無鄰菴 (京都市左京区)
Murin-an Villa
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母屋

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母屋内部、漢詩人、書家・長三洲の「無鄰菴」の書


母屋


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庭園、借景の東山

 国定名勝指定公園・無鄰菴 (むりんあん)は、3200㎡の敷地がある。庭園は、東山を借景とした池泉廻遊式であり、琵琶湖疏水を取り入れ、山県有朋が7代目・小川治兵衛に作庭を依頼した。
◆歴史年表 近代、1894年、政治家・軍人の山県有朋は、京都市所有地を得て別荘地「無鄰菴」を建てた。作庭は小川治兵衛による。
 日清戦争(1894-1895)勃発により、建築工事は一時中断する。別邸の諸事は久原庄三郎が担う。
 1894年、庭園の整地が始まる。個人の庭で初めて、琵琶湖疏水の水が引かれる。
 1895年、山県が清国より帰国し、建築工事が再開された。
 1896年、建物が完成する。
 1898年、洋館が建てられる。
 1899年、庭園が完成した。
 1902年、現在の池泉廻遊式庭園になる。
 1903年、洋館で、元老・山県ら4人による「無鄰菴会議」が開かれる。
 1941年、庵は京都市に寄贈された。
 現代、1951年、明治期の庭園として、国の名勝に指定された。
◆山県有朋 江戸時代後期-近代の軍人・山県有朋(やまがた ありとも、1838-1922)。長州藩士山県有稔の子に生まれた。吉田松陰の松下村塾学び、尊攘派となる。1863年、奇兵隊軍監として壇ノ浦支営司令になる。1864年、英米仏蘭4国艦隊下関砲撃事件により負傷した。1869年、渡欧。1870年、兵部少輔、1872年、陸軍大輔に任じられた。1877年、西南戦争では征討軍参謀、参謀本部長を歴任、1883年、内務卿。1878年、参謀本部、監軍本部を設置、「軍人訓誡」と、1882年、「軍人勅諭」を発布した。1885年、第1次伊藤博文内閣で内務大臣、1887年、文官試験制度を施行し、1888年市町村制を公布、1889年、首相、1890年、陸軍大将、1892年、第2次伊藤内閣の司法大臣、1893年、枢密院議長などを歴任した。日清戦争(1894-1895)では第1軍司令官、1998年、2度目の首相に就く。日露戦争(1904-1905)では参謀総長兼兵站総監、1898年、元帥となる。「日本軍閥の祖」といわれた。 
◆7代小川治兵衛  近代の造園家・小川治兵衛(おがわ じへい、1860-1933)。山城国の庄屋・農家に生まれた。1877年、岡崎の庭匠・小川家(「植治」「田芝屋」)の養子になる。法然院・大定に薫陶を受ける。7代目治兵衛を継ぎ「植治(うえじ)」と称した。今日の「植治流」造園技術を確立した。
 碧雲荘、無鄰庵、平安神宮神苑、清風荘、円山公園、京都国立博物館庭園、対龍山荘庭園など100あまりの庭園を手掛け、「植治の庭」と呼ばれた。また、京都御所、修学院離宮、桂離宮などの復元修景にも関わる。辞世は、「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」だったという。
◆無鄰菴 山県有朋により3つの無鄰菴が営まれた。当初、山県の故郷の長州吉田清水山に草庵を建てた。隣家がなかったことから無鄰菴(後の東行庵)と名付けた。
 京都に移り、1891年、木屋町二条の角倉了以邸跡に、同じ名の無鄰菴を営んだ。
 その後、1894年、南禅寺境内の現在地に閑静な場所を求め、新たな別荘を建てその名を引き継いだ。
◆無鄰菴会議 洋館は、1898年に建てられている。
 1903年4月21日、洋館二階の部屋で重要な外交決定が行われた。集まったのは、元老・山県、政友会総裁・伊藤博文(1841-1909)、総理大臣・桂太郎(1848-1913)、外務大臣・小林寿太郎(1855-1911)の4人だった。
 この「無鄰菴会議」により、日本がロシアに対して強硬姿勢をとる外交方針が決定した。この歴史的な決議により、翌1904年にロシアに対して宣戦布告され、日露戦争(1904-1905)が開戦になった。
◆庭園 庭園は、山県の設計・監督の下、名造園家として知られていた7代目・小川治兵衛(通称「植治」)の作庭による。庭は、1894年に着工され、日清戦争中(1894-1895)の中断を挟んで、1899年に完成した。その後、修整が続けられ、1902年に現在の池泉廻遊式庭園の形になった。
 山県は作庭に当たり小川に三つの注文をつけた。一つは芝生の明るい空間、二つは樹木を多く使う、三つは琵琶湖疏水の水を取り入れる。小川には「水なき庭は庭にあらず」の持論があり、琵琶湖疏水の「生きた水」への思い入れもあった。「御所のお庭を除いて、私の庭に及ぶものはない」とまでいわしめた。庭は、以後の植治の庭の原点になる。
 庭面は東西方向に三角形に広がる。東に東山の借景を取り入れた。庭園最上部東端に、醍醐寺三宝院庭園の滝を模した三段の滝を組む。それぞれの落差は、1m、0.5m、0.6mあり、1段目は右、2段目で左へ、3段目で右へ落し、互い違いになっている。ただ、三宝院とは異なり、背後に蓬莱山の石組も、手前の鯉魚石も見られない。
 北の築山に山県が醍醐の山から切り出したという大石が据えられている。池には州浜、自然の川のような流れの石組では、二段落ちのひょうたん池、二つの川の流れを合流させた。2つの流入、東と南より西への流水がある。東よりの流水は滝石組、流れ、園池、流れと展開し、淀み、空間を広く見せる浅い池、浅瀬と変化をつけている。
 座敷から庭園を望むと右手の平たく大きな横石と、中央の立石、左手の横石の三石が据えられている。立石は醍醐より何十頭もの牛に引かせて運んだものという。これらの石は、三角形の底面の距離感、散漫感を引き締めるための視覚修整、視点を集中させるために用いられているという。
 石臼、自然石を組み合わせた4つの飛石、一つの石橋も用いた。沢を渡る際に、一端足元に落とされた視点が、石を渡り終えて見上げた際の、移動した視点先にある景色の展開も織り込んだ地割になっている。
 植栽は、庭園の奥(東)に、東山を借景として杉、檜、樅などの針葉樹を森のように植える。これらの樹は、当時としては庭の脇役でしかなかった。楓、桜も植栽されている。当時としては斬新な芝が、苔の代わりに使われ、園遊会に利用されたという。
 母屋には坪庭があり、苔地にわずかな石組と四方竹が植えられている。
◆障壁画 洋館の障壁画は、江戸時代初期、狩野派の「金碧華鳥図障壁画」による。
◆文学 室生犀星は冬に庭を訪れその印象を記した。「瀧の落口から右よりの疎林が美しい冬どきの枯枝を揃えていた。水を浅くとり、石を低く、流れのへりが細かい好みを表わしていた」(『京洛日記』)
◆映画 時代劇映画「斬る」(監督・三隅研次、1962年、大映京都)の撮影が行われた。水戸の接待屋敷、庭として設定された。高倉信吾(市川雷蔵)は、松平大炊頭(柳永二郎)に茶を振舞われる。
◆年間行事 年末年始は休み。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『植治の庭 小川治兵衛の世界』『植治の庭を歩いてみませんか 洛翠庭園 無鄰菴庭園』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都絵になる風景』 


  琵琶湖疏水      洛翠庭園       平安神宮       角倉了以別邸跡・がんこ高瀬川二条苑              

茶室

茶室

茶室、露地庭

茶室、露地庭

洋館

洋館

洋館

洋館

山県有朋

山県有朋の遺愛の椅子

山県有朋の遺愛品「黒塗り長方煙草盆青白磁火入灰吹」

山県有朋の遺愛品「垣に花鳥蒔絵硯箱」
 無鄰菴 〒606-8437 京都市左京区南禅寺草川町31  075-771-3909  9:00-17:00

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