許波多神社 (宇治市木幡)
Kohata-jinja Shrine
許波多神社  許波多神社
50音索引  Home 50音索引  Home









二の鳥居




拝殿


 宇治の木幡(こはた)の許波多神社(こはた/こばた じんじゃ)は、旧奈良街道に面している。古代から中世にかけては、広大な旧巨椋池の北東の周辺水域に位置していた。境内の南西、五ヶ庄古川の同名の許波多神社とはかつて同一の神社だった。 
 主祭神は、正哉吾勝々速日天忍穂耳(まさかあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと)、相殿に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)を祀る。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中、「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「許波多神社三座」の一つに比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、645年、第35代・皇極天皇の夢告、「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」を受け、中臣鎌足が命じられ、木幡荘、山背国兎道郡許畑柳山に神殿を造営したという。現在地の北西、東宇治(伏見区桃山南口)の許波多(木幡、許の国)に祀られたため、許波多神社、また木幡神社と号したともいう。
 671年、壬申の乱(672)を前に、大海人皇子が大津宮から吉野に向かう際に、皇子は社頭に柳の枝を挿し「我に天位を践まば、この柳、芽を出すべし」と戦勝を祈願したという。
 673年、大海人皇子が第40代・天武天皇に即位し、柳の枝が芽を出した。天皇はその霊験を賛え「柳大明神」の名を贈り、社領を寄進したという。また、当初は五ヶ庄東部の柳山(大和田柳山、五ヶ庄三番割東山柳山、現宇治市黄葉運動公園付近)に祀られていたことから、柳明神と通称され正式の社号となったともいう。以後、歴代天皇より勅使参内、奉幣、官幣寄進があり、社殿の造営、修理が行われる。
 『山城国風土記』(713)逸文中に、「宇治郡、木幡社 祇社、名天忍穂長根命」と記されている。
 平安時代、9世紀から10世紀、現在地の東南、木幡東部丘陵地の社(宇治郡五条七里上提田外里、十七坪、十八坪、現在地の東南700-800mの字南山南西部付近)より現在地に移されたともいう。(『東大寺東南院文書』中「山城国字治郡司解」、『京都府の地名』で指摘)
 859年、従五位上の神階を授けられる。(『三代実録』)
 927年、『延喜式神名帳』に式内大社として記されている。
 応保年間(1161-1163)、分祀したともいい、他方も許波多神社(宇治市五ヶ庄古川)と称し現在もある。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、公家、武家の信仰を集める。
 近代、1908年、木幡北部の旧河原村の田中神社を合祀、天照大御神、天津日子根命も祭神とした。近代以前は、柳大明神と呼ばれたが、近代以後、許波多神社に改めた。
◆天武天皇 飛鳥時代の第40代・天武天皇(てんむ てんのう、?-686)。舒明(じょめい)天皇皇子。母は宝皇女(皇極・斉明天皇)。天智天皇の同母弟。大海人皇子と呼ばれた。672年、天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)との皇位をめぐる壬申の乱に勝利し、673年、飛鳥の浄御原宮で即位した。皇親政治、天皇中心の政治をとり、飛鳥浄御原令(りょう)、八色(やくさ)の姓(かばね)などを制定した。『日本書紀』、『古事記』の編纂を手掛けた。神道を整備、国家仏教を推進した。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇ともいう。皇后はう野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)。 *「う」は「盧+鳥」
◆柳大明神の伝承  飛鳥時代、671年1月、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命する。大海人皇子は朝廷から疎外される。10月、天智天皇の病が重篤となり、天皇は大海人皇子を病床に呼び寄せ後事を託す。だが、大海人皇子は、使者・蘇我安麻呂の忠告を受け、倭姫皇后(天智天皇皇后)が即位し大友皇子が執政するよう薦めた。その日すぐに自らは出家し吉野に下った。天智天皇は、大友皇子に皇位継承を望んでいたともいわれている。
 大海人皇子は、大津の宮より吉野に向かう途中、当社前で馬が先に進まなくなる。皇子は鞭の柳枝を瑞垣の傍の土中に挿し込み、神明の冥助を祈願したところ、馬が急に進んで無事に吉野に到着することができたという。
 大海人皇子は、672年の大友皇子との皇位継承争いである壬申の乱に勝つ。翌673年1月に飛鳥浄見原宮で、第40代・天武天皇に即位した。その後、当社の柳枝も大きく繁茂したことから、神明の御加護と叡感あるとして、この神柳に正一位官幣を寄進したという。以後、社号は柳大明神と称し、近代以前まで続いた。
◆墳墓 境内西には「狐塚」と呼ばれる宇治陵第36号墳墓がある。平安時代前期の公卿で、人臣最初の関白となった藤原基経(836-891)の墓といわれている。
◆源氏物語 『源氏物語』第47帖「総角(あげまき)」巻で、光源氏の次男・薫、孫・匂宮が都より宇治の女性に逢うために通った道筋にあたると見られている。
 匂宮は、中の君と結婚後、帝に外出を禁じられる。中の君の姉・大君は、妹に結婚を勧めたため、心労によりやがて亡くなる。
◆木像許波多 木幡(こはた)と許波多(こはた)の地名由来については諸説ある。
 木幡は、古く山科郷に属していた。木幡とは、「鍬で開いた田」、「コハ田という田」、「新たに鍬をおろして開いた田(鍬田、くわた)」の意味であり、後に「強田(こはた)」、「木幡(こわた)」に転訛したともいう。
 許波多とは、一帯がかつて「許(こ)の国」と呼ばれ、木幡付近の端(はた、幡)にあったためともいう。
◆年間行事 例祭(11月11日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都府の地名』『京都古社寺辞典』『源氏物語を歩く旅』『京都の地名 検証2』『紫式部と平安の都』


  関連・周辺      周辺      関連許波多神社(宇治市)      関連三井寺(園城寺)(大津市)           

拝所

本殿

右より市杵島神社、稲荷神社、愛宕神社

八幡宮社

天照皇大神宮

春日神社

クスノキの巨木

宇治陵

宇治陵
 許波多神社 〒611-0002 宇治市木幡東中1  0774-32-0482
  Home     Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp