冷泉家 (京都市上京区) 
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冷泉家 冷泉家
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表門、薬医門、一間一戸




表門の留瓦、阿吽の亀像瓦、北の方角の守護神・玄武神という。四神相応神の一つ。梁上にも木彫りの亀が北向きに置かれている。


吽の亀像瓦




従者が待つ供侍(ともまち)の腰掛、立蔀(たてじとみ)(右端)、さらに右手に大玄関がある。


同志社大学の一角に取り囲まれる形で冷泉家は残されている。




上御霊神社夏祭り(5月18日)
 京都御苑の北、今出川通りに面して、歌の家といわれる冷泉家(れいぜいけ)は残されている。かつての北小路(今出川小路)の北にあった。かつて公家137家のうち、現在もなお家業を続けているのは冷泉家ほか数家のみという。冷泉家創家以来600年、現在地に移り400年の歴史を刻む。近世公家の最古、唯一の公家住宅の遺構となっている。 
 現在は、財団法人・冷泉家時雨文庫により管理されている。
◆歴史年表 平安時代、1005年、藤原道長(966-1027)の子、後の御子左家(みこひだり)の祖、長家(ながいえ、1005-1064)が生まれる。
 1183年、藤原俊成(1114-1204)が『千載和歌集』の撰者となる。
 鎌倉時代、1201年、藤原定家(1162-1241)が『新古今和歌集』の撰者となる。
 1222年、為家と宇都宮頼綱女の間に御子左家嫡流、二条家の祖・為氏(ためうじ、1222-1286)が生まれる。
 1227年、御子左家次男、京極家の祖・為教(ためのり、1227-1279)が生まれる。
 1232年、定家が『新勅撰和歌集』の撰者となる。
 1248年(1251年とも)、為家が『続後撰和歌集』の撰者となる。
 1259年(1265年とも)、為家が『続古今和歌集』の撰者のひとりとなる。
 1263年、為家と側室・阿仏尼(あぶつに)の間に冷泉家の祖・為相(ためすけ、1263-1328)が生まれる。
 1265年、為家は為相に定家筆三代を譲る。以後、和歌の書籍、文書、『明月記』などを譲る。
 1269年、異母兄弟の正妻の子・為家と為相との家領相続争いとなる。
 1275年、為家が亡くなる。
 1279年、阿仏尼が子・為相のために、典籍、荘園の分与に関して幕府へ訴え鎌倉に下る。
 1283年、この頃、為相家は冷泉家を名乗る。
 1313年、為相側が所領問題訴訟に勝利する。
 1345年、2代・為秀は寄人として『風雅和歌集』撰者に関わる。
 室町時代、5代・為富は後土御門天皇の勅勘を蒙る。
 1491年、6代・為広(1450-1526)は、戦乱続く京都を逃れ、越後、その後は能登、駿河に下向した。
 天文年間(1532-1553)、7代・為和(1486-1549)は、駿河・今川氏との関係を深める。
 1585年、9代・為満(1559-1619)は正親町天皇の勅勘(お咎め)を蒙り、大坂に下る。
 1592年、為満は豊臣秀吉の所望により『公忠朝巨集』一帖を進献上する。
 1600年、為満は徳川家康の取り成しにより勅勘を解かれた。
 江戸時代、1606年、豊臣秀吉は御所周辺に公家町を再編した。1600年頃とも、9代・為満は現在の屋敷地を贈られ、冷泉家の屋敷を創建している。
 1614年、徳川家康は、五山僧を召し出し、南禅寺で冷泉家伝来の『明月記』を書写させる。
 1626年、10代・為頼は後水尾天皇の二条城行幸に供奏し、歌会講師を務める。
 1628年頃、典籍の散逸を防ぐため、御文庫は京都所司代により封印され、その管理下に置かれた。
 1685年、第112代・霊元天皇は、御文庫の典籍を宮中に運び、書写させる。
 1721年、13代・為綱(1664-1722)の時、御文庫の封印が解かれ、冷泉家預かりとなる。
 1734年、14代・為久は武家伝奏に任じられる。以後、江戸に下向し、幕府要人、大名などの入門が相次ぐ。
 1767年、冷泉家中興の祖の15代・為村(1712-1774)は、御新文庫を建立し、典籍を整理する。冷泉家は隆盛となる。
 1788年、天明の大火により、御所も焼失、冷泉家住宅も全焼する。御文庫、御新文庫は類焼を免れる。
 1790年、16代・為泰(1735-1816)が現在の住宅を再建する。
 近代、1869年、東京遷都後、多くの公家は東京に移り、公家屋敷は破却された。20代・為理(ためただ、1824-1885)は、留守居役として京都に留まる。
 1917年、今出川通の市電軌道敷設にともなう拡張により、屋敷地が北東へ10mほど移る。
 1940年、22代・為糸(ためつぎ、1881-1946)は、「定家卿遺墨展」で典籍を初公開する。
 1980年、御文庫蔵書を初公開する。
 現代、1981年、24代・為任(1914-1986)は財団法人・冷泉家時雨文庫を設立する。
 1982年、冷泉家は、最古の公家住宅として国の重要文化財に指定された。
 1994年-2000年、25代・為人(1944-)により冷泉家の解体復元修理が行われる。
 2011年、公益財団法人になる。
◆冷泉家 冷泉家は平安時代の藤原道長(966-1027)の4男(5男、6男とも)で和歌に秀でた長家(ながいえ、1005-1064)を遠祖とする。長家以後の子孫を後に御子左家(みこひだりけ)と呼んだ。御子とは、醍醐天皇皇子の兼明親王(914-987)に因む。臣籍降下し左大臣になったため、天皇の御子(みこ)、左(ひだり)で御子左とした。平安時代末期、その中から歌人の藤原俊成(1114-1204)が出る。さらにその子・定家(1162-1241)、その子・為家(1198-1275)と続き、それぞれが勅撰和歌集の撰者に就き、冷泉家の地位は確立した。為家の子に冷泉家初代の為相(1263-1328)が出る。
 為家と宇都宮頼綱の娘との間に、後の二条家・為氏(1222-1286)、後の京極家・為教(1227-1279)がいる。為家と阿仏尼(1222?-1283)との間に為相(ためすけ、1263-1328)がある。為相邸は、万里小路西、高倉小路東、冷泉小路北、大炊御門大路南にあり、正面は冷泉小路に面していた。このため冷泉殿と呼ばれ、後に冷泉家と称した。
 為家が為氏に一度譲った荘園、典籍のほとんどを為相に譲り直したことから、為氏と為相・阿仏尼の家領相続争いとなる。以後、二条家、京極家、冷泉家に三分裂した。その後、主流の二条派は大覚寺統(後の南朝)と結び、京極派は持明院統(後の北朝)と結んだ。二条派と京極派は対立し、勅撰和歌集の撰者の地位を互いに争う。二条家の歌風は新勅撰集、京極家は新古今風であったという。京極家は鎌倉時代、二条家は南北朝時代の宮廷内の政争に巻き込まれ相次いで断絶した。以後、冷泉派と二条派が拮抗し、冷泉派は鎌倉の武士に勢力を拡大した。冷泉家は室町時代に兄・為之(上の冷泉家)、弟・持為(下の冷泉家)に分かれている。現在の冷泉家は本家の上冷泉につながる。後に、上冷泉家から藤谷家が分かれた。
 江戸時代、冷泉家は宮中に和歌の家として仕えた。公家家格は羽林家(うりんげ)300石、上から摂関家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家となっていた。
 第三の家である冷泉家は、政治に深入りすることなく現代にまで引き継がれている。
◆藤原為家 鎌倉時代中期の公家・歌人の藤原為家(ふじわら の ためいえ、1198-1275)。藤原定家の子。1205年、元服し伯父・西園寺公経の猶子となる。1221年、後鳥羽上皇による討幕の承久の乱で、第84代・順徳天皇の佐渡配流の供奉者に応じなかったという。乱後、1226年、参議として公卿に列し、1236年、権中納言、1241年、権大納言に昇る。1256年、出家した。後嵯峨院歌壇の歌人として活躍し、『続後撰和歌集』(1251)を撰出、『続古今和歌集』(1256)を共撰した。鞠道にも秀でた。
◆冷泉為相 鎌倉時代後期の公卿で歌人・冷泉為相(れいぜい ためすけ、1263-1328)。藤原為家の3男、母は阿仏尼。冷泉家の祖。正二位、権中納言。家領相続を巡り異母兄・二条為氏と争い勝利する。武家を中心とし関東歌壇を指導した。鎌倉で没したともいう。連歌「藤ヶ谷式目」の作者ともいう。
◆阿仏尼 鎌倉時代中期の歌人・阿仏尼(あぶつに、?-1283)。平度繁の子。後高倉上皇の第3皇女・安嘉門院に仕えた。出家し法名を阿仏と称した。奈良・法華寺、京都の松尾・慶政上人の辺に住む。藤原為家の側室となり、嵯峨に住み為相、為守らを産んだ。1275年、為家没後、北林禅尼と称した。播磨国細川荘の遺領相論となり、1279年、子・為相のために鎌倉に下る。その際の紀行文が『十六夜日記』、若い頃の恋愛などの回想録『うたたね』も記した。
◆藤原定家 鎌倉時代前期の公卿・歌人・藤原定家(ふじわら の ていか/さだいえ、1162-1241)。歌人・藤原俊成の次男。母は藤原親忠の娘。1178年頃より歌人となる。1180年、内昇殿が認められる。1183年、父が後白河上皇の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍された。1186年、摂政・九条兼実に仕えた。良経、慈円の知遇を受けた。後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿、1220年、内裏二首御会での作が後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を編じた。19歳よりの漢文日記『明月記』(1180-1235)を著す。邸宅は京内に数か所あり、嵯峨に山荘を営み百人一首を編んだ。
 後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。墓は相国寺・普広院にある。
◆文化財 古典籍、古文書類は定家以来数万点といわれている。現在、国宝5件、重要文化財46件が指定されている。東京遷都の際に冷泉家が唯一、東京に遷らなかったために、関東大震災と東京大空襲で被災することもなく貴重な文化財が残されたといわれている。
 鎌倉時代、1197年の歌論書、藤原俊成自筆『古来風躰抄』(国宝)上下二帖(各28.9×20.8㎝)は、初撰本になる。万葉集、古今集、詞花和歌集、千載集などの和歌の変遷を述べた。綴葉装、雲母散しの斐紙の料紙を用いる。
 鎌倉時代、1226年書写の嘉禄本原本、藤原定家の書写『古今和歌集』(国宝)(22.9×14.6㎝)は、157丁になる。校訂注記、ふり仮名、声点、濁点なども書き込まれている。表紙は薄茶斐紙、金銀泥水辺草花文、金銀箔砂子、本文料紙は斐楮交漉紙。綴葉装冊子。
 鎌倉時代の藤原定家筆『拾遺愚草』(国宝)(1233頃)。
 鎌倉時代の藤原定家筆『明月記(めいげっき)』(1180-1241)54巻(重文)(28.8㎝)は、約60年に渡り政治文化、日常生活、感想などを綴った。
 鎌倉時代、1234年の藤原定家書写『後撰和歌集』(国宝)(22.9×14.3㎝)は、綴葉装、表紙は茶の斐紙、金銀砂子散らした雲霞引、本文料紙は鳥の子紙。220枚。
 私家集として、平安時代の『貫之集 村雲切』(重文)、『小野小町集 唐草装飾本』(重文)、『元輔集 坊門局筆本』(重文)など多数。
 江戸時代後期-明治期の「女性の衣裳」がある。掻取(かいどり、打掛小袖)、帷子(かたびら、夏の麻の着物)、単衣(ひとえ、裏のない衣)に公家風文様があしらわれている。
◆建築 冷泉家は平屋、檜皮葺、本瓦葺の近世公家住宅になる。座敷・台所、御文庫、台所蔵、表門、附:土塀、庭塀、供待・台所門、立蔀が重要文化財に指定されている。
 南の築地塀の「表門」がある。屋根に載る留瓦(留蓋瓦、とめぶたがわら)は、阿吽(あうん)の亀像瓦になる。北の方角の守護神・玄武神を表し、四神相応神の一つになる。中央の梁上にも木彫りの亀が北向きに祀られている。本瓦葺、薬医門、一間一戸。
 邸内に入ると、白川砂の白砂敷き(2間)に「立蔀(たてじとみ)」が立てられている。格子に組んだ戸であり、内玄関の遮蔽のために用いられる。左手隅に南向きの腰掛「供待(ともまち)」が設えてある。
 式台を敷設した「大玄関」があり、当主、賓客の出入りに用いられた。その奥に「鍵の間」、大玄関の左に「内玄関」がある。ここは、家人、日常的な来客に用いられた。
 右手の高堀「塀重門(へいじゅうもん)」は、玄関と座敷棟・南庭を分けている。ハレ(晴)の出入り口として使われ、身分の高い客が利用した。行幸、お成り、勅使到着の際には、玄関を通らず、この門を通り、座敷縁先の階(きざはし)から「上の間」に上がった。庭には芝生、中国古制の影響により左近の紅梅、右近の橘が植えられている。ほかに松、槇などの植栽がある南庭と東の池泉庭園がある。
 庭に面して、座敷棟の西より身分の低い客や使いの者が利用した「鞘(さや)の間」(使者の間、8畳)、身分が同等の客が利用した「中(なか)の間」(12畳)、行事の際に祭壇を設ける身分の高い客が利用した「上(かみ)の間」(13畳、東に床)が隣り合わせにある。上の間の床は、室中央にあり、神事の際の神座として用いられた。中の間、上の間の2つの部屋は、祭事には一つの部屋として用いられる。上の間の「中の間」、上の間の間に欄間はなく、大きく抜かれている。襖は黄土色の地紙に、雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙を使いる。歌会で絵柄が邪魔しないようにあえて季節感を排したためという。その奥に「広間」(14畳)がある。
 紅白の萩が植えられた坪庭の「坪の内」の東に、かつての居間として使われた「松の間」(8畳)、「御高居間(鶴の間)」(8畳)がある。
 住宅の西端に裏向きに「台所棟」がある。土間があり、南西に竈の「おくどさん」が置かれ、神事の際に用いる。土間北には、祇園祭の長刀鉾、魔除けの藁束「赤熊(しゃぐま)」が掛けられている。その北に、米納戸、台所、敷地の北西に「台所蔵」が、西南に「輿部屋」が建てられている。桟瓦葺、切妻屋根。
 住宅北東に典籍類を納める土蔵の「御文庫(おぶんこ、東)」、「新御文庫(御新文庫)」が2棟並んで建てられている。2階に神棚があり、文庫は冷泉家にとっては神殿になる。蔵には小さな通風孔が開けられ、典籍類の神に対して日々の礼拝はここより行うという。土蔵は耐火構造になっている。火災になると目張りして一切の火が中に入らないようにした。さらに、屋根は置き屋根になっており、下に土壁で造られたもう一つの屋根がある。周囲に火が迫る前に上の置き屋根を落とした。 
 かつて敷地南東隅に茶室「扇亭」があった。
◆庭 南庭、坪の内、玄関前庭には白砂、松、ツツジの植栽がある。広間前庭は露地庭になっており、飛石、蹲踞などが据えられている。居間前庭にはツバキがある。
◆冷泉家の和歌 冷泉家では、伝統に立脚した歌を守り続けている。和歌を詠むこととともに、披講(和歌を声を出して歌う)、和歌会にともなう様々な作法も重視されている。
 正月の歌会始、七夕の乞巧奠(きっこうてん)のほか、月次歌会(尚光館、玉緒会)は毎月3回行われ、50人ほどの門人が集う。
◆墓 長家は泉涌寺の善能寺裏山にある。俊成は東福寺南谷裏山の秋山にある。隣に俊成娘の墓もある。冷泉家では、定家の墓は厭離庵としている。御影は二尊院にある。為家は厭離庵、阿仏尼は大通寺、為相は鎌倉・浄光明寺、そのほか上善寺に為益から為頼、真如堂に為治から為臣、為任などが眠る。
◆年間行事 御文庫参拝(元旦)、典籍類は冷泉家では神として崇められてきた。吉書始(かきぞめ、新年初の和歌を詠み神に供える)・歌会始・当座式。鏡開き(1月4日)、七草粥(1月7日)、どんど・小豆粥(1月15日)、節分・豆撒き(2月)、桃の節句(旧3月3日)、端午の節句(旧5月5日)、為家忌(5月1日)、上御霊神社夏祭り(5月18日)、夏越の祓(水無月晦日、6月30日)。乞巧奠(きっこうてん)披講の座・流れの座(旧7月7日)では、南庭に「星の座」が設けられ牽牛織女に供物をする。七夕の節句。
 為相忌(7月17日)、盂蘭盆会(8月13日-16日)、定家の祥月命日に黄門影供(旧暦8月20日)、重陽の節句(9月9日)、オシタケ(お火焚き)(11月8日に稲荷大明神、13日に新玉津嶋、18日に御霊、23日に大将軍)。
 初夏に二尊院で定家の献詠法要会「小倉山会」。秋の「秋山会」(11月30日)は、東福寺で行われる俊成の献詠法要会。
 冬の「初雪」は、江戸時代作の彩色俊成の像に初雪を供える。俊成が亡くなる間際に雪を所望したという故事にならったものという。餅搗き(12月28日までに)。
 月次の歌会は3回。


*普段は非公開。建物内外、庭園の撮影禁止。
参考文献 『冷泉家』冷泉家時雨文庫、『冷泉家の歴史』『冷泉家の生活と文化』『冷泉家の年中行事』『国宝への旅 1』『京都大事典』『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』

 
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 冷泉家(冷泉家時雨亭文庫) 〒602-0893 京都市上京区玄武町599番地,今出川通烏丸東入る  075-241-4322

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