮廷の陰陽家を世襲していた。
 なお、賀茂神・賀茂氏の大和よりの北上遍歴については、立証する史料はない。神話世界でのことであり、発生史的には異なる神、氏族ともいう。賀茂県主は、鴨川、高野川流域を支配した葛野県主が神官化したものともいう。「カモ」の語源、地名由来については、「神(かみ)」よりの転訛、「川の上(かみ)」よりの転訛、「神山の尾、神尾(かみお)」よりの転訛など諸説ある。 
◆神山 
神奈備山(神体山)である神山(こうやま)は、上賀茂神社の北、さらに2㎞ほどのところにある標高301mの小山。神武天皇の時代(紀元前711?-紀元前585?)に、賀茂別雷大神が降臨した地とされ、山頂はカモのカミの磐座(いわくら)で、巨岩が環状に並ぶ「垂跡石」(すいじゃく)があり、禁足地となっている。その神に仕えたのがカモ氏の未婚女性阿礼乎止女とされ、賀茂斎院制の契機になったとされる。
 5月12日の夜、御阿礼(みあれ)神事が行われ、御休間木(おやすまぎ)に神山から神霊を迎え、本殿のご神体に神威をこめるために行われる。現在は社に近い丸山(153m)で行なわれている。
◆賀茂季鷹
 江戸時代の国学者・歌人の賀茂季鷹(かもの すえたか1752-1842)。賀茂長命。有栖川宮織仁親王に仕え歌を学ぶ。江戸に出て、その後京都に戻る。1788年上賀茂神社の祠官になり、貴船社にも奉仕した。御幸町二條北に住み、門流も栄えた。墓地は小谷墓地(北区西賀茂)にある。
◆摂社・末社 中門内の末社について。末社て杉尾社(すぎおのやしろ、重文)は権殿の前庭に祀られている。祭神は杉尾神。林業の神であり、かつては三ノ鳥居南の「ならの小川」に面して祀られていた。
 末社・土師尾社(はじおのやしろ、重文)は、本殿前庭に祀られている。祭神は賀茂玉依比古命(かもたまよりひこのみこと)で、賀茂県主(かもあがたぬし)、西泥部(にしはにべ)の祖神、陶祖神。美術、工芸、陶器(土器)、食器など物造りの神とされる。式内社、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「土師尾社」に比定されている。
 摂社・若宮神社(重文)は、本殿の東、回廊の北に祀られている。祭神は若宮神、災いから身を守る祓う神。平安時代、1120年に第74代・鳥羽天皇行幸の際に官幣が捧げられた。
◆神宮寺 平安時代、11世紀末、境内には神宮寺があり、多宝塔、観音堂、御読経所、鐘楼などが建ち並んでいた。南北朝時代、1373年に焼失している。平安時代、820年に嵯峨天皇により聖神寺(紫竹)が建立され、江戸時代、1629年に一の鳥居西に移されている。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により堂塔は破却、供僧は廃止になった。 現在、渉渓園の東の森に3個の礎石が残されている。
◆建築 古代以来、下社と異なり、式年遷宮制はなく、壊れた際に造替されてきた。現在のような社殿になったのは平安時代中期といい、社殿の位置は、室町時代以降は変化していないという。中世以降、戦乱で荒廃する。現在の建物の多くは、江戸時代の式年遷宮により造替された。現在、国宝2棟、重要文化財34棟がある。
 本宮の敷地は西にやや傾いている。本宮東の御物忌(おものい、おものいみ)川、西に御手洗(みたらし、みたらい)川が流れる三角州にある。南の「楼門」(重文)は左右に回廊を延ばしている。門内に入ると、東(右手)に「弊殿」(重文)、その奥、さらに東に隣接して「忌子殿(いこでん)」(重文)があり、二つの建物は「取合(とりあい)」(重文)という廊下で繋がれている。西には「高倉殿」(重文)が建つ。
 石段を上がった「中門」(重文)右手に、「棚尾社」(重文)が祀られている。中門東の棟は「東局(ひがしのつぼね、御籍屋<みふだのや>)」(重文)、西は「西局」(重文)と呼ばれる。西端には「楽所(がくしょ)」が続いている。
 中門内に入ると口の字形の「回廊」が建物間を繋いでいる。前庭には白砂が敷かれている。前庭を二分する形で中央北に前廊、さらに「透廊(すいろう)」が繋がる。その先の東(右)に「本殿」(国宝)、西(左)に同様の「権殿(ごんでん)」(国宝)が並立して建てられている。本殿内部には、祭神が祀られ、神器(神服、食器、洗面具など)が奉安されている。両殿の背後、北北西2㎞にご神体の神山(こうやま)が位置している。
 本殿、権殿の左右(東西)に回廊があり、その西端角に神饌を調理する「西御供所(にしごくしょ、西御料屋<ごりょうや>)」、東端角に「東御供所」が繋がっている。本殿東奥、回廊の北に「若宮神社」が祀られている。
 中門より西の前庭の白砂に「杉尾社」(重文)、東には「祝詞屋」、「土師尾社」(重文)、さらに不明の「祠一社」が祀られている。回廊東端に「唐門」が開く。その東、回廊内の中庭に「山尾社」、「新宮神社」(重文)が祀られている。
 祭神を祀る現在の「本殿」(国宝)は、江戸時代、1863年に造替された。正面3間、側面2間、正面に3間の向拝付、三間社流造、素木造、桧皮葺。猪目懸魚。切妻造の正面軒が長い流造は流造様式の起源とされている。この流造は、本殿の規模が小さく、土台立の柱になっており、神の降臨を迎える際に移設し建てられた様式が残されている。正面中央間に板扉、ほかは板扉、四周に高欄付の縁、身舎に繁垂木、向拝に疎垂木。正面両脇間板壁に狩野派による獅子(右)・狛犬(左)の絵がある。獅子は緑色のたてがみ、尾を持ち、狛犬は角があり、たてがみと尾は青く彩色されている。さらに、階上に金銀一対の狛犬がある。伝承があり、応仁・文明の乱(1467-1477)の頃、市中で悪事を働いた獅子と狛犬を封じ込めたものともいう。
 本殿西の「権殿(ごんでん)」(国宝)は仮殿であり、「渡殿(わたどの)」ともいう。本殿の非常時にはこちらで神儀を行う。建物は本殿と同じ大きさ、形状となっている。獅子と狛犬の絵、塑像も同様に置かれている。同じく1863年に造替された。
 かつては、21年毎に式年遷宮を繰り返し、社殿は建て替えられてきた。その理由は、建物の清浄さを保ち、建築技術の継承のためともいわれている。ただ、現在では、建物の多くが国宝、重文指定されているため全面的な造替はできない。そのため、式年遷宮の際には、本殿の屋根のみを葺き替えている。葺き替えに必要な桧皮は、樹齢100年以上のヒノキ大木の皮を使うため、8年ほどかけて資材を集めるという。40㎝から50㎝の厚さに葺き、200万枚の材が必要になる。式年遷宮の際に、祭神は権殿に一時遷される。
 「忌子殿(いごでん)」(重文)は、1628年に造替された。弊殿との間は回廊の「取合(とりあい)」により繋がっている。現在は祈祷殿として使われている。忌子(いご)は斎祝子(いむこ)ともいい、賀茂氏より選ばれた子女で巫女を意味し賀茂斎院に奉仕していた。
 「西御供所」(重文)、「東御供所」(重文)はともに、檜皮葺、切妻屋根、神饌の調理、盛り付けが行われていた。
 「唐門」(重文)は、檜皮葺、切り妻屋根、江戸時代、1628年造営。
 この背後に神体の神山が控える。
◆鳥居 鳥居は京形明神鳥居になる。
◆狛犬・狛獅子 本殿階段上に向って右に金色の獅子、向って左に銀色の角が生えた狛犬が置かれている。狛獅子は陽、太陽、金、左、東を象徴する。左の狛犬は陰、月、銀、右、西を象徴する。このように彩色されたものは、日本に渡来した際の古式を残すものという。
◆庭園 渉渓園(しょうけいえん)は、約500坪の広さがある。かつてこの地には、神仏習合期に神宮寺の池があったという。1960年に現代の作庭家・中根金作(1917-1995)により平安時代後期の庭園が作庭された。この年の浩宮徳仁親王生誕の奉祝事業として行われた「曲水の宴」復活のための造営だった。水は、御手洗川の参流沢田川から引かれている。曲流の周辺に、桜、楓、ツツジ、馬酔木などが植えられている。
 渉渓園の西、川の畔に朝鮮李朝時代の庭園を模した庭があるという。
◆競馬 賀茂競馬(かも くらべうま)は、神社の祭典競馬としては最古といわれている。平安時代、1093年、武徳殿で行われていた競馬を上賀茂神社に移した。これが、日本の競馬発祥とされる。埒内の馬場(200m)を社家の乗尻(のりじり)といわれる騎手二人が競った。
◆不思議 七不思議、不思議の伝承がある。
 ①「楠の化石橋(長寿橋)」は、境内に架かる橋が楠木の化石を用いている。長寿を祈願して橋を渡る。
 ②「物言わぬ神主」とは、神主(神職)は高位であり、精進潔斎の際には一般人と接しなかったことによる。また、近代まで精進頭と呼ばれ、修養期間中は無言を通して参拝したことによる。
 ③「賀茂」の演能、神能は、境内での上演は行われない。祭神が登場することから、神罰により雷に打たれたり、災いが起きたりするからという。
 ④「御扉の狛犬」とは、本殿、権殿の扉の脇に描かれている狛犬で、鎮座する狛犬の影という。里で悪さをしたために、本殿、権殿の扉に閉じ込められたという。
 ⑤「大田沢の杜若」は、摂社・大田神社の杜若をいう。神社の東側に広がる池に手を浸けると手が腐るともいわれた。
 ⑥「賀茂の勝手火」とは、賀茂の社家では、賀茂以外の者には煮物を食べさせなかった。だが、他所に行くと食べたために呼ばれた。その際には、賀茂川で身を清めて帰ったという。また、祭の前は心身を清めるために、台所の火を別に設けたことを意味するともいう。
 ⑦「車返しの桜」とは、御幸の桜であり、江戸時代、1863年、第121代・孝明天皇が行幸の際に御簾を掲げて愛でた、また、花枝を折り鳳輦の中に入れて帰ったともいう。
 そのほかに、「社殿と鳥居」は、摂社末社の社殿も鳥居も、向きが様々になっている。/「みあれ祭のおすず」は、祭礼の時、藤蔓で作られた輪形のおすずをいただくと幸運になるといわれた。/「上賀茂のすぐき」は、他に移すと味が落ちるといわれた。/「手掴みの御料がある」は、太古の遺事という。詳細不明。
葵祭にまつわる木 参道の西にある芝地の馬場に、葵祭の競馬(5月5日)にまつわる目印となる樹木が植えられている。
 競馬では馬は南から北へ向けて、時間差をつけて疾走する。最南の「馬出しの桜」は、競馬の際の2頭の馬の出発点にある。「見返りの桐」は、競馬の乗尻が馬上で姿勢を整え、見返る地点に植えられている。「鞭打ちの桜」は、乗尻が馬に鞭を入れる地点にあたる。また、先立つ足汰式(5月1日)では、乗尻は馬場殿に向かい鞭を3度差し出す。最北の「勝負の楓」は、勝敗の決着をつける地点にあり、その差を測る。
◆源氏物語 紫式部の『源氏物語』第9帖「葵」巻には、賀茂祭(葵祭)の御禊の日、一条大路での葵の上と六条御息所(みやすどころ)の牛車の位置争いの場面が描かれている。
 懐妊した葵の上(光源氏の正妻)と愛人・六条御息所の確執が起こる。葵祭見物で、行粧に参列した光源氏を見ようと車の止める位置を巡って争い、御息所の車は退けられる。見物人の中で恥をかかされた御息所は、生霊になって葵の上に取り憑く。葵の上は病に伏し、息子・夕霧を産み息絶える。
 第41帖「幻」巻では、紫の上を失った光源氏は悲しみ、賀茂祭当日に召人の語らいに寂しさを紛らわす。
 第54帖中「帚木」巻から「若菜」巻に登場する朝顔の姫君は、賀茂斎院の設定になっている。
 第一摂社・片山御子神社(かたおかみこ、片岡社)には、紫式部が恋愛成就の祈願に参詣している。「ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」(紫式部、『新古今和歌集』)
◆名物 境内の西、「やきもち」(葵餅)で有名な神馬(じんば)堂(北区上賀茂御薗口町西)は、1872年に上賀茂神社の神馬小屋の側に茶店を開いたことを始まりとする。上賀茂神社の神紋に因み、葵餅を売っていた。現在の店は、1907年頃に創業された。かつて、御薗橋東詰にあった初代・山本家(1872)より暖簾分けされた。
 餅は、黒砂糖を使った小豆の粒餡を包み、両面を鉄板で焼いている。 
◆映画 時代劇映画「地獄門」(監督・衣笠貞之助、1953年、大映京都)、時代劇映画「続 源義経」(監督・萩原遼、1956年、東映)、時代劇映画「ふり袖捕物帖ちりめん駕籠」(監督・松村昌治、1957年、東映京都)の撮影が行われた。
 現代劇映画「男はつらいよ寅次郎あじさいの恋」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、神馬堂で鴨川で知り合った寅(渥美清)と五条坂の陶芸家(13世・片岡仁左衛門)が一服する。葵祭の場面も紹介されている。
◆川 境内にはいくつかの小川が流れ、水の社になっている。本宮は東の「御物忌(おものい、おものいみ)川」と西を流れる「御手洗(みたらし、みたらい)川」に挟まれている。本宮の北東、神宮寺山の北にある蟻ヶ池、小池を水源(?)とするという御物忌川は、神事で用いる祭器類を洗い清めるために使われた。
 御手洗川は鴨川より柊原で分流し、上賀茂神社境内で「御生所(みあれどころ)川」、「御手洗川」と名を変える。御手洗川は人を清めるために用いられた。
 御物忌川と御手洗川は楠橋と禰宜橋の間で合流後、さらに、「ならの小川」と名を変え南東に流れる。「奈良の小川」、「楢の小川」、「楢小河」、「沢田川」とも呼ばれた。ならの小川に変わる地点について、ニ流の合流後すぐにとも、合流後も御手洗川といい渉渓園を過ぎた辺り、夜具橋からならの小川に変わるともいう。流れは渉渓園へ分流し、他方は沢田川とも呼ばれ東へ向かう。他方は渉渓園内の賀茂曲水宴を南に下り、夜具橋上流で再びならの小川に合流し南下する。境内を出てからは「明神川と名を変え、社家町を東へ流れ一部は再び鴨川に合流する。
 楢の小川、御手洗川は季語になっている。
 大正期まで、鴨川の氾濫に備えて境内には、「蛇籠」(じゃかご)というのが常に置かれていた。筒状の竹篭に石を詰めたもので、洪水の際に太鼓が鳴らされると、蛇籠や樹木を用いて氾濫を防いだという。
 ならの小川では葵祭にあたり、下鴨神社と隔年交代で斎王代がみそぎ神事を行う。また、夏越の神事(6月30日)も行われている。
 小倉百人一首の「ならの小川」について藤原家隆は、「風そよぐ ならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」と、平安時代の神職がみそぎをした際の情景を詠んだ。
 渉渓園で行われる「賀茂曲水の宴」(4月第2日曜日)は、ならの小川からの分水(沢田川)を使い、かつて宮中で行われていた雅が再現されている。
 沢田川では、競馬会(くらべうまえ)の御鞭洗いの儀も行なわれる。この競馬会は、もともとは賀茂の神の祟りを鎮めるために、馬に鈴をつけて走らせたことが起源ともいわれる。
 京都には3つの「有栖川(ありすがわ、斎川)」が流れていたという。賀茂、紫野、嵯峨になる。(『山州名跡志』)。賀茂の有栖川は、上賀茂神社本殿西にあり、南北に流れ、やがて鴨川に合流していたともいう。、
 ならの小川では、ゲンジボタルの放生が行なわれており、近年、ホタルが生息している。5月下旬からホタルの飛翔を見ることができる。
◆自然・森 鎮守の森の久我の森(本山の森)は、76haあり、コナラ、ケヤキ、シラカシ、エノキ、ムクノキ、クスノキ、スダジイなどが見られる。神社の背後にある神山(こうやま、御阿礼山)はご神体になる。南東部には片岡山(片山)の片岡の森が広がり、摂社・片山御子神社のご神体になっている。
 境内の森は、第二次世界大戦までは、本殿奥にさらに広がっていた。戦後、進駐軍に接取され現在はゴルフ場になった。
 葵祭に欠かせないフタバアオイ(ウマノスズクサ科の多年草)は、かつて境内に自生していたという。その後、消滅し、北区の山林から採取している。近年、境内に「葵の森」が開かれ、フタバアオイが栽培されている。近くの上賀茂小学校、市民などにより、栽培に協力する動きも次第に広まった。なお、葵祭では、カツラの枝に2枚のフタバアオイを添えて神前に捧げる。カツラの葉はフタバアオイの葉に似ているため、代用されるようになったともいう。
 境内には、多くの樹木がある。一の鳥居付近にクスノキ、エノキ、ツガ(トガ)、モミ、テーダマツ、表参道にシダレザクラ、ベニシダレザクラ、キリ、ならの小川付近にケヤキ、ツガ、ヤナギ、神馬舎近くにゴヨウマツ(ストローブマツ)、樟橋付近に賀茂桜、本殿近くにタラヨウ、土屋付近にテーダマツ、渉渓園にヌマスギ、スダジイ(睦の木)、須波神社近くにネジキ、神宮遥拝所近くにタラヨウ、藤木社近くのクスノキ(京都市指定保存木)、サカキ、その途中にシャシャンボ、対岸にカゴノキ、楼門近くにタラヨウ、楼門の西にミアレザクラ、社務所近くにカツラ、モッコク、馬場にムクロジ、ムクノキ(区民の誇りの木)、エノキなどがある。イチイガシの大木は区民の誇りの木に指定されている。二の鳥居西、勅使舎の裏に御幸桜がある。ツガは、二の鳥居近くにもある。ほかにセンダンがある。
◆カミガモソウ 日本固有種のカミガモソウ(Gratiolafluviatilis)は、オオバコ科・オオアブノメ属に分類される一年草の一種であり、本州・九州に分布する。
 1920年、上賀茂神社境内で植物学者・牧野富太郎(1862-1957)により発見された。神社拝殿近くの小川沿いに自生していたという。その後、京都府では絶滅した。花期は8月下旬-10月上旬で、白色5裂、大きさは7mmほど。環境省レッドデータブックの絶滅危惧IB類に指定されている。
◆結婚式
 神前結婚式が挙げられる。
◆祭礼  競馬(くらべうま)(5月5日)は、平安時代から続く。下鴨神社とともに行なわれるの賀茂祭(葵祭)(5月15日)、その前、5月12日に行なわれる重要な神事・御阿礼(みあれ)神事がある。
 重陽の節供に行なわれる烏相撲(9月9日)の神事がある。烏相撲は、農耕儀礼の一つと見られている。賀茂建角身命の化身という八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ導いたという伝承により、烏と賀茂社のゆかりは深い。
 「上賀茂やすらい花」(重要無形民俗文化財)(5月15日)は、境内で、疫病を退散させるための祭礼であり、上賀茂やすらい踊保存会によってとり行われる。
◆年間行事 初詣・歳旦祭(0時開門)(1月1日)、初能奉納(1月2日)、三が日(厄除け大根、ぜんざい接待)(1月1日-3日)、通常は非公開の本殿前までの参拝(1月1日-5日)、新年竟宴祭・舞楽奉納(迦陵頻<かりょうびん>)(1月5日)、昭和天皇遥拝式・白馬奏覧神事(神前に七草粥を供え、神馬を曳いて大豆を与える儀式。年始に白馬を見ると一年の邪鬼が祓われるとされ、宮中行事「白馬<あおうま>節会」に因んでいる。)・初卯神事(1月7日)、成人祭(1月9日)、武射神事(裏に「鬼」と書かれた的を射て年中の邪気を祓う。小笠原流近畿菱友会による百手式の奉納。)(1月16日)、節分祭・古神札焼上祭(2月節分)、紀元祭(2月11日)、幸在祭(さんやれさい、摂社大田神社の田の神と山の神に15歳の元服を奉告する。)、燃灯祭(乙子神事)(神職が御阿礼野で小松を引き、玉箒草(燃灯草)を添えて神前に献る神事)(2月2番目の子<ね>の日)、桃花神事(神前に草餅や桃花・辛夷の花を供え、疫病の災いを祓い国家安寧を祈念)(3月3日)、春季皇霊祭遥拝式(3月春分)、摂社社・久我神社春祭(4月1日)、土解祭(とげさい、土の災いを祓い豊作を祈念、卜占で蒔く稲種を決め祓う。)(4月3日)、大田神社春祭(里神楽のちゃんぽん神楽奉納)(4月10日)、賀茂曲水宴(斎王代陪覧の下、歌人によって和歌が詠まれ披講される。)(4月第2日曜)、末社・半木社春祭(4月20日)、摂末社春祭(4月21日)、植樹祭(4月29日)、競馬会足汰式(5月1日)、賀茂競馬(5月5日)、御禊の儀・御掃除祭・神御衣献進祭(5月12日)、献茶祭(5月17日)、御阿礼神事(6月1日)、賀茂祭(葵祭)(6月15日)、献茶祭(6月17日)、賀茂御戸代能(かもみとしろのう、孝謙天皇寄進の神田の植え付けが終わったことを祝い、虫害駆除、農民慰労の能と狂言奉納される。)(7月1日)、斎王代御禊(7月4日)、御田植祭(7月10日)、水無月大祓式・夏越神事・夏越祓式(人形を投じ半年間の罪穢を祓い清める)(7月30日)、御戸代会神事(みとしろえじんじ、田の害虫の発生を防ぐ祈願の神事)・賀茂御戸代能(9月1日)、烏相撲内取式(9月8日)、烏相撲内取式・重陽神事(9月9日)、秋季皇霊祭遥拝式(9月秋分)、賀茂観月祭(9月中秋)、交通安全祈願大祭(9月交通安全週間)、摂社・久我神社秋祭(10月1日)、明治祭・久我神社神幸(11月3日)、大田神社秋祭(11月10日)、御禊の儀・御掃除祭・神御衣献進祭(10月12日)、相嘗祭(71座の神々に新穀を奉られたとされる祭儀。)(11月13日)、半木社秋祭(11月20日)、摂末社秋祭(11月21日)、新嘗祭天長祭(11月23日)、御禊・大祓式・除夜祭(12月31日)。


*年間行事の中止・日時変更、拝観中止・時間変更の場合があります。
*ほぼ一般的な順路に従い案内しています。祭事は日時の変更、中止の可能性があります。一部の建物、建物内は撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古社賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』『京都古社寺詳説 平安前期編』『上賀茂神社』『上賀茂のもり・やしろ・まつり』『京都・山城寺院神社大事典』『京都・世界遺産手帳 上賀茂神社』『京都市の地名』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 下』『鳥居』『お参りしたい神社百社』『京都大事典』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『紫式部と平安の都』『京都はじまり物語』『シネマの京都をたどる』『日本映画と京都』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『源氏物語を歩く旅』『京都絵になる風景』『京都のご利益手帖』『京都ご利益徹底ガイド』『京の怪談と七不思議』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古寺名刹巡礼の旅3 賀茂川の道 京都』


  上賀茂社家町・西村家      大田神社      岡本やすらい堂(上賀茂やすらい祭り)      周辺       下鴨神社       葵祭      葵祭・前儀式     関連八坂神社      関連城南宮      関連松尾大社      関連平安神宮      貴船神社           
丸山149m、小丸山137m

川の流れ、名称の変化
            御物忌川
               ¦→ならの小川→明神川→  
鴨川→御生所川→御手洗川

新宮門(重文)、本殿の東端に位置している。檜皮葺、切妻屋根、四脚門。板塀は透塀(西は重文)。神地内正面に、新宮神社、左に山尾社が祀られている。


唐門


東御供所



摂社・新宮神社の拝殿・本殿(重文)、当初は鎌倉時代、1267年に建立されたという。江戸時代、1628年に造営。
 拝殿の奥に本殿がある。祭神は高おかみの神を祀る。貴船神社より分祀した。水を司り、心身健全、若返りの神。

末社・山尾社(やまおのやしろ)、祭神は大山津美神(おおやまつみのかみ)、包み覆い守る山の神、幸せを授け、交通安全の神。 

伊勢神宮遥拝所

末社・川尾社(重文)、祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)。御物忌川を守る神、水の神。

片岡橋(重文)、江戸時代、1628年造営、御物忌川に架かる木造廊橋、唐破風屋根、檜皮葺。

第一摂社・片山御子神社(かたおかみこじんじゃ/かたやまみこじんじゃ、片岡社<かたおかのやしろ>)の拝殿。(重文)、割拝殿になっている。
 本殿(重文)は拝殿の奥にある。式内社、平安時代の『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「片山御子神社」に比定されている。片岡社、片岡森、鶴カ岡ともよばれたという。24摂社中の第1位の社格を有する。祭神は賀茂県主族の祭祀権を握る巫女としての玉衣日姫(賀茂別雷神の母神)。また事代主神ともいう。この地域の地主神。
 本宮のすべての祭祀は、まずこの社に奏し、祭儀は玉衣日姫の名によって執り行われる。重要な社とされている。すでに平安時代、856年『文徳実録』に名がある。1017年に正二位を与えられた。(『小右記』)
 社の後ろにかつて、「よるべの水」をたたえた甕三個があったというが、天正年間(1573-1593)に地下に埋められたという。
 「"賀茂にまうでて侍りけるに、人のほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの片岡の梢をかしく見え侍りければ" ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」(紫式部、新古今和歌集)『紫式部日記』(1008年11月1日)に宮中で詠まれたとの記述。 御鈴は、良縁祈願の神鈴が2本の綱に30個付けられている。

片山御子神社本殿


片山御子神社


玉橋(たまばし、重文)、江戸時代、1628年造営の木造反橋、1937年造営ともいう。高欄、擬宝珠付、木橋。神事には神職のみが渡り、楼門に向かう

摂社・須波神社(すわのやしろ、重文)、5柱一座。式内社、平安時代の『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「須波(すはの)神社」に比定されている。中古以来、諏訪神社とも呼ばれた。その後、中絶、現在地に遷して再興されたともいう。
 祭神の阿須波神(あすはのかみ)は、太古よりの神域の敷地を支配する神。また、建御名方神(たけみなかたのかみ)ともいう。波比祇神(はひきのかみ)は本宮前庭の守護神。生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)は御物忌川、御手洗川の守護神。

岩上(がんじょう)大岩が露岩しており磐座(いわくら)とされている。葵祭の際、宮司が勅使に対して蹲踞(そんきょ、体を丸くしてしゃがむ、膝を折り立てて腰を落とした立膝)して返祝詞(かえしのりと)を申すところ、原初神道の形を残している地といわれている。

禰宜橋(ねぎばし)、御手洗橋に架かる橋、橋殿の左手にある。2003年に架けられた。神事の際に神職が通る。

祝橋(ほうりばし)、御手洗橋に架かる橋、橋殿の右手にある。ヒノキ材。

末社・岩本社(いわもとのやしろ、重文)、川沿いの岩上に祀られている。祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、祓いの神、海上安全守護神、港の神、河瀬の守護神。
 俗信として平安時代の貴族・歌人の在原業平(825-880)を祀ったともいわれる。平安時代から鎌倉時代の吉水和尚(慈円、1155-1225)が「月をめで花をながめしいにしえのやさしき人はここにありはら」と詠んだ。この逸話は、『徒然草』中にも取り上げられている。



 

摂社・賀茂山口神社の拝殿。 

摂社・賀茂山口神社の本殿(重文)、沢田神社ともいう。式内社、平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「賀茂山口神社(澤田社)」に比定されている。
 御歳(みとし)神を祀る。また保食神ともいう。田の神、山の神。本宮御田、神領地の田畑守護の神。成長、育成をつかさどる神。また、森を守護する神ともいう。御田植祭(6月10日)では、神事後、前の沢田川に早苗が投じられる。

賀茂山口神社



渉渓園、かつてこの地には、神宮寺の小池があったという。1960年、中根金作により作庭され、平安時代末期の庭が再現された。1993年から1994年にかけて再び整備された。水は、御手洗川の参流沢田川から引かれている。曲水の宴では、管弦の弾吹奏のもと詩歌の吟詠が催され、平安朝の神遊びが再現される。また周辺でフタバアオイを自生させる試みも行われている。





願い石(陰陽石)、渉渓園にかつて龍が棲んだという池があり、池底より出土した。石には陰と陽が融合しているとされ、両手で同時に石を触れ、賀茂山口神社に参拝する。


渉渓園のスダジイ、樹齢300年以上の大木。株から枝分かれしており睦(むつみ)の木とされる。家族の絆、家内安全の信仰がある。

神宮寺礎石、賀茂山口神社の東の森の中に3個の礎石が残されている。この礎石は最大のもので49cm×40cm。

神宮寺の基壇跡、境内の森に2つ残されている。平安時代、820年に嵯峨天皇により創建され、近代以前までこの地にあったという。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により廃寺になった。

夜具橋、ならの小川に架かる。江戸時代、社務所は庁屋付近と北神饌所、西局の直会所に分かれていた。夜を徹した社務の際に、夜具を運び橋を渡ったことから名付けられたという。この橋より上流を御手洗川、下流よりならの小川と呼ぶともいう。

李朝式庭園


摂社・奈良神社の本殿(重文)、祭神は奈良刀自神(ならとじのかみ)、北神饌所での神饌の盛り付けの際に、楢の葉を閉じて用いていたことから祀られた。散飯(さば)神、朝夕の御前、神供、飲食、料理を司り給う神。 
 下は拝殿、隣接する神饌所に取り込まれている。


奈良神社、獅子口の双葉葵の紋



北神饌所(庁屋、ちょうのや)、かつての神饌調進所、神への供え物を調理していた御殿になっている。中古の頃、政所として兼用していたため庁屋ともいう。競馬会神事では乗尻(のりじり)の勧盃の儀、御戸代能(みとしろのう)では能の奉納される。
 江戸時代、1628年造替、桧皮葺、入母屋造。
 

神事橋(奈良橋)、ならの小川に架かる。安土・桃山時代、1590年に架けかえられ石橋になった。御影石製の反り橋。

藤原家隆歌碑
「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」

「ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」紫式部歌碑、鞍馬石。
「賀茂にまうでて侍りけるに、人のほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの片岡の梢をかしく見え侍りければ  ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」(紫式部、新古今和歌集)『紫式部日記』(1008年11月1日)に宮中で詠まれたとの記述。


校倉(あぜくら、重文)、三手(みて)文庫が保管されている。江戸初期の国学者・今井以閑(1657-1723)の蔵書による。社家のうちのひとつを三手といい、その氏人により共有保管されている。今井以閑は、京都の富豪今井家の3男。隠居後、木瀬三之、下河辺長流、契沖に教えを請う。万葉集考証し、注釈書『万葉緯』(20巻)をまとめる。契沖の手沢本、写本などを三手文庫に奉納した。墓所は黒谷にある。

末社・山ノ森社、式内社、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座大八座小十三座」の「鴨岡太神社」に比定されている。祭神は素箋鳴尊(すさのおのかみ)、稲田姫神(くしいなだひめのかみ)、田心姫神(たごりひめのかみ)。疫病祓い、病気平癒守護の神。農業神、邪気祓いの神。 

末社・梶田社、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)、祓戸の神、かつては、お祓いの後本社に参拝していた。

勅使館

酒殿橋、橋板の裏に江戸時代の伊藤仁斎の撰文、子・東涯の銘文が刻まれている。葵祭りでは、乗尻が騎乗し渡る。



檜皮葺の葺き方、下より部材として地垂木(化粧垂木)、茅負、裏甲、裏板、野垂木、呼び出し野地板、葺く部分は下先端より軒付皮、軒胴縁、上目皮、平葺皮(葺き足1.2cm、葺き厚9cm)など。

丸山(中央の小山、149m)、西麓に「御阿礼所、御生所、みあれ所」がある。
神奈備山(神体山)である神山(こうやま)は、上賀茂神社の北、さらに2㎞ほどのところにある標高301mの小山。山頂はカモのカミの磐座(いわくら)で、巨岩が環状に並ぶ「垂跡石」(すいじゃく)があり、禁足地となっている。5月12日の夜、御阿礼(みあれ)神事が行われ、御休間木(おやすまぎ)に神山から神霊を迎え、本殿のご神体に神威をこめるために行われる。現在は社に近い丸山(153m)で行なわれている。

【参照】神山(こうやま)、上賀茂神社の北西2㎞ほどのところにある。上賀茂神社からは見えない。

鎮守の森、片岡山、賀茂山、二葉山、日蔭山ともいわれた。片山御子神社のご神体であったという。

フタバアオイ、境内に植えられている。

フタバアオイの花、実生、株分けでも増える。

御手洗川(左)と御物忌川(右)は合流し、ならの小川(手前)となる。

御物忌川

土屋、桧皮葺入母屋造、祭典奉仕の祓い所、ならの小川。

ならの小川。社では、ゲンジボタルの放生が行なわれている。そのため、例年6月初旬から、ならの小川でゲンジホタルが舞う様子を目にすることができる。


ならの小川
 樹木


御所桜




斎王桜


樹齢250年のイチイガシ

馬場脇に生える「見返しの桐」は、この地点で競馬会(くらべうまえ)の際に、乗り手が馬上の姿を整える。ほかに、出発点に立つ「馬出しの桜」、鞭を入れる「むち打ちの桜」、勝敗が決する地点にある「勝負の楓」など、競馬会に関して目印となる場所には樹木が植えられている。

境内背後の山では、最近京都市内でも被害が拡大しているカシノナガキクイムシによる広葉樹の樹木枯れに対応するために、生物分解性の防虫シートが施されていた。(2007)

葵の森葵祭に欠かせず上賀茂神社の神紋ともなっているフタバアオイ(二葉葵)保護、再生の試みも始まった。かつては、境内に広く自生していたという。

境内に展示されているすぐき漬けの風景

【参照】江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」(京都市歴史館蔵)の複製、京都アスニー

【参照】六条御息所の牛車、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製、京都アスニー

【参照】光源氏、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製、京都アスニー
祭事

武射神事(1月16日)、裏に「鬼」と書かれた的を射て年中の邪気を祓う。続いて大的式、百手式の奉納。

紀元祭蹴鞠奉納(2月11日)

6月30日、ならの小川で行われる夏越大祓(なごしのおおはらえ)・人形(ひとがた)流しによって半年の罪・穢を遷す。

夏越大祓、茅輪(ちのわ)のくぐり、穢れを祓い無病息災を祈る。

烏相撲

烏相撲

社の西、「やきもち」(葵餅)で有名な神馬(じんば)堂、北区上賀茂御薗口町西 要予約 075-721-0090 075-781-1377
平安京オーバレイマップ
 上賀茂神社 〒603-8047 京都市北区上賀茂本山339  075-781-0011  9:00-17:00

より大きな地図で上賀茂神社を表示
   Home       Home   
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp