天満宮社・恋志谷神社 (南山城村)
Temmangu-sha Shrine,Koishidani-jinja Shrine
天満宮社・恋志谷神社 天満宮社・恋志谷神社 
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中壇への石段









拝殿


天満宮社


天満宮社
 京都府最東端、唯一の村として知られる南山城村には谷深い木津川の流れがある。川には橋が架けられ、川を渡り坂を上がった南大河原に天満宮社(てんまんぐうしゃ)、恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)が祀られている。 
 いまでは本社・天満宮社より知られた末社・恋志谷神社により、「恋志谷さん」とも呼ばれている。
 天満宮社の祭神は菅原道真、末社の恋志谷神社には恋志谷大神を祀る。
 病難厄除、病気平癒、恋愛成就、子授け、安産、婦人病平癒などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 かつて、天満宮、天神社と呼ばれていた。
 鎌倉時代末期、1331年、倒幕の計画が洩れた第96代・後醍醐天皇は、京都を脱しこの地の笠置山に逃れた。伝承があり、寵姫が駆けつけたが天皇はすでに笠置を発ち、逢うことはできなかった。姫は失意から病となり自害した。後に哀れんだ人々が祠(のちの斎神社、恋志谷神社)を建て、祀ったことに始まるともいう。
 江戸時代、1647年、斎神社(恋志谷神社)、天満神社は合社となったともいう。(『私たちの相楽郡』)。また、柳生宗冬が父・宗矩、兄・十兵衛、二兄・友矩の崇敬した当社改築に伴い、現在の石鳥居を寄進し建立したという。柳生宗冬が天満宮社を建立したともいう。南大河原は柳生藩領だった。
 1864年、また近代、明治期(1868-1912)、西の山中、古森の斎神(いつきのかみ)社(恋志谷神社)は現在地に遷され合祀される。
 近代、1911年、「恋志谷神社口碑傳説」碑が建立される。
 現代、1945年、木津川に潜没橋が架けられる。それ以前は、渡し船が川を運行していた。
 1996年、天満宮社は下遷宮、上遷宮する。潜没橋は公募により「恋路橋」と名付けられた。
 1998年、現在の社殿が建てられる。
 1999年、恋志谷神社は下遷宮、上遷宮した。
◆後醍醐天皇 鎌倉時代-室町時代(南北朝時代)の第96代・南朝初代の後醍醐天皇(ごだいご てんのう<
1288-1339)。第91代・後宇多天皇の第2子、母は談天門院藤原忠子。1302年、親王宣下。1304年、大宰帥、1308年、持明院統の花園天皇の皇太子に立つ。1318年、即位、1321年、親政を開始する。鎌倉幕府打倒計画、1324年、正中の変の失敗、引き続く倒幕計画、1331年、元弘の変の失敗により、京都を脱し笠置山に逃れた。1332年、隠岐島に流されたが脱し、1333年、挙兵、足利尊氏の協力により復権し、天皇中心の政治「建武の新政」を行った。1336年、新政に失望した尊氏は離反し、武家政治の再興を図る。天皇は、吉野朝廷(南朝)を開き、以後、二つの朝廷が並立する南北朝時代(1336-1392)になった。京都に戻ることなく吉野で亡くなる。 儀式典礼に詳しく、学問、和歌も好んだ。
◆柳生宗冬 江戸時代前期の剣術家・大名の柳生宗冬(やぎゅう むねふゆ、1613-1675)。父は大和柳生藩初代藩主・柳生宗矩、母は松下之綱の娘。柳生三厳(十兵衛)の同母弟、柳生友矩の異母弟。柳生新陰流をおさめ、徳川家光の小姓、家綱・綱吉の兵法師範。兄・三厳急死後、1650年、遺領も継ぐ。1668年、大和柳生藩主柳生家3代に就く。
◆恋志谷 恋志谷神社は、現在、天満宮社の境内末社になっている。恋志谷姫大神と呼ばれた。また、齋(いつき)神社と呼ばれていたという。 斎(齋)は神道で、ものいみ(潔斎)をして神に仕えることをいう。
 伝承がある。鎌倉時代末期、1331年、倒幕計画の失敗により後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に逃れた。天皇の寵姫(側女)は伊勢海辺で病療養中であったが平癒し、笠置の行在所に駆けつけた。だが、古森(こもり)まで来ると天皇は笠置を発っていた。姫は悲憤により病再発し自害する。姫は天皇を愛慕し、また自らの病を嘆き、後世の病に苦しむ人々の厄難を恵受しようと言い残したという。後に姫を哀れむ人々は祠を建てて祀ったという。姫は「天皇を恋しい」と言い残したことから、恋志谷神社さん、恋志谷さんと呼ばれるようになったともいう。
 天皇は20数人の女性に40人もの子を産ませた。后妃に恋志谷姫の名はないとされ、実在した人物かについても不明。江戸時代末、1864年、また近代、明治期(1868-1912)、現在地の西の山中、古森の斎神(いつきのかみ)社が天満宮社の現在地に遷され合祀される。以後、恋志谷姫大神を祀り、恋志谷神社と改称した。現在も、旧社地には石段などが遺されているという。
 「恋志谷神社口碑傳説」碑の碑文。「當社内ニ奉鎮座戀志谷姫神ハ人皇九六代後醍醐天皇ノ寵妃ニ座々セシト傳フ
天皇元弘元年笠置山ニ據テ北条高時ヲ討チ給フ官軍利アラズ翌貳年参月隠岐ニ移リ給エリ時ニ姫神病アリテ伊勢海邊ニ御療養セラレ御平癒アリテ笠置行在所ニ御皈途當區今ノ古森迄テ御着キ給ヒシニ帝既ニ御出行ノ後ナリシ由ヲ聞シ給ヒ悲憤極遂ニ御持病再發御自刃御崩御セラレシトカヤ
姫神御辞世ニ陛下ノ御身上ヲ愛慕セラレ亦身ノ病苦ヲ歎カセ給ヒ後世ノ人々ノ病苦厄難ヲ惠受セシムト宣エシト口碑ニ遺レリ以信者一同告ゲ之ヲ千古ニ傳フ」。
◆建築 境内は下壇、中壇、上壇よりなる。上壇には6社の社殿が横並び一列に建てられている。これは、興福寺と密接に関わる春日大社の影響圏にあり、春日造の特徴になっている。ただ、現在の小社殿の配置になったのは遷座されたとみられる近代以降という。屋根は厚板葺、銅板被覆。天満宮社、恋志谷神社ともに社殿は20年毎の造替する遷宮が行われている。
 中壇の拝殿は方一間の小棟造、吹抜けで棟束と扠首の併用、萱葺でトタンで覆う。
◆文化財 境内には数多くの石造物がある。石鳥居(重文)は、江戸時代、1647年、柳生宗冬が寄進建立した。中央の高さ324.5㎝、円柱の高さ301㎝、径33㎝。花崗岩製。
 天満宮社左前の四角型石灯籠は、総高183.4㎝、基礎の中央を堺線とし、左右に複弁、隅は堺線側面は4面とも2区、斜め十文字。竿東面に種子で十一面観音を意味する「キャ」と刻まれている。室町時代、1545年、六済(六斎)中の寄進による。南大河原村で六斎念仏講が行われていたとみられている。中台下端に単弁三葉と隅は堺線。側面4面に2区格狭間、茨は左右各一、上端に2段の座、火袋は後補。花崗岩製。
 天満宮社右前の四角型石灯籠は、総高180.4㎝、江戸時代、1647年、柳生宗冬の寄進による。花崗岩製。
 江戸時代、1843年の水盤、花崗岩製など。
◆祭祀組織 天満宮社には宮司、当屋(恋志谷神社春の大祭の際に、宮司がフリアゲという御幣を使った神事により選出)、宮守(年末の区総会により選出)による祭祀組織がある。
 宮守は祭礼の際の社参、供饌、祝いの祈祷、厄祓い、境内の清掃、恋志谷神社祭礼の立会なども行う。また、年長順に選ばれる氏子総代がある。
◆恋路橋 境内には国道163号線より木津川に渡る。川には恋路橋(こいじばし)という欄干のない低いコンクリート製の橋が架かり、天満宮社の参道になっている。1945年に架橋された。それ以前は、渡し船が北大河原と南大河原の集落を結んでいた。潜没橋(せんぼつきょう)と呼ばれ、川の増水時には陥没する。この付近には同様の橋がある。また、「沈み橋」、単に「石橋」とも呼ばれている。長さ95m、幅3.6m、花崗岩製。
 1996年、公募により新たな橋名として「恋路橋」と命名されている。
◆年間行事 天満宮社年越(節分)(2月3日)、恋志谷神社春の大祭(4月2日)、恋志谷神社秋の大祭(9月2日)、天満宮社秋祭(10月21日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 『南山城村史 本文編』『南山城村史 資料編』


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天満宮社

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天満宮社、四角型石灯籠

恋志谷神社

恋志谷神社

恋志谷神社、本殿


二百十日、9月1日頃、地区の各家では「七度ゴオリ(垢離)」の行事を行う。木津川から拾った7石を天満宮社参詣後納める。かつては、7回繰り返していた。現在は一度に7石を納める。その後、能舞台でオコモリし、神饌のモッソという円垂形の白飯をいただく。水垢離の名残りとみられ、五穀豊穣、風除けの祈願をする。

恋志谷神社

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社務所

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「恋志谷神社口碑傳説」碑

手水舎

境内からの景観、山並みと家屋の間に木津川が流れている。


恋路橋

木津川
 天満宮社・恋志谷神社 〒619-1412 京都府相楽郡南山城村南大河原湯矢畷92 
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