篠村八幡宮 (京都府亀岡市)
Shinomura-hachimangu Shrine

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華表額「八幡宮」、現在のものは1996年、以前のものは江戸時代、1711年。






拝殿


拝所、本殿、一間社流造




乾疫神社、拝所、例大祭(1月19日)、厄除け、病気平癒、健康、家内安全の信仰を集める。1反の紅白反物を9枚に切り分け、奉献者氏名・生年月日を記入し、当社を始め9社の鈴の緒に添える習わしがある。


乾疫神社、本殿


稲荷神社


稲荷神社、年代不詳、伏見稲荷大社から勧請された。1984年に改築。


祖霊社、歴代神職御霊、1977年に靖国神社から勧請した太平洋戦争の55柱の戦没者を合祀した。慰霊祭(8月第3、第4日曜日)。
 亀岡市の篠村八幡宮(しのむらは ちまんぐう)の東に、太古から江戸時代中期まで使われた山陰街道(京街道)が通じている。また、正面の大鳥居は、新道・異人街道に面している。丹波国と山城国の境に位置し、古くより交通の要衝地になっていた。 
 境内は広大で3000坪(9917㎡)ある。室町幕府を開いた足利尊氏(高氏)が挙兵した地として知られている。
 祭神は、 誉田別命(ほむだわけのみこと)、その父の第14代・仲哀天皇、母・神功皇后。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、延喜年間(901-929)以前より、この地で疫神祭が執り行われ、その後、疫神社が祀られたとみられている。
 1071年、 第71代・後三条天皇の勅宣により、河内国の誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)より、都の守護のため分霊が勧請されたという。河内国の源頼義が創建したという。また、卜部兼延が奉行し鎮座したともいう。
 1072年、 源頼義が篠村庄を寄進する。
 文治年間(1185-1190)、この地、丹波篠村が松尾・最福寺の延朗の領知となる。源氏一族の延朗が当宮を創建したともいう。
 鎌倉時代、1333年、元弘の乱が起こり、足利尊氏が戦勝祈願の願文を奉じ、当宮で挙兵する。(『梅松論』『太平記』『難太平記』)
 1335年、別当職、社領が僧・理智円に与えられている。(「御判御教書」)
 1351年頃、尊氏により社殿が建立されたとみられる。また、別当職は醍醐寺三宝院に戻されたともみられる。(「醍醐寺文書」)。以後も、醍醐寺との関係があったという。
 南北朝時代、1336年、尊氏が後醍醐天皇と決別した際に、北畠顕家軍に敗れ当宮に立ち寄る。尊氏は社領を寄進し、一時九州へ逃れた。
 1349年、尊氏が参拝している。
 1362年頃、東寺の鎮守八幡宮に付せられていた。(「東寺百合文書」)
 室町時代、足利将軍家より荘園寄進が相次ぎ、社運大いに栄える。境内域は王子村、山本村にも及び、神宮寺、社殿など30余を有していたという。
 1439年、供御所、神宮寺が造営され本尊が安置された。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、明智光秀の丹波平定に伴い、損壊した。
 1582年、6月、明智光秀の軍勢1万3000は、亀山城を出発し、この地で重臣に対し本能寺を宿所にしていた織田信長への謀反を告げたともいう。
 江戸時代、源氏を称した亀山藩主・松平氏の直轄神社となる。
 寛永年間(1624-1643)、亀山城主・菅沼定芳により社殿が造営される。
 1652年、亀山城主・松平忠晴により現在の大鳥居が寄進された。
 1677年、亀山城主・松平忠昭により社殿が改作される。
 1702年、亀山城主・井上正岑が社殿を改修した。
 1728年、亀山城主・青山俊春が社殿を改修する。
 近代、1908年、本殿の改修が行われ、檜皮葺屋根の葺替えが行われる。
 1923年、現在の拝殿が建立された。
 現代、1980年、本殿屋根を銅板葺に改修する。
 1986年、境内全域が「足利尊氏旗挙げの地」として、亀岡市の史跡に指定された。
 2000年、疫神社の改修にともない神靈を仮遷座した際に、樟日命(しょうびのみこと)と伊勢系の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の神籬(ひもろぎ、依代)が祀られていることが判明した。
 2006年、尊氏の「願文」と「御判御教書」が京都府文化財に指定された。
◆源頼義 平安時代中期の武将・源頼義(みなもと の よりよし、988-1075)。河内源氏初代・頼信の嫡男として河内国に生まれる。弓の達人として知られる。1030年、父とともに平忠常の乱(長元の乱)を平定、河内源氏2代目として東国への進出を図る。陸奥守・鎮守府将軍となり、1051年から前九年の役で安倍氏と戦う。その後、安倍氏を討つ。だが、陸奥守への再任に失敗し帰京した。壷井八幡宮(羽曳野市)、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮前身)を創建した。
◆足利尊氏 鎌倉時代-南北朝時代の武将・足利尊氏(あしかが たかうじ、1305-1358)。高氏。源頼朝同族の家に生まれた。第96代・後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の元弘の乱(1331-1333)に対し、尊氏は討伐の幕命を受けるが、後に六波羅探題を急襲し、その後幕府は滅亡した。1333年、後醍醐天皇自ら政治を行った建武新政により尊氏は厚遇され、天皇の諱(尊治)の1字を与えられ尊氏と改名する。だが、天皇は尊氏を牽制した。1335年、北条氏残党の鎌倉掃蕩を契機に天皇と対立、後醍醐天皇の軍との攻防の後、持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位で天皇と和睦した。1336年、建武式目を制定し、室町幕府を開く。1338年、征夷大将軍となる。天皇は吉野で南朝を開き、討幕を呼びかけた。幕内では、尊氏・高師直ら武将派と弟・直義らの官僚派との対立に、やがて南朝軍も加わる争乱となる。尊氏は畿内と周辺の鎮定をするが病死する。
◆当八幡宮と尊氏 当八幡宮は足利尊氏と関わり深く、尊氏は3度立ち寄っている。
 1324年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画である「正中の変」の失敗後、1331年、再度の倒幕計画「元弘の乱」も失敗する。天皇は再び挙兵したが、捕えられ、1332年に隠岐島に流された。1333年、天皇は隠岐島から脱出し挙兵する。
 1333年4月27日、尊氏は京都に入る。尊氏は、幕府により天皇の追討のために派遣されていた。だが、船上山に滞在していた後醍醐天皇の詔勅により、幕府に反して後醍醐方につく。久我畷の戦いで幕府軍の大将・名越高家の討死後、当日、丹波国篠村に一旦兵を引く。当八幡宮一帯に布陣を敷き、4月29日、当八幡宮で旗揚げをし、兵を募る。5月7日、「朝敵北条氏を打倒する」として老ノ坂を越え京都に入り、六波羅探題を攻めた。
 天皇は、建武の新政を開始する。その後、天皇から離反した尊氏に対して、天皇は新田義貞に追討を命じる。尊氏は九州へ落ち延びるが、1334年に立て直し、光厳上皇の院宣を得て新田義貞と楠木正成の軍を破る。尊氏は光明天皇を新天皇に擁立し、幕府を開設した。
 1336年1月30日、尊氏は、北畠顕家軍との攻防戦に敗れる。2月1日にかけて当宮に立ち寄り、敗残兵をまとめて九州へ逃れた。
 1349年、尊氏は征夷大将軍解任の前年に当宮に参詣を果たしている。
 境内には、尊氏ゆかりの史跡がある。1333年4月27日、尊氏は境内一帯に布陣し、出陣した5月7日までの間に倒幕の兵を募った。呼応した近郷、全国の武将が本営の目印としたのが、掲げられた源氏の大白旗だった。旧山陰道に面して立っていた楊に、「二つ引両」の家紋が入った旗を掲げた。(『梅松論』)。久下時重以下、長澤、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部などが参じた。その数は23000騎だったという。(『太平記』)。場所は「旗立楊(はたたてやなぎ)」として境内の北、楊の木のもとに残されている。
 1333年4月29日、尊氏が奉納した真筆の願文がある。尊氏は玉串に代え、合戦開始合図に使う鏑矢(かぶらや、射ると音がする)を奉納した。実弟・直義らの武将が次々と鏑矢を奉じ、吉良、石塔、仁木、細川、今河、荒川、高、上杉らの武将が続いた。それらの矢は社前に山のように積まれたという。(『太平記』)。その跡は、境内本殿左手に「矢塚」として残されている。
◆乾疫神社 当宮に祀られている乾(いぬい)疫神社の祭神は、建早須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)。創建の詳細は不明。
 日本最古の疫神社の一つとされる。平安時代前期、延喜年間(901-929)に朝廷により畿内10か所で疫神祭がおこなわれた厄除けの神社のひとつともいう。(『延喜式』)。疫神は5畿内に10か所あり、山城に6か所、山城と丹波の国境にあった1か所に該当するともいう。(『雍州府志』、江戸時代、1686年)。平安時代、994年頃、紫野今宮神社、石清水八幡宮と同時期に疫神社も建立されたともいう。旧山陰街道より平安京に侵入する疫病、悪霊、怨霊の類を防ぐために、勅願により建立されたという。かつては峠に祀られていたが、後に境内に遷された。平安京の北西(乾)の方角に位置することから乾疫神社と呼ばれた。
 かつて10か所あったという疫神社のうち、現存するのは今宮神社、石清水八幡宮、当社の三社のみという。
◆建築 拝殿は1923年に建立された。間口2間、奥行2間半。
◆文化財 南北朝時代の足利尊氏直筆「足利高氏願文」(京都府指定登録文化財)(元弘三年、1333年4月29日付)、南北朝時代の「御判御教書」(京都府指定登録文化財)(建武三年、1335年3月22日付)、平安時代の「源頼義公寄進状」(延久四年、1072年5月13日付)。いずれも亀岡市文化資料館に寄託。
 製作年代不明の木製狛犬1対(2尺)。室町・戦国期の脇差3振(亀岡市文化資料館寄託)。
 なお、現在、アメリカのメトロポリタン美術館所蔵の甲冑「白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)」は、かつて足利尊氏が当八幡宮に奉納したとものという。明治期末期に海外に流出したとみられている。また、江戸時代、当八幡宮が亀山城主の氏神を祀る直轄神社とされたことから、寺宝の流出が相次いだ。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、乾疫神社例大祭・厄除祈願祭(1月19日)、左義長祭・どんど焼き(1月成人の日)、足利尊氏公顕彰祭(4月29日)、ちびっ子相撲大会(6月第1日曜日)、大祓祭(6月30日)、祖霊祭・戦没者慰霊祭(8月第3日曜日か第4日曜日)、放生会・相撲大会千・泣き相撲・灯明奉献(9月第3日曜日)、秋季例大祭(10月25日)、大祓祭(12月30日)。
 月次祭(毎月1日、15日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考資料 「篠村八幡宮の概要」『京都府の地名』『京都古社寺辞典』『京都時代MAP 安土桃山編』



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祓戸社、瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)を祀る。手水舍で身体を清めた後、当社に参拝して心を清める。

小宮社、右より秋葉神社・愛宕神社、住吉神社・春日神社・日吉神社、皇大神宮・豊受大神、天満宮。近代に入り、近郷で祭祀していた神社を境内に遷したものという。秋葉神社は、篠区第12組内に祀られていた。篠村には伊勢講、愛宕講(お日待講)、秋葉講、念仏講などの講社が存在し、いまも残っている。
 

「矢塚」、江戸時代、1702年建立

「矢塚」、かつて塚の上には樹齢660年という椎の大木があったという。1934年の室戸台風で倒木している。太平洋戦争の出征者は、この木で肌身守りを作り戦地に赴いた。現在の椎の大木は2代目であり、「亀岡の銘木100選」に選ばれている。ツブラジイ、胸高幹回4.47m、樹高27m。

相撲土俵場、1965年に設置。

「足利高氏旗あげの地」の碑、1991年建立。

「尊氏公旗立楊」の碑、境内の北、旧山陰道の脇、楊の木の根元に立てられている。

「尊氏公旗立楊」、1926年頃に挿木された先代が枯死したため、1992年に挿木したという楊(やなぎ)。柳と楊は異なる。楊は枝が枝垂れない。「矢の木」の意味があり、矢の材料にしたことから名付けられた。木の生長は早く、100年ほどの寿命しかない。現在の木は6、7代目に当たるという。
 篠村八幡宮 〒621-0826 亀岡市篠町篠八幡裏4    0771-24-6395
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