大宅廃寺跡 (京都市山科区)
The ruins of Oyake-haiji Temple
大宅廃寺跡  大宅廃寺跡
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「この付近 大宅(おおやけ)廃寺跡」の石標、大宅中学校正門内正面にある。


大宅中学校の校舎、敷地は寺域南辺にあたるとみられている。




東の醍醐の山並み
 名神高速道路の南、山科の大宅(おおやけ)中学校校門内に「大宅(おおやけ)廃寺跡」の石標が立っている。境内の西にはかつて、大和と東国を繋ぐ重要路の古北陸道が通じていた。
 大宅寺は、飛鳥時代の藤原宮(694-710)造営に関わりある古代寺院であり、中学校敷地を含む北東一帯にあったとみられている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代(白鳳時代)、創建されたとみられている。
 平安時代前期(9世紀後半-10世紀前半)、全焼している。
 その後、小規模な堂が再建されたとみられる。
 近代、1917年から1940年、史跡名勝天然記念物調査が行われる。
 現代、1958年、大宅で、名神高速道路建設に伴い、伽藍跡、基壇(「中央建物」「北方建物」)、寺院造営に関連する被葬者とみられる円墳が発見された。
 1985年、市立大宅中学校の新設に伴い、発掘調査が行われ、雨落溝が見つかった。
 2004年、南西建物の瓦積基壇東辺、水煙一部が発見された。
◆遺構 伽藍配置は南に中門があり、その北、左(西)に金堂(南西建物)は瓦積みの下成基壇のある二重基壇になっていた。右(東)に塔(南東建物)、その北に講堂(中央建物)が配置されていた。それらは築地塀に囲まれていた。その塀外北に4室のある僧房(9間×4間、北方建物)があったとみられている。また、僧房東に祭殿風建物が建ち、僧房西20mに横穴式石室墳・円墳(直径13m)が確認された。寺院造営に関連する被葬者が葬られていたとみられている。
 廃寺跡から発見された軒瓦は当初、小山廃寺式軒瓦・重弧文軒平瓦であり、後に小山廃寺式軒瓦・藤原宮式軒平瓦の組み合わせに変わった。この軒平瓦は、藤原宮の瓦と同笵瓦であり、飛鳥時代の藤原宮(694-710)に先んじて使われていた。藤原宮の瓦が大宅寺の瓦文様を手本として作られていたこともわかった。
 遺構の南300mに使用した瓦を焼いた登窯跡(大宅瓦窯)が見つかっている。北には8世紀の平窯跡も見つかっている。
◆大宅寺 大宅寺は、この地を地盤とする豪族、大宅氏の氏寺だったとする説が最有力とみられている。
 また、政治家・中臣鎌足(614-669)が、正妻で歌人の鏡女王(かがみのおおきみ、?-683)の病気平癒のために建立した山階寺(やましなでら、山階精舎)ともいわれる。その後、藤原京へ移され厩坂寺(うまさかでら)となり、さらに平城京に移され奈良・興福寺の前身となったともいう。
 また、平安時代前期の大領・宮道弥益(生没年不詳)が妻のために建てた御堂ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都・山城寺院神社大事典』


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 「大宅廃寺跡」の石標・大宅中学校 〒607-8175 京都市山科区大宅鳥井脇町  075-573-3067
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