常楽寺 (京都市下京区)
Joraku-ji Temple

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「常楽台」の石標

 西本願寺の北東にある常楽寺(じょうらくじ)は、親鸞の玄孫である存覚(ぞんかく)にゆかりある。近年、親鸞のものとみられる骨片が相次いで発見された。
 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 変遷の詳細は不明。
 南北朝時代、1338年、存覚が開基になり、西大谷に常楽台を創建したのを始まりとするともいう。
 1344年、存覚が六条大宮に一宇を建立したことに始まるともいう。
 1353年、坊舎を東山大谷の北西、今小路(東山区)に移転し、以後住した。常楽台と称したという。常楽寺と改称したともいう。
 本願寺の移転に伴い、山科、大坂、紀州鷺森に移ったともみられている。
 1373年以降、存覚没後、一時、紀伊国に移ったともいう。
 室町時代、1591年以後、1592年とも、六条寺内町(本願寺門前)に移ったとみられている。
 江戸時代、1619年、1628年とも、寺観が整う。
 近代、1896年、現在地に移る。
 現代、 2007年、所蔵する掛軸「親鸞聖人影像(花の御影)」の下部の軸木に、墨書が見つかる。
 2008年、所蔵する親鸞坐像内より、親鸞のものとみられる骨片が発見される。
◆存覚 鎌倉時代後期-南北朝時代の浄土真宗の僧・存覚(ぞんかく、1290-1373)。本願寺3世・覚如の長男に生まれる。1297年、前伯耆守日野親顕の猶子となる。1303年、14歳で東大寺で出家受戒し、興福寺の慶海・実伊・良寛に学ぶ。1304年、比叡山延暦寺で受戒、尊勝院玄智に入門する。1305年、日野俊光の猶子となる。十楽院有職となる。1309年、毘沙門谷証聞院で修学。1310年、覚如を補佐する。1314年、大谷廟堂の留守職を移譲される。1322年、本願寺留守職、東国における門徒への対応などで覚如より義絶される。1332年、鎌倉大倉谷に移住する。1338年、覚如に義絶を赦免され、別当職に復職。1342年、再び義絶される。1350年、再び赦免される。『六要鈔』で親鸞の『教行信証』を最初に註釈した。
◆親鸞遺骨 2007年、当寺の室町時代、親鸞の肖像画「花の御影(親鸞聖人影像)」の軸木部分にあった墨書が発見された。それによると、江戸時代、1667年、当寺の13代・寂恵が親鸞の遺骨を銀の筒に籠めた。その後、1706年、その遺骨を取り出し宝塔内に納めたと記されていたという。
 この記述通り、寺が蔵している金銅製の宝塔内には骨片が納められていた。この遺骨は親鸞の遺骨の可能性もあるとされている。 「寛文七年(1667年) 高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀筒に収めた」「宝永三年(1706年)六月十七日に遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と記されていた。
 さらに2008年、所蔵する江戸時代作の親鸞坐像胎内より、親鸞のものとみられる和紙に包まれた骨片も発見された。
 親鸞の遺骨はその没後、娘の覚信尼と関東の門弟らで東山の廟堂に納められる。その後、本願寺第3代・覚如と後継を争った親鸞の娘・覚信尼の子・唯善により遺骨と真影が持ち去られたという。遺骨は関東の門弟らにも分けられた。現在、高田派本山専修寺(三重県津市)、浄興寺派本山浄興寺(新潟県上越市)などにも伝わっている。
◆文化財 親鸞撰述の『愚禿鈔』の存覚による写本(1342)がある。


*普段は非公開
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』


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 常楽寺 〒600-8341 京都市下京区学林町307-2,花屋町通東中筋東入る 
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