北白川廃寺跡 (京都市左京区)
The ruins of Kitashirakawa-haiji Temple

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北白川廃寺金堂の瓦積基壇遺構の一部、京都大学総合博物館東、2段の地覆石の上に半裁(裁断したもの)の平瓦を28段重ねていた。
 基壇は、建物の土台部分で、建物の不等沈下を防ぐ、雨水の侵入を防ぎ建物を守る、特別な建物であることを視覚的に示すなどの役割があった。もとは百済から伝えられ、畿内の渡来系氏族の多い地域で、おもに白鳳時代に普及した。


瓦積み基壇遺構、丸瓦の小口は、この遺構では3カ所ある。これは湿気を抜くためとも、装飾のためともいう。


北白川廃寺伽藍配置予想図



左京区北白川大堂(だいどう)町、大堂町の町名は、1934年に瓦積基壇の発掘、発見に伴い名付けられたものという。
 白川通の東西に古代寺院の北白川廃寺の大規模な遺構が見つかっている。寺院は、粟田氏の氏寺だったとみられている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代(白鳳時代、7世紀後半)、創建されたとみられている。粟田氏の氏寺である粟田寺だったともいう。
 平安時代、794年、平安京遷都以降も存続したとみられている。
 平安時代、9世紀前半、塔は石積基壇に改装されている。
 平安時代末期、廃絶したとみられている。
 近代、1934年、区画整理事業の際に、金堂の瓦積基壇が発見され、大量の瓦が出土した。
 現代、1980年、回廊とみられる柱列が見つかる。
 1995年、塔跡より乱石積基壇、その内に瓦積基壇が見つかる。
 2004年、回廊であることが確定される。
◆遺跡 境内には北より金堂、中門、さらに南門があり、金堂は回廊で囲まれていたとみられている。金堂の西に塔があったとみられている。
 発掘された金堂瓦積基壇(高さ1.2m、東西36.1m×南北22.8m、828㎡)は7世紀では最大規模であり、地方寺院として破格の規模だったという。基壇南北辺中央に石の階段が付けられていた。
 その西、現在の白川通を隔て、80m離れて塔跡(左京区北白川東瀬ノ内町)が見つかっている。正方形の基壇跡(13.6m四方)が確認され、塀に囲まれていたと推定されている。金堂と塔の基壇の南縁がほぼ一直線上に並立してあり、同笵の軒丸瓦も発見された。塔は金堂に遅れて建てられたとみられている。ただ、金堂と塔の距離が離れ過ぎていることから、別の寺院とする見方もある。
 瓦には官営窯の小野瓦窯(がよう)、栗栖野(くるすの)瓦窯のものが使われ、寺院は朝廷との関わりがあったとみられている。
◆粟田氏 北白川から南禅寺付近にかけて愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷が置かれていた。大化改新(645)から奈良時代には粟田氏の影響下にあった。
 
粟田氏は、第5代・孝昭天皇(前506- 前393)皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とするとされる。皇子はほかに春日氏、大宅(おおやけ)氏、小野氏、柿本氏ら中央豪族の祖ともいう。
 粟田氏は鉱物を穿ち、粟や瓜を主食としたという。一族には、飛鳥時代に遣唐使として渡唐、中納言となった粟田朝臣真人(?-719)がいる。


*参考文献 『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』 


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この付近(左京区北白川大堂町)に金堂があったとみられている。金堂は住宅と道を跨いで建っていた。
北側から南を見ている。奥(南)の御蔭通に向け、中門、南門が南北に直線上に建っていたと推定されている。
金堂の右(西)に、白川通を隔てて塔が建っていた。金堂は傾斜地の上方に、塔は下方になる。
平安京オーバレイマップ
 北白川廃寺金堂附近 京都市左京区北白川大堂町   

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