石山寺 (大津市)
Ishiyama-dera Temple
石山寺 石山寺 
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「西国十三番 石山寺」の山号石標




東大門(重文)


東大門、山号扁額


東大門、参道




東大門、阿仁王像、金剛柵。


東大門、大草鞋


宿直屋、明治期前期建立とみられる。東大門に隣接する。


宿直屋、太鼓楼屋根


参道




参道、楓の並木


池は奈良時代、天平期(729-749)のものという。


くぐり石、大理石というがこれも硅灰石が露岩したもの。大きな洞がある。


比良明神影向石、比良明神がこの岩上に坐し、開山の良弁に、この山が観音の霊地であることを示したという。




手水舎、池畔に建つ。



手水舎


閼伽井屋、池の畔に建つ。幕末期の建立とみられる。岩盤からの湧水を集めている。


中段の境内に向かう石段。


那須与市地蔵尊



竜蔵権現社、石段途中に祀られている。



観音堂


毘沙門堂(県指定有形文化財)
 

毘沙門堂、兜跋(とばつ)毘沙門天(重文)・吉祥天・善膩師童子の三尊を安置する。


宝篋印塔、四方に四国88カ所霊場の土が埋められており、塔を廻ると同じ功徳が得られるという。




蓮如堂(県指定指定有形文化財)


御影堂(県指定文化財)










天然記念物硅灰石(けいかいせき)






本堂(国宝)







本堂東、庇は身舎、庇柱の間に海老虹梁、垂木を見せる化粧屋根裏、縁。


本堂南の礼堂、縁


本堂の礼堂、懸造、岩盤上に床よりの束柱を降ろしている。


本堂、縋破風の檜皮葺屋根




本堂、相の間に造られた源氏の間、向唐破風造、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなむ。室町時代に造られたという。


本堂、源氏の間の花頭窓、源氏窓ともいわれている。


本堂相の間、紫式部源氏の間、紫式部の人形


本堂相の間、紫式部源氏の間




本堂、紫式部の絵馬





本堂、紫式部開運おみくじ結び所


ご神木の大杉


子育観音、硅灰石の岩盤を背景にしている


子育観音


境内路傍の地蔵尊


鴨祐為県主詠艸草塚、子育観音への道の傍らにある。
梨木祐為(なしのき すけため、1740-1801)。江戸時代中期-後期の歌人で神職。鴨祐之の孫。下鴨神社の神職の家に生まれた。鴨祐為とも称した。冷泉為村に和歌を学ぶ。1日に千首をつくる早吟で知られた。生涯十万首を詠んだという。『源氏物語』の愛好家であり、たとえば『源氏物語巻名和歌』には巻名を織り込んで詠んだ。





三十八所権現社



三十八所権現社



三十八所権現社(県指定有形文化財)、硅灰石の岩盤上に建てられている。



三十八所権現社近くの硅灰石



経藏(県指定有形文化財)



経蔵、腰掛石 この岩に座ると安産するといわれている。
 石山寺(いしやまでら)は、奈良時代から観音の霊地とされてきた。境内上段の月見亭からの眺めは、近江八景の一つ「石山の秋月」と謳われた。古代より多くの文学者たちが参詣に訪れ、紫式部も訪れたという。膨大な文化財を所蔵し、貴重な建造物も多数現存している。「近江の正倉院」ともいわれた。
 琵琶湖から流れ下る瀬田川の西にある。かつては瀬田川河畔にまで坊舎が広がっていた。いまも、山麓から山頂にまで寺域は広がる。境内は、巨大な珪灰石の岩盤上にある。その岩上に本堂は建てられ、本尊も安置されている。このため石山寺の寺号の由来になった。山号は石光山(せっこうざん)という。
 東寺真言宗、本尊は秘仏の如意輪観音。安産、厄除け、縁結び、福徳などの信仰がある。
 西国三十三所観音霊場第13番札所。江州三十三観音1番、近江三十三観音3番、神仏霊場巡拝の道146番(滋賀14番)。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代、749年、第45代・聖武天皇の勅願により、良弁僧正が開基する。当初は華厳宗だった。この時、地中より五尺の宝鐸(銅鐸?)が出土したという。(『石山寺縁起絵巻』『三宝絵詞』)
 天平宝字年間(757-765)、造石山院所が置かれ、仏堂が改築されたともいう。
 759年、境内西北に第47代・淳仁天皇による保良宮(ほらのみや)造営が始まる。
  761年-762年、保良宮の鎮守寺として、造東大寺司の下、造石山院所により本堂、緒堂が整備拡張されるともいう。別当は造東大寺司主典・安都雄足、普請・大僧都・良弁による。造東大寺司からも仏師などが派遣され本尊の造立が始まる。別当に安都宿禰宜雄足(あとくのすくねおたり)が任じられた。
 761年、岩上礒座に塑像丈六の観音像が造立されたという。(「正倉院文書」)
 762年、2月-12月(旧暦)、保良宮に安置するために写経所で一切経600巻ほかの書写が行われる。8月、仏堂本尊の如意輪観音坐像が完成する。伽藍17棟が建つ。
 768年、5月、第46代・孝謙天皇は、父・聖武天皇のために発願書写した一切経を納める。
 奈良時代中期、仏堂の前に礼拝のための礼堂が建てられていた。
 平安時代、804年、2月、第50代・桓武天皇の勅による常楽会(涅槃会)が催され、近江国の租税が使われる。(『石山寺縁起絵巻』『扶桑略記』)
 811年、空海は42歳の厄年に、3か月間にわたり石山寺に修行したという。(寺伝)
 9世紀末、座主・聖宝僧正の時、真言密教に改める。
 917年、9月、宇多法皇(第59代)が臨幸する。(『石山寺縁起絵巻』『石山寺年代記録』)
 921年、922年とも、10月、座主・観賢僧正は弟子・淳祐内供を伴い、宇多法皇(第59代)下賜の御衣を高野山・弘法大師御廟に奉納する。大師号を報告した。
 962年、源高明は「大般若経」を読経させた。(『石山寺年代記録』)
 964年、また康保年間(964-968)、源順は万葉集の訓方に苦慮し、梨壺ら5人と参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)
 970年、7月、藤原道綱の母(兼家の妻)が夫と仲違し参詣する。8月、藤原兼家が参詣し関係修復する。(『石山寺縁起絵巻』)
 985年、10月、円融上皇(第64代)が参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)
 987年、また永延年間(987-988)、寺領内の生類殺生禁断を朝廷に奏上する。漢学者・慶滋保胤が奏状により同調する。(『石山寺縁起絵巻』)
 992年、2月、円融上皇女御・東三条院詮子は藤原道兼随行させ7日間参籠する。(『石山寺縁起絵巻』『白錬抄』)
 995年、東三条院詮子は参詣する。(『小右記』)
 998年、東三条院詮子は参詣する。(『日本紀略』)
 1000年、東三条院詮子は参詣した。(『権記』)
 1001年、9月、東三条院詮子が参籠する。11月、菅原孝標の娘が参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)
 1003年、11月、菅原孝標の娘が再び参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)。和泉式部が参詣する。
 1004年、また寛仁年間(964-1035)、8月、選子内親王の御意により紫式部が7日間参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)。『源氏物語』の第12帖「須磨」巻、第13帖「明石」巻の2編を構想、書いたともいう。大般若経6巻を書写して納めたともいう。
 1019年、7月、法成寺・禅定太閤(藤原道長)が参籠する。第68代・後一条天皇は石山寺に3人の阿闍梨を置くとの官符を下す。(『石山寺縁起絵巻』)
 1026年、藤原公成は後一条院(第68代)の病のため勅使として参詣する。(『石山寺縁起絵巻』)
 1027年、座主・深覚は、敦良親王のマラリア(瘧、おこり)平癒のために内裏・凝華舎で孔雀経法を転読修した。2月、朝廷の御使を座主に遣わす。(『石山寺縁起絵巻』)
 1045年、菅原孝標の娘が参籠する。
 1057年-1135年、平等院僧正・行尊が一晩おきに参詣する。(『石山寺縁起絵巻』)
 1078年、2月、落雷により本堂は半焼し、本尊・如意輪観世音菩薩が損壊する。(『扶桑略記』)。また、本尊は火より飛び出し、池の中島、柳の上にあり光り輝き無事だったともいう。(『石山寺縁起絵巻』『百錬抄』)
 1096年、現在の本堂(正堂)が再建される。
 1148年、富家関白・藤原忠実が、近江国波多庄を寺領として寄進した。(『石山寺縁起絵巻』)。念西が『一切経』の収集・書写を発願する。
 1148年-1159年、念西の発願勧進により石山寺一切経の大部分が成る。
 1150年、3月、朗澄は宰相・阿闍梨に従い、神蔵岡(神楽岡)金剛界次第を受ける。
 1160年、6月、朗澄は、内山真乗房阿闍梨に従い、諸尊法を習い『石文抄』を著す。
 1161年、三十三所巡礼の石山寺は23番とある。(『寺門高僧記』)
 1178年、9月、座主・公祐は朗澄を阿闍梨に任じたいと奏請する。
 1179年、朗澄は当寺に帰住した。
 文治年間(1185-1190)、朗澄により『一切経』の収集・書写が完了する。
 1190年、建久年間(1190-1199)とも、 源頼朝の寄進により現在の東大門(山門)、勝南院毘沙門堂が建立されともいう。これは、乳母であり中原親能の妻・亀谷禅尼の請による。
 建久年間(1190-1199)、鎌倉幕府の掃部頭・中原親能は源頼朝の命により、山城国和束の謀反鎮圧のために石山寺に戦勝祈願した。
 官符を下し、権中納言・藤原隆房を奉行として石山寺、周辺、寺領などでの殺生禁断の厳守を命じる。(『石山寺縁起絵巻』)
 鎌倉時代、1194年、現在の多宝塔が建立される。
 1230年、関白・九条道家は第77代・後白河天皇中宮で娘・靖子(藻壁門院)のために立願、願文を捧げる。翌年皇子誕生をみる。(『石山寺縁起絵巻』)
 1240年、10月、藤原行能は東大門の額を書す。
 1247年、鎌倉幕府は境内地を拡張、寺領地の税を免除する。
 1267年、山階左大臣実雄が参詣する。
 永仁年間(1293-1298)、鎌倉幕府は下知状により、石山寺での殺生禁断を守らせる。第92代・伏見天皇は愛染王法を修した。(『石山寺縁起絵巻』)
 1299年、10月、亀山法皇(第90代)は後宇多院(第91代)と臨幸する。(『石山寺縁起絵巻』)
 1308年、1310年、鎌倉幕府は寺領地を寄進する。
 正中年間(1324-1326)、『石山寺縁起絵巻』(重文)の前半が成立する。
 南北朝時代、1335年、3月、足利尊氏は大般若経を輪読させる。
 1336年、足利尊氏と第96代・南朝初代・後醍醐天皇の軍が勢多橋を挟み戦い、数万の軍により寺庫が破られる。
 1338年、足利直義の命により『大般若経』の読誦を行う。
 室町時代、1413年、この頃、醍醐寺と山界をめぐり争う。(『満済准后日記』)
 1424年、4月、醍醐寺衆徒と石山寺衆徒が境界で争い、醍醐寺衆徒により寺が襲撃される。(『史料綱文』「石山寺解案」)
 1454年、三十三所巡礼の石山寺は13番とある。(『撮壌集』)
 1465年、6月、堂宇修造のために初めて本尊・如意輪観世音菩薩を初開帳する。(『石山寺年代記録』『蔭涼軒日録』『年代記録』)
 1485年、幕府より徳政一揆の取締を命じられる。(『土一揆制禁下知案』)
 1497年、三条西実隆は『石山寺縁起絵巻』4巻の詞書を書写する。
 1496年、勧進を行い、一切経の欠損を修復する。(『史料綱文』)
 1515年、2月、三条西実隆は、成就院において三条西公条、座主・尊海らと法楽和歌20首を詠む。
 1525年、8月、三条西実隆は、法楽和歌30首を詠み奉納する。
 1533年、三条西公条、里村紹巴らが千句連歌会を催した。(『石山月見記』)
 1542年、1533年とも、12月、三条西実隆は、源氏巻の和歌1巻を奉納した。
 1543年、8月、本堂鳴動する。7日間にわたり普門品を読誦する。
 1555年、8月、倉坊(房)において千句連歌会(石山千句)を行う。大覚寺義俊門跡、准后、三条西称名院公条、宗養法師、紹巴法師らが参加する。
 1572年、4月、室町幕府15代将軍・足利義昭が、復興のために供奉する。この頃、寺領庄園は武士に押領され、寺僧は半減、寺勢は衰微した。 
 1573年、足利義昭は織田信長と争う。当寺に布陣し、明智光秀が「石山の城」を攻めたため兵火にかかる。(『信長公記』)
 安土・桃山時代、1582年、仲秋、紹巴は「石山千句」を書写し源氏の間に納める。この頃、伽藍修復が始まる。
 1600年、3月、本堂を修復再現する。
 1601年、徳川家康が寺領寺辺村の573石を安堵したる
 1602年、9月、淀殿の寄進により本堂の礼堂、相の間を建立する。(『年代記録』)。この頃、寺僧も還住し、伽藍もほぼ復興、落慶法要を営む。
 江戸時代、1610年、寺務の仁和寺宮(第107代・後陽成天皇皇子)が下した15条の寺内法度が、京都所司代・板倉勝重、伏見円光寺閑室元吉連署の定書で決定した。
 1613年、7月、徳川家康は駿河において寺領579石の朱印を贈る。
 1620年、9月、鎮守新宮社が焼失した。
 1624年、8月、荒痛薬師堂が建立される。
 1625年、2月、鎮守新宮大明神を造営し、遷宮の儀式を修す。
 1645年、三十八社鳥居を建立する。
 1646年、吉祥院、食堂が焼失する。
 1647年、8月、食堂、米蔵を再建した。
 1652年、吉祥院寝殿を築造する。
 明暦年間(1655-1658)、『校倉聖教』の整理が行われる。
 1656年、4月、駿河屋忠兵衛新刻の懸仏・如意輪観世音像(現本堂格子上)、脇士2像の開眼供養を行う。
 1665年、10月、浴室が造営される。
 1690年、松尾芭蕉が参籠した。
 1687年、3月、月見亭が再建される。
 1712年、8月、台風により月見亭が倒壊した。
 1713年、2月、月見亭が再建される。
 1787年-1801年、尊賢により『一切経』の整備が行われる。
 1801年、本居宣長が参籠した。
 1805年、松平定信は『石山寺縁起絵巻』の第6・7巻を補う。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、無住子院の廃止が相次ぐ。
 1893年、島崎藤村が茶丈・密蔵院に2か月滞在した。 
 1922年、石山寺硅灰石が天然記念物に指定された。
 現代、1961年、本尊・木造如意輪観音半跏像が開扉される。
 1970年、収蔵庫の豊浄殿が竣工する。
 1971年-1972年、石山寺文化財総合調査団により、『石山寺校倉聖教』の調査が行われる。
 1990年、心経堂が建立された。
 1991年、4月(新暦)、本尊が開扉される。
 2002年、8月-12月、本尊が開扉された。像内より仏像、五輪塔が発見される。
 2007年、日本の地質百選選定委員会により、石山寺珪灰石が「日本の地質百選」に選ばれた。
◆良弁 奈良時代の僧・良弁(ろうべん、689-774)。相模国・漆部氏、または近江国志賀里の百済氏ともいう。師・義淵に法相宗を学ぶ。東大寺の前身・金鐘寺に入る。728年、第45代・聖武天皇皇太子・基親王の冥福を祈る金鐘山房智行僧の一人に選ばれる。740年、大安寺審詳(祥)により華厳経研究を始めた。745年、金光明最勝王経の講説を行う。東大寺・盧舎那大仏造像で聖武天皇を助ける。751年、少僧都、752年、大仏開眼し、初代の東大寺別当に任ぜられた。754年、唐僧・鑑真一行を東大寺に迎える。聖武天皇の病平癒の功により、756年、大僧都となる。760年、僧尼位(三色十三階制)の整備を行う。763年、僧正の極官に補せられた。石山寺の建立に関わり、764年、僧正に昇る。
◆聖宝 平安時代の真言宗の僧・聖宝(しょうぼう、832-909)。恒蔭王(つねかげおう)。理源大師。父は兵部大丞葛声王の子。第38代・天智天皇皇子の歌人・施貴皇子(しきのみこ)の子孫。16歳で東大寺・真雅(空海実弟)により出家した。願曉、円宗、平仁、玄栄に三論、法相、華厳を学ぶ。葛城山、大峯山で修験道を修めた。869年、興福寺・維摩会の堅義に三論宗の立場で出る。871年、真雅より無量寿法を受ける。874年、醍醐寺を創建。884年、東寺・源仁より伝法灌頂を受けた。890年、藤原良房が聖宝のために建立した深草・貞観寺の座主。飛鳥・川原寺検校、東寺長者・別当、西寺別当、905年、東大寺東南院院主・別当、七大寺検校。奈良・弘福寺などに就く。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の帰依を受けた。真言宗醍醐派小野流の祖。吉野、金峯山の整備、造仏を行い、中世以降、修験道中興の祖といわれた。
◆淳祐 平安時代中期の真言宗の僧・淳祐(じゅんにゅう、890-953)。菅原淳茂の子、菅原道真の孫。般若寺・観賢に師事し出家、受戒し、925年、伝法灌頂を受けた。真言宗小野流の法を継ぐ。足に障がいがあり病弱であるとして醍醐寺座主を辞退した。石山寺普賢院に隠棲し、修行と真言密教の著作に専念した。東密、台密の僧が多く集う。第3世座主、石山寺中興の祖。通称は石山内供、普賢院内供。
 921年、師・観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院御廟を訪れた際に同行し、廟内に入り弘法大師の膝に触れたという。その際に妙香の薫りが手に移り、一生消えなかったという。また淳祐自筆本などにも同様の薫りが移った。これらは「薫(匂い)の聖教(かおりのしょうぎょう)」(国宝)といわれたという。著作に『石山七集』『金剛界次第法』など。
◆元杲 平安時代中期の真言宗の僧・元杲(げんごう、914-995)。父は藤原晨省、母は榎井氏。醍醐寺・元方により得度受戒し南都で一定、明珍に学ぶ。石山寺の淳祐に師事し小野流の正嫡になる。964年、伝法阿闍梨、968年、内供、東宮(円融天皇)の護持僧、972年、東寺凡僧別当となる。神泉苑で請雨経法を修して法験がある。988年、辞して醍醐山に籠居し延命院と号した。権大僧都、東寺二長者。
◆藤原道綱母 平安時代中期の歌人・藤原道綱母(ふじわら の みちつなのはは、936-995)。藤原倫寧(ともやす)の娘。母は藤原春道、源認(みとむ)の娘とも。才色兼備、本朝三美人の一人といわれた。954年、19歳で藤原兼家と結婚し道綱を生む。兼家にはすでに正妻・時姫がいた。傅(ふの)大納言母、傅殿母などとも呼ばれた。夫に疎んじられた20年の歳月を綴った『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として知られる。中古三十六歌仙のひとりで、『拾遺和歌集』などに入る。伏見稲荷、石山寺、賀茂神社、鳴滝・般若寺などに道綱とともに参籠した。
◆深覚
 平安時代中期の真言宗の僧・深覚(じんがく、955-1043)。藤原師輔11男。母は康子(こうし)内親王。寛朝に灌頂を受け京都禅林寺に入る。東大寺別当、東寺長者、石山寺に移り、1023年、大僧正。晩年、高野山に無量寿院を開く。歌は「後拾遺和歌集」以下の勅撰集に入集。
◆紫式部 平安時代の歌人、作家・紫式部(むらさき しきぶ、970/973?-1031/1014?)。父は藤原為時、母は藤原為信の娘。本名は香子(たかこ)。幼くして母、後に姉も亡くす。996年、為時が越前守に任じられ紫式部も下向する。997年、帰京、998年頃、複数の妻子ある地方官吏・藤原宣孝の妻となる。宣孝は式部の又従兄弟に当たる。999年、式部は一人娘・賢子(かたこ)を産む。1001年、夫と死別、1006年、内覧左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(しょうし、のちの院号・上東門院)に仕える女官となる。紫式部は侍講と して漢文学を教え、傍ら54巻の『源氏物語』を執筆した。物語は当初から宮廷で評判となる。1008年、『源氏物語』が流布する。1010年頃、物語は完成した。1014年、皇太后彰子の病気平癒祈願のため清水寺に参詣する。
 通称名は藤(ふじ)式部と呼ばれた。候名(さぶろうな)の「式部」は、父の官名「式部丞(しきぶじょう)」に由る。『源氏物語』中の女主人公、紫の上に因み、紫式部と呼ばれるようになる。物語は「桐壷」から始まる54帖からなり、光源氏の誕生と栄華、その晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になる。紫式部は、自らの半生を物語に投影したといわれている。執筆に12年の歳月をかけ、完成とともに生涯を終える。
◆念西 平安時代後期の僧・念西(生没年不詳)。詳細不明。真言宗小野流の僧という。1148年-1159年(1157年とも)、発願勧進により、石山寺一切経の大部分が成る。没後は朗澄が事業を継承する。
◆朗澄 平安時代-奈良時代の学僧・朗澄(ろうちょう、1132-1209)。文泉房朗澄。幼くして石山に上り得度剃髪、観祐阿闍梨に従い、金胎両部の潅頂を受ける。1160年、内山(永久寺)・真乗房亮恵、観修寺・大法房実任に諸法を受任した。律師、1178年、石山寺阿闍梨に任じられる。1179年、石山寺に移り北房に住した。淳祐教学研究の伝統を受け継ぎ、念西後、校倉聖教を集成した一人になる。1190年頃、完成したという。図像画も描き、白描図像なども書写した。多宝塔内「石山寺多宝塔柱絵」(重文)作画を指導した可能性も指摘されている。没後、一切経、聖教を守護するため鬼と化したとの伝承がある。
◆高階隆兼 鎌倉時代後期の絵師・高階隆兼(たかしな たかかね、生没年不詳)。第93代・後伏見天皇、第95代・花園天皇の宮廷絵師。作品として御物「春日権現霊験記」(1309)、「春日影向図」(1312)、石山寺「石山寺縁起絵巻」(1-3巻)(1324-1326)、京都矢田寺「矢田地蔵縁起絵巻」(2巻)などがある。
◆尊賢 江戸時代の僧・尊賢(1749-1829)。1760年、石山寺で得度、権律師、権僧正。1795年、僧正。1787年-1801年、「石山寺一切経」の折本改装事業を行う。『石山要記』などを著す。
◆開創の伝承 良弁は前世で旅人(行人)であり、インドへ行くことを望んだ。だが、無一物で流沙を渡ることができなかった。渡守が渡してやる。
 後世、二人はそれぞれ良弁と聖武天皇に生まれ変わる。天皇は東大寺を建立し、金銅廬舎那仏鋳造を発願する。良弁は、像に用いる鍍金の金を集めるように命じられる。吉野金峯山(きんぷせん)で祈ると、夢告があり、金剛蔵王(蔵王権現)が現われた。金峯山の黄金は、弥勒菩薩出顕の際に、地を黄金で覆うために用いられる。分けることはできないので、近江国志賀郡湖水南の山に観音菩薩垂迹の地がある。そこで祈請せよという。良弁はその地石山に向かい、釣りをしていた老翁の導きにより比良明神に会う。
 794年、良弁は岩上に草庵(石山寺)を建て天皇の念持仏、本尊の如意輪観音像を安置し、秘法を行う。その結果、3月、陸奥国に金鉱脈が見つかり、沙金(黄金)を朝廷に献上することができた。良弁の功験により天平勝宝と改元される。良弁の修法結願の時、本尊が石から離れない。やむなく天皇に請願し、また比良明神に乞い、この地に仏閣建立を行い本尊を安置することにする。寺地造成中に5尺の銅鐸が出土したという。
 こうして、東大寺に先立ち石山に寺を開くことにしたという。(『石山寺縁起』1巻第1段)
 なお、石山寺境内は「栗太郡勢多村下一勝地」にあり、如意輪観音、執金剛神像を安置したという。(『東大寺要録』)。また、「志賀郡瀬田江辺」で老翁が石に座し、観音像を造るように宣託があったともいう。(『扶桑略記』)
◆法流 醍醐寺小野流の聖宝(初代座主)、観賢(2代座主)の両者は醍醐寺開基に関わっている。中興の祖になった3代座主・淳祐がこれに続く。正嫡の元杲は淳祐の命により広沢流を受け、後に醍醐寺に移った。以後、醍醐寺の法流も受け、石山流と呼ばれた。
 淳祐以後、3流あり、法喜の法脈は1代で絶える。2流が残り、平安時代末期までは座主方(ざすがた、寛忠の弟子)、その後は人師方(にんじがた、真頼の弟子)が優勢になる。安土・桃山時代には、仁和寺系統広沢流とも関わる。また、一時、延暦寺の系統、三井寺との関わりもあった。
◆西国三十三番札所巡礼 石山寺は現在、西国三十三箇所観音霊場の第13番札所になっている。西国巡礼は奈良時代に始まる。その後、途絶した。平安時代、第65代・花山天皇(かざんてんのう、968-1008)により再興されたという。また、平安時代後期(12世紀)に再興されともいい、室町時代に隆盛した。
 当初、石山寺には22番札所が置かれた。その後23番(『寺門高僧記』)、やがて室町時代(15世紀)には現行の13番(『撮壌集』)になった。
 石山寺に残された巡礼の際に奉納された納札(巡礼札)の最古のものは、「武蔵国吉見住人道音」によるもので、室町時代、「永正四年」(1507年)と記されている。
◆保良宮 保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国滋賀郡に存在した。場所は特定されていないが石山付近、境内の北西ともいう。新都では法相宗の僧・弓削道鏡(700? -772)が活躍していた。都と石山寺との関係も指摘され、鎮護寺の位置付けであったともいう。また、石山寺本尊は道鏡の発願だったともいう。(『三十三所巡礼記』)
 保良宮は、藤原仲麻呂が唐の複都に倣い、平城京の陪都として、759年に造営が始まる。また、政敵・橘諸兄の恭仁京に抗し、藤原氏と関係深い近江国に新宮を造営することで、孝謙上皇(第46代)と第47代・淳仁天皇を勢力内に取り込むことを意図としたともいう。759年に造営担当者が任命され、官人7人らを派遣、上皇と天皇が行幸し、平城京改作のために新都へ遷都することが宣せられた。761年に平城京に対して北京(ほくきよう)と呼ばれた。だが、762年に建都未完成のまま廃都になる。
◆龍穴 境内西北、八大竜王社が祀られている周辺の池(龍穴の池)は龍穴といわれている。風水では、気は龍脈を巡り地上に溢れる地を龍穴と呼んだ。こうした露出した活断層面に、社などが祀られた。龍穴は繁栄する地とされた。
 伝承がある。平安時代、僧・歴海が畔の大石(尻懸石)の上で、降雨の孔雀経の転読供養をした。龍王の段で池中の白龍、青龍など龍王が出現し、周りに侍った。草庵に帰る際には、龍王たちは暦海を背負い、草庵では親近給仕し、奴僕のように振る舞った。(「石山寺縁起絵巻」巻2第6段)。
  歴海は淳祐の法流、真頼に始まる人師方(にんしがた)の僧で、淳祐の3代目の弟子に当たる。岩は龍穴の池の畔にいまもある。この地で祈雨法を修すると、陰雲たちまち起こるという。
◆仏像・木像 数多くの仏像が残されている。
 創建時の本尊は「観世菩薩」(1丈6尺)、脇侍は神王二柱(6尺)の塑像だったという。奈良時代、761年に完成した。だが、平安時代、1078年に焼失している。
 本尊の秘仏「木造如意輪観音半跏像」(重文)は、本堂の巨大な厨子(宮殿)内に納められている。日本で唯一の勅封の秘仏という。平安時代後期の作と推定される。1096年頃造立ともいう。1078年の炎焼で破損、鎌倉時代、1211年に崩壊、1245年に修復したともいう。江戸時代、1690年の新造ともいう。33年に1度、また天皇即位時にのみ開扉されている。2臂像で、左手は膝上で掌を開く。右手は肘を曲げ1指、3指で蓮華茎を掲げる。硅灰石の岩盤の上に置かれた木製蓮台に坐している。右足を曲げ左足を下げた半跏像。定朝様。寄木造、漆箔彩色。像高約301.2mの丈六仏。安産・福徳・縁結びの信仰がある。
 左右脇侍は等身大の「執金剛神立像」、「金剛蔵王立像(地蔵権現)」。
 2002年、本尊の像内から鎌倉時代に納入された飛鳥時代、奈良時代の観音仏の金銅仏4体(いずれも銅造、飛鳥時代の「如来立像」、飛鳥時代の「観音菩薩立像」、奈良時代の「観音立像」、飛鳥時代の「菩薩立像」)(いずれも重文)、「水晶製五輪塔」(重文)などが発見されている。また、江戸時代の右脇侍・「金剛蔵王(蔵王権現)像」の内部から、奈良時代の「塑像金剛蔵王心木」(重文)も見つかった。台座に左足だけで立ち、右手は曲げ拳を作り、右足も曲げ上げている。762年に造立された塑像の遺物という。像高159.8㎝。
 「本尊御前立像」は岩座に遊戯座、二重円光を背負う。快慶様。像高102.5㎝。
 「木造如意輪観音像」(重文)は、一木彫像、左足垂下蓮座を踏む。二重円光、平安時代中期作とみられる。
 本堂西内陣の「木造不動明王座像」(重文)は、平安時代中期作、かつて護摩堂の本尊という。大師様不動、迦楼羅焔光、瑟瑟座、一木彫、像高85㎝。
 本堂北西隅安置の「木造毘沙門天立像」(重文)は、瀬田の毘沙門天堂の本尊だったという。(『石山要記』)。平安時代後期作とみられる。寄木造、彫眼、295㎝。
 豊浄殿の「銅造釈迦如来坐像」(重文)は、施無畏・与願印、奈良時代後期作、像高14㎝。奈良時代の銅像の観世音菩薩立像」(重文)は、1948年に盗難に遭う。見つかるが頭部が切断されていた。像高56.2㎝。「木造維摩居士坐像」(重文)は、平安時代、9世紀前半作、像高51.5㎝。如意輪観音像」(重文)は、平安時代、10世紀後半作とみられる。本尊の御前立とみられ、二臂、頭上に天冠台、宝冠の岩座の坐像。両手が欠落している。像高61.3㎝。
 毘沙門堂安置の木造彩色の「兜跋(とばつ)形毘沙門天立像」(重文)は、平安時代、9世紀後半、一木彫、彩色、左手に塔、右手に三鈷戟、腰に長刀を差す。彫眼。像高172㎝。脇侍は吉祥天、善賦師童子。
 御影堂の「淳祐内供坐像」(重文)は、大師、良弁とともに安置されている。右手に独鈷、左手に数珠を持つ。玉願嵌入。室町時代、1398年作。像高77.6㎝。
 多宝塔本尊の「大日如来坐像」(重文)は、快慶と弟子の作、鎌倉時代、1194年の塔建立と同時期に制作された。寄木造、表面に漆を塗り金箔を張り、玉眼、衣には截金文様、左肩から襷状の条帛。像高101.7㎝。
 「木造伝三宝荒神像」(重文)、一木彫成像、像高51㎝。
◆建築 「東大門」(重文)は平安時代、1190年に建立された。近世初期、慶長年間(1596-1614)以後の大幅な修理がある。近世には仁王門と呼ばれた。現在地の東、瀬田川近くには惣門という別の門が建てられていた。板扉、組物は三手先、斜めに出る尾垂木がない。内部は組入天井、前後や隅行に虹梁、蟇股。3間一戸、八脚門、入母屋造、本瓦葺。
 東大門の西に太鼓楼屋根の「宿直屋(とのいや)」があり、明治期(1868-1912)前期建立とみられる。
 「多宝塔」(国宝)は、均整のとれた美しさを誇る。平安時代、1078年に焼失し、鎌倉時代初期、1194年の再建立であり、年代の明らかなものとしては日本最古とされている。源頼朝寄進ともいう。(『石山要記』)。慶長年間(1596-1615)に解体修理されている。日本三塔(高野山金剛三昧院の多宝塔、大阪府泉佐野市の慈眼院の多宝塔)の一つといわれている。外観は宝塔に裳階が付いた形で、下層に較べて上層の逓減が大きく安定感を与えている。縁高欄、長押、戸口廻り、垂木等は慶長年間(1596-1615)に改造された。二重は円形平面で裳階付き。上重が下重の半分以下に狭めてあり、軒の深い檜皮葺が特徴になっている。初重内部内陣に須弥壇があり、高欄は跳高欄の古例、地覆の上面は丸く、平桁、架木の端の反りが少ない。斗束は比肩が緩やかで斗はやや小さくなっている。天井は折上小組格天井。柱や天井廻りなどの壁面に、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれている。 3間3間、初重は方形、二重は漆喰塗の亀腹に、円形平面。
 「本堂」(国宝)は、正面の石段から上がると、珪灰石の岩盤上にあり、右手(北側)に正堂(しょうどう)、左手(南側)に外陣である礼堂(らいどう)、その間に合の間(造り合い)・源氏の間が造られている。創建年代の異なる3つの建物の複合建築(9間4間)になっている。正堂(7間4間)、合の間(1間7間)、外陣である礼堂(9間4間)があり、正堂と礼堂は寄棟造、両棟を相の間の両下造の屋根で繋ぎ、礼堂の棟を越えて破風を造る。総檜皮葺。正堂は良弁の創建によるという。奈良時代、761年、造東大寺司により増築されている。平安時代、1078年に焼失した。現在の建物は、平安時代後期、1096年に再建され、滋賀県内現存最古の建築物になる。創建時の柱も使用されているという。礼堂と相の間は安土・桃山時代、1602年、淀殿の寄進により改修され現在の形になった。正堂の組物は平三斗、間は間斗束、側面、背面に戸口、白壁、窓が開く。内部は内陣(5間2間)、土間で漆喰叩き、中央に厨子(3間2間)、内陣四方、幅1間通りに外陣、拭板敷。内陣に向かう正面は吹き放し。
 「礼堂」は懸造、寄棟造、檜皮葺、千鳥破風。身舎は7間3間、床、三方に縁、内部は折上格天井、勾配なりの化粧屋根裏。
 相の間東端2間に紫式部「源氏の間」(2間)があり、慶長年間(1596-1615)に改造されている。向唐破風造、花頭窓は源氏窓ともいわれる。
 「御影堂」(県指定文化財)は、室町時代、1398年頃に建立された。安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)以後に改修されている。組物は三斗、組物間は間斗束。内部に格天井。三昧堂、開山堂ともいう。淳供の住房・普賢院廃絶後に御影供を移したことから御影堂になった。かつては3間四方であり、後方に増築されている。真言宗の開祖弘法大師、当山開基の良弁僧正、第3代座主・淳祐内供の遺影を安置する。淳祐は生来、愚鈍、醜男だったという。毎夜、本尊に祈ると美男に生まれ変わったという。持仏堂風。3間4間、一重、宝形造、檜皮葺。
 「毘沙門堂」(県指定有形文化財)は、江戸時代、1773年に建立された。和歌山の藤原正勝が施主、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛、大工は大阪の大西清兵衛。大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てた。須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通肘木を虹梁型に加工し、中央に笈形付きの大瓶を載せ天井を受ける。3間2間、一重、宝形造、桟瓦葺、背面に閼伽棚。
 「観音堂」は、江戸時代、宝暦年中(1751-1763)の建立という。西国三十三所札所の観音を祀る。かつて、札を奉納し札堂とも呼ばれていた。入母屋造、桟瓦葺。
 
「経藏」(県指定有形文化財)は、岩盤の上に建てられている。安土・桃山時代、16世紀後期に建立された。かつて淳祐内供筆聖教などを収蔵していた。頭貫木鼻、桁、垂木に反り増し。八画の束柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪、校木は桁行・梁間方向とも同じ高さに十段組む。台輪は木鼻の部分で矧ぎ木。県下の数少ない校倉造遺構、切妻造の校倉も珍しいという。3間2間、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺。
 鎮守社の「三十八所権現社本殿」(重文)は、安土・桃山時代、1602年、慶長年間とも、豊臣氏の寄進建立によるとみられる。かつては彩色されていたという。硅灰石の上に建つ。蟇股、海老虹梁が見られる。組物は絵様大斗肘木。一間社流造、檜皮葺。
 「経蔵」(県指定文化財)は、校倉造、安土・桃山時代、16世紀後期-17世紀前期に建立された。岩盤上に建つ。かつては一切経、校倉聖教が納められていた。
 「鐘楼」(重文)は、鎌倉時代後期、源頼朝寄進ともいう。ただ、南北朝時代の建立とみられている。1953年に復元された。棟は短くされた。縁下、上層軒に三手先、斜めに出る尾垂木はない。袴腰全体を白漆喰塗としているのが珍しい。3間2間。重層袴腰付、入母屋造、檜皮葺。梵鐘」(重文)は平安時代作。
 「蓮如堂」(重文)は、安土・桃山時代、1602年に豊臣の寄進による。また慶長年間(1596-1615)、淀殿による復興の際に、三十八所権現社本殿の拝殿として建築されたという。近世まで鎮守社拝殿として礼殿、拝殿と呼ばれていた。1811年に桟瓦葺に葺き替えられた。神事のほか、仏事にも使用されていた。近代、明治期以降、板敷間に蓮如6歳の御影、遺品を安置し、蓮如堂と呼ばれた。懸造で硅灰石の崖の岩盤上に建つ。現在は蓮如の遺影、遺品を安置している。入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、北側一間通りを広縁とする。懸造。5間4間の入母屋造、桟瓦葺。
 「毘沙門堂」(県指定文化財)は江戸時代、1773年建立。正面3間の宝形造、桟瓦葺。
 「大黒天堂」は入母屋造、近代、明治期に建立された。
 「大湯屋」は、切妻造、桟瓦葺、江戸時代、1733年頃に建立された。
 「宝蔵」は、土蔵造、江戸時代、1808年に建立された。
 「月見亭」は、江戸時代後期、また近代、1929年の建立ともいう。かつての建物は、平安時代末期、第77代・後白河天皇行幸の際に建てられ、改修を重ねられたという。方1間、柱間吹放し、茅葺、こけら腰付。
 「芭蕉庵」は、近代、1883年の建立とみられる。月を眺める建物であり、境内上段、瀬田川を見下ろせる迫り出した崖上にある。観月亭とも呼ばれていた。平屋建、和風建築。
 「宝蔵」は、江戸時代、1808年に建立された。 上は漆喰の白壁、下は海鼠壁、土蔵造。
 「心経堂」は、1990年に建立された。壁柱は丹塗り、八角輪堂の一面に如意輪観世音菩薩、ほかの7面に写経が納められている。花山法皇(第65代)の西国三十三所観音霊場の中興を記念し、心経写経の保存のために建立された。方形造、総ヒノキ造。
 「芭蕉庵」(非公開)は、近代、1883年建立とみられる。松尾芭蕉ゆかりの茶室という。「曙は まだむらさきに ほととぎす」「石山の 石にたば しる 霰かな」などの句を残した。平屋建、和風建築。
 
「豊浄殿」は、1970年に建立された。収蔵庫であり、宝物、紫式部、『源氏物語』関連の史資料、文献、美術品などが収蔵展示されている。
◆院家 近世には8院家(塔頭)が存在した。近代以降は廃され、2院家(法輪院、宝性院)のみが残る。現在の東大門の東にも7つほどの坊があったという。
◆鎮守社 「三十八所権現社」の祭神は観音二十八部衆と法華十羅刹女(『石山要記』)、また、般若十六善神と薬師十二神将(『近江輿地誌略』)ともいう。
 
「若宮」は、2002年建立という。祭神は天照皇大神になる。飛鳥時代の大友皇子(648-672)を崇める壬申の乱の際に葬り、寺僧により供養されてきたものという。境内に祀られている三十八所権現社が親社という。飛鳥時代、672年の壬申の乱は、第38代・天智天皇の子・大友皇子と同天皇の実弟・大海人皇子の皇位継承をめぐる争いだった。一か月余の戦いにより、大友皇子は自害、大海人皇子が翌年即位し第40代・天武天皇となる。
◆珪灰石 石山寺の境内には、石山寺硅灰石の岩盤が各所に露岩している。地層面に沿い、多数集合し、風化も進んでいる。石山寺の名称は、この岩盤の上に建てられていることによる。1922年、国の天然記念物に指定された。2007年、「日本の地質百選」に選ばれている。本堂も三十八所権現社本殿、経蔵などもこの岩盤の上に建っている。
 硅灰石は、ジュラ紀付加体の石灰岩が、貫入してきた花崗岩の熱変成作用を受けている。カルシウムの珪酸塩鉱物で、ガラス光沢があり、板状や柱状の結晶を作る。石山寺では、大理石に成らず大規模な硅灰石に変わった。色は淡黄色、淡褐色、純白色をしている。また、大理石、ベーブ石、石灰岩などによる大岩塊が混じり、褶曲(しゅうきょく)している。
◆文化財 多数現存している。
 「釈摩訶衍論(よみ しゃくまかえんろん」全10巻(国宝)は、『大乗起信論』の注釈書で竜樹の著とされる。真言宗では根本経典の一つとされる。石山寺本は、1巻から5巻までで、中国・唐代写経の巻1巻の首題下部分には、唐の則天武后が定めた則天文字が使用されている。江戸時代に折本装に改装された。
 「淳祐内供筆聖教」73巻・1帖(国宝)は、3代座主・淳祐が書写した聖教をいう。835年に空海没後、921年に醍醐天皇は弘法大師の諡号を贈る。淳祐は大師号と法衣を奉じた師の観賢に従い、高野山奥院の弘法大師御廟に赴いた。淳祐は入定のままの姿で坐す空海の膝に触れると、その香気が手に移ったという。香気は生涯消えることはなく、淳祐が書写した聖教類にも香気が残ったという伝承がある。このため、「薫聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれた。座主以外は開くことが許されなかった。
 「石山寺一切経」(重文)は、4644帖(200巻)からなり、奈良時代-室町時代になる。奈良時代、730年の最古の奥書「瑜伽師地論」、鎌倉時代-室町時代の版経398帖、念西の院政期の2915帖を含む。
 「石山寺校倉聖教」(重文)は、書跡・典籍ト書など1925点あり、平安時代-安土・桃山時代に至る。聖教中で最重要なものとして校倉経蔵に一切経と共に収納されていた。淳祐の教学研究を継いだ書写、それらを蒐集している。朗澄(1132-1209)、その師・慶雅(1103-?)などの書写・所持本が多い。
 『胎蔵私記』『虚空蔵念誦次第』(966)、『仏説六字神呪王経』、白描図像や各種の曼荼羅図などの『大正新修大蔵経』図像篇など。石山寺には平安時代の白描画が数多く現存している。白画ともいわれ、描線を主体とし墨一色で描いた絵で、わずかに淡彩を施したものもある。僧侶が多く描いた。
 『石山寺漢書』は、中国前漢の歴史書で120巻から成る。後漢の班固の著で、彼の死後、妹の班昭が完成したといわれている。石山寺蔵の『漢書』は、中国の唐時代の学者・顔師古が注釈を加えた古写本で、巻1下の「高帝記下」、巻第34の「列伝第4」に相当する。奈良時代に日本で制作された。「高帝紀下」には、平安時代、10世紀中頃の全巻に角筆(かくひつ)の跡がある。これは、筆記具で紙を凹ませることにより、紙表面に文字や絵を書いた。仮名、ヲコト点、声点や漢字による注があり、当時の漢書の訓読法としても貴重とされている。紙背には、元杲の著作『金剛界念誦私記』が書写されている。
 平安時代、1163年の奥書「伝法記」の紙背に書状「時鳥の願文」がある。
 近代に見出された「深密蔵聖教」は、主に江戸時代のもの。かつて諸院坊に所蔵されていた。
 鎌倉時代の「仏涅槃図」(重文)は、ほかに見られない特徴がある。釈迦の両眼が開く。摩耶夫人が居ない。供養台に仏具、卓子に袈裟を安置している、七宝、蓮弁、飛天舞う様など。
 紙本着色絵巻物『石山寺縁起絵巻』7巻(重文)は、1324-1326年に書かれた。33の場面が絵や詞書で記されており、縦34㎝、112mの長さ(1巻平均16m)がある。1、2、3、5巻が南北朝時代作、正中年間(1324-1326)、14世紀後半。4巻が室町時代作、6、7巻が江戸時代、1805年による。石山寺の草創と本尊の霊験譚、紫式部の『源氏物語』構想、さまざまな逸話、伝承などを描いている。1巻-3巻は、詞書・杲守、絵・高階隆兼とされ、柔軟な描線と精緻彩色による。4巻は詞書・三条西実隆、絵・土佐光信、5巻は詞書・冷泉為重、絵師は不明。6巻、7巻は、江戸時代に知足院尊賢が白河楽翁(松平定信)の援助により補作させたという。詞書・飛鳥井雅章、絵・谷文晁一門による。俯瞰の構図で美しい色彩と、大和絵の手法による時空の移動を示す霞形、異時同時図なども用いられている。
 江戸時代の伝・土佐光起(1617-1691)筆の紙本著色「源氏物語末摘花巻」。
 絹本著色「涅槃図」(重文)、鎌倉時代前期、13世紀作とみられている。縦249.1㎝、横281.2㎝。
 絹本著色「不動明王二童子像」(重文)は室町時代前期(14世紀)作。
 鎌倉時代初期以前のものが大半の「白描図像」は、儀軌(密教の念誦供養の方法や規則、それらを記した典籍)により描いた彩色しない仏像画で、「校倉聖教」に含まれる。朗澄も多く描いた。 
 多宝塔内に描かれている「石山寺多宝塔柱絵」(重文)は、鎌倉時代作、初重には1194年の創建当初の作と思われる尊像群、文様が描かれている。尊像は当初54体あり、現在は20数体が確認できる。大日如来をはじめ金剛界五仏、四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、四摂菩薩など金剛界三十七尊を中心に構成されていたとみられる。また、五大明王坐像を書き加えている点が珍しい。朗澄(1131-1209)が指導した可能性があるという。
 「梵鐘」(重文)は、平安時代作、駒の爪が目立たない、竜頭の向きと撞木が直交している、撞座が高い、乳が108ではないなどの古式の特徴がある。
 「源氏物語絵巻 末摘花」1巻(重文)、江戸時代写、伝土佐光起筆。巻頭16行筆者・四辻季賢(1630-1668)、奥書は季通(1619-1693)。
 弥生時代後期の「袈裟襷文銅鐸」(重文)は、江戸時代、1806年に境内水田より出土した。縁起にある「五尺」の銅鐸ともいう。総高91.5㎝。
◆石造物 境内には50基以上の石造物がある。源頼朝の供養塔という「宝篋印塔」(重文)は、室町時代初期造立とみられている。西に南北朝時代の「亀谷禅尼供養塔」(重文)が立つ。「紫式部供養塔」という石塔がある。「淳祐内供供養塔」といわれる宝塔は鎌倉時代後期作。「悪源太義平供養塔」という宝篋印塔がある。
 
「宝篋印塔」は、源頼朝の供養塔という。源頼朝(1147-1199)は義朝3男。鎌倉幕府初代将軍。1160年平治の乱、1180年以仁王の乱に敗れた。1185年壇ノ浦の戦いで平氏を、1189年に奥州藤原氏を滅ぼし全国を平定した。1192年に征夷大将軍に任じられ、以後700年の武家政治が続く。源平の乱にあたり、頼朝の命を受けて戦った中原親能(1143-1208)は、石山寺の毘沙門天に賊討伐の戦勝を祈願し、成就したことから境内に勝南院を建立した。頼朝は、乳母であり親能の妻・亀谷禅尼は当寺に住しその請により、石山寺の多宝塔、東大門、鐘楼などを寄進したともいわれている。基壇に格狭間、笠の耳飾りに中世の特徴がある。
 
「宝塔」(重要美術品)は、平安時代作というが、鎌倉時代後期作とみられる。めかくし石といわれている。かつては「めくら石」と呼んだ。目を隠してこの石を完全に抱けば所願成就になるという。壺型塔身、笠、相輪がのる。相輪は後補。高さ3m。
 
「宝篋印塔」(重文)は、南北朝時代に建立された。源頼朝乳母・亀谷禅尼の供養塔という。亀谷禅尼は源頼朝の乳母であり親能の妻でもあったという。中原親能(なかはら の ちかよし、1143-1209)は、平安時代末期-鎌倉時代初期の官人、文官御家人、鎌倉幕府政所公事奉行。
 
「三重宝篋印塔」(重要美術品)は、経藏近くにあり、紫式部供養塔という。鎌倉時代作になる。当初から三重だったかについては不確定とされる。ただ、ほかに類例はある。初重軸部に四方仏が半肉彫りされている。
 東大門南の石造道標に江戸時代「天明五年(1785年)」建立とある。
◆霊仙三蔵碑 無憂園内に霊仙三蔵碑が立てられている。霊仙(りょうせん、759? - 827?)は、奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧、日本で唯一の三蔵法師になった。近江国、また阿波国に生まれたという。興福寺に学び、804年に第18次遣唐使として最澄・空海・橘逸勢らと渡る。長安で学び、811年に「三蔵法師」の号を与えられる。だが、仏教秘伝流出を危惧する勢力により、帰国を禁じられた。反仏教害を恐れて五台山に移る。825年に僧・貞素に託し仏舎利、経典を日本に送る。帰国することなく客死する。霊境寺で毒殺されたともいう。840年に霊境寺に立ち寄った円仁は、霊仙の最期を聞いたとされる。その遺物や大元帥法秘伝などを日本に持ち帰ったともいう。
◆紫式部と石山寺 寺伝によれば、平安時代、1004年、また寛仁年間(964-1035)、8月、選子内親王のために上東門院は、紫式部に物語を書くように促した。紫式部は石山寺に7日間参籠する。8月15日(旧暦)、金勝山よりさし昇る中秋の名月下、物語の構想が浮かび筆の趣くままに綴ったという。(『石山寺縁起絵巻』、巻4第1段)。「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊恋しく」と書き綴る。これが、『源氏物語』の第12帖「須磨」巻、第13帖「明石」巻の2編だった。また、「大般若経」6巻(現存)を書いて奉納したという。(『河海抄』「石山寺縁起絵巻」4巻第1段)。これらは、貴人の石山観音信仰に由来するという。
 『紫式部日記』『紫式部集』にこれらの記載ない。紫式部の石山寺参詣の可能性は否定されていないが、『源氏物語』の執筆については確定していない。石山寺で物語の着想を得て、執筆は大祖父・藤原兼輔の邸宅(廬山寺)で行ったともいう。
 謡曲『源氏供養』では、安居院(あぐい)法印が石山の観音に参詣する。途中、里女が現れ、成仏できないと供養を頼む。法印が石山寺に詣でて回向すると、里女(紫式部の亡霊)が現れた。自分は、寺に籠り悲願を込めて『源氏物語』を書いた。だが、虚言により書いて、光源氏に供養をしなかった罪により、未だに成仏できないと嘆く。式部の頼みにより聖覚は寺で供養をした。夜更けに、亡霊が再び現れ、礼の舞いを舞う。
 紫式部は石山寺の観音化身との伝承がある。本堂には執筆した部屋とされる「紫式部の間(源氏の間)」(4畳)が造られている。愛用したという硯もある。源氏の間は、貴人の参籠の間として用いられていた。
◆文学 歌に詠まれている。「石山のたうの前に侍りけるさくらの木にかきつけ侍りける」「うしろめたいかでかへらむ山ざくらあかぬにほひを風にまかせて」(『拾遺集』)、「つまこふる声ぞかなしき別れては鹿はいかなる心地かはせし」(『赤染衛門集』)など数多い。
 数多くの文人が参詣している。平安時代、歌人・藤原道綱母(兼家の妻)(936?-995)は、970年7月(旧暦)、夫の正妻・時姫、愛人・近江などの女性関係に悩み石山寺を参詣した。「夜になりて湯など物して、御堂にのぼる。身のあるようを仏に申すにも、涙にむせぶとていひもやられず」。叶わない子宝を仏に祈願し、一夜泣き明かす。観音堂に籠ると観音の夢告があり、自らの情念を断とうとする。(『蜻蛉日記』(970年の条)。8月、夫・藤原兼家も参詣し関係は修復する。
 平安時代の学者・歌人の源順(みなもと の したごう、911-983)は、『万葉集』の訓方(古点)に苦慮し、梨壺ら5人と参籠する。途中、馬方の会話から「左右」の字を「まで」と読むことを着想し解いたという。
 平安時代の作家・歌人の清少納言(966?-1025?)の『枕草子』208段に、「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とある。
 平安時代の和泉式部(978?-?)は『和泉式部日記』(15段)で、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とある。和泉式部は為尊親王と交際し、その没後1年の1003年、弟の敦道親王と恋愛関係になる。親王が和泉式部を召人として邸に住まわせたことから、正妃・藤原済時の娘の怒りを買った。
 平安時代の菅原孝標女(1008-1059)の『更級日記』にも記されている。1001年11月、木枯らしの吹く中、「後の世までのことを思はむ」として石山寺に向かう。逢坂山で「あふ坂の関の山吹く風は昔聞きしに変はらさりけり」と詠んだ。その夕刻、寺に着き、3日間の参籠をしている。1003年にも再訪し、夜に、「谷川の流れは雨と聞ゆれと ほかよりはるる有明の月」と詠んだ。
 室町時代、1555年8月、紫式部、また『源氏物語』を偲び、公卿・歌人の三条西公条(1455-1537)は大覚寺義俊(1504-1567)、宗養(1526-1563)、紹巴(1525-1602)らを伴い石山寺を参詣した。倉坊を宿所にし、千句連歌(石山千句)を詠む。第一百韻公条の発句「諸人の年の花つむ若菜かな」。
 鎌倉時代の鴨長明(1155-1216)は、日野より輿により山越し、石山寺、岩間寺に参籠したという。(『無名抄』『方丈記』)
 室町時代の一休宗純(1394-1481)は、師・謙翁を喪い、石山寺に7日間参籠した。琵琶湖に投身自殺はかり、母の使者に助けられた。(『東海一休和尚年譜』)
 江戸時代、月見亭の隣にある芭蕉庵に、俳諧師・松尾芭蕉(1644-1694)は、度々仮住いしたという。「石山の 石にたばしる あられかな」、境内に句碑が立つ。「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」。
 近代、自然主義文学者の島崎藤村(1872-1943)は、1893年、教え子・佐藤輔子との恋愛に悩む。輔子にはすでに許嫁がいた。藤村は明治女学校の教職を去り、キリスト教を棄教する。関西へ旅の途中、石山寺の茶丈・密蔵院(現在の表境内、東大寺門東付近)に2か月間滞在した。「そもそも石山寺といふは名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を閉して今はその名のみをとどめたる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名月に浮べたる源氏の間には僅にそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたたき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。」(『文學界7号』島崎藤村「茶丈記」)』(1893)。藤村は後に長編小説『春』(1908)に輔子をモデルにして書いている。また、境内には紀行文『石山寺にハムレットを納むるの辞』(1893)の一節からとった文学碑が立つ。「湖にうかぶ詩神よ心あらば 落ち行く鐘のこなたに聴けや 千年の冬の夜ごとに石山の 寺よりひびく読経の声こえ」。
 平安時代から江戸時代にかけて歌人、漢詩人、文人などが参詣に訪れた。歌人の東三条院、藤原行成、藤原実方、藤原長能、藤原公任、藤原為家、近衛政家、三条西実隆、三条西公条、伊勢大輔、頓阿、尊海、細川幽斎、連歌の二条良基、周阿、侍公、宗養、紹巴、漢詩人の藤原敦光、藤原茂家、藤原茂明、藤原周光、釈蓮禅、三条西公条、大覚寺性深、江心承薫、林羅山、沢庵、松永貞徳、石川丈山などになる。
 能の「源氏供養・悪源太」は石山が舞台になる。
◆庭園 梅林第一梅園「薫の苑」は、国宝『薫の聖教』を著述した淳祐内供ゆかりの地で、藤牡丹・白滝などの梅が咲く。ほかに、第二梅園「東風の苑」、第三梅園がある。
 光堂周辺に牡丹苑園、源氏苑がある。琵琶湖の形をした回遊式庭園の無憂園には、甘露の滝、大観亭が建つ。花菖蒲が花咲く。
◆石山貝塚 境内の山門東一帯、瀬田川西畔の、大津市石山寺辺町に縄文時代の貝塚遺跡(市指定史跡)がある。付近一帯には縄文人の居住区があったとみられている。貝塚の規模は東西約20m、南北約50m、深さは深いところで2mの貝層が堆積していた。淡水産貝塚では国内最大の規模になる。1941年以降に調査が行われ、1950年、1951年に成果を上げた。発掘調査方法は、土器の出土層による形式変化・土器編年であり、その後の発掘調査の基礎資料になった。
 貝はぼぼ淡水産で、琵琶湖特産のセタシジミが全体の78%を占め、ほかにナガタニシなど10数種類、コイ、フナ、スッポン、キジ、イノシシなど哺乳類の骨も見つかっている。海水産のウツボ、イシダイ類などもあり、海辺との交易も行われていた。埋葬された人骨(成人男子2体、女子2体、小児1体)もあり、子供の首には海水産のヤカドツノカイ(細長い角状で断面が八角形)で造った玉がかけられていた。
◆花暦 石山寺は花の寺ともいわれている。
 寒椿(1月)、梅林「薫の苑」の梅・蝋梅・水仙(2月)、雪柳・彼岸桜(3月)、桜(山桜、枝垂れ桜、染井吉野)・ツツジ(ミツバツツジ、キリシマツツジ)・椿・木蓮(4月)、参道両脇の樹齢200年の霧島つつじ・本堂下のシャガ群生(4月下旬-5月上旬)、藤・山吹・射干・牡丹(5月)、無憂園の花菖蒲・山ツツジ(6月)、百合(笹百合、鉄砲百合)(7月)、百日紅・金糸梅(8月)、夾竹桃(9月)、萩・金木犀・秋明菊(10月)、紅葉・紫式部(11月)、山茶花(12月)。
◆年間行事 除夜の鐘・香水加持法要(1月1日)、初詣・修正会大祈祷厳修)(1月1日-3日)、初内供(1月2日)、初開山(1月16日)、初観音・初牛玉さん(1月18日)、初弘法(1月21日)、初不動・護摩祈祷(1月28日)、節分星祭り・護摩祈祷(2月3日)、常楽会(2月15日)、大森社・初午(2月第4土曜日)、春季彼岸会先祖供養(開白・中日・結願)(3月彼岸)、春季「石山寺と紫式部」展 (3月18日-6月30日)、弘法大師御忌法要(4月21日)、石山祭り・三十八所権現社大祭(5月5日)、お花祭り(5月8日)、青鬼祭(朗澄は没後聖教を守るために鬼形となったという。青鬼が境内を練る)(5月20日)、琵琶湖祭(8月1日)、千日会法要・毘沙門おどり・石山寺花火大会(8月9日)、孟蘭盆会(8月13日-8月16日)、世界平和祈願法要(8月15日)、送り火法要(8月16日)、毘沙門会法要(8月26日)、秋季「石山寺と紫式部」展(9月1日-11月30日)、秋季彼岸会(9月大彼岸一週間)、秋月祭(9月29日-9月30日)、中秋の名月(9月30日)、もみじライトアップ(11月17日-11月25日)、三十八社以下鎮守お火焚き(12月1日)、仏名会(12月6日-12月8日)、大森社お火焚き(12月8日)、大掃除(12月13日)、終観音(12月18日)、終弘法(12月21日)、正月用餅つき(12月26日)、終不動(12月28日)、迎春準備(12月30日)、大晦日(12月31日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*一部の建物内部の撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼近江2 石山寺』『石山寺の信仰と歴史』『石山寺と近江の古寺』『近江・若狭・越前寺院神社大事典』『日本の絵巻 16 石山寺縁起』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『事典 日本の名僧』『スペンサーコレクション蔵 日本絵巻物抄 付 石山寺像』『源氏物語の近江を歩く』『おんなの史跡を歩く』『社寺』『京を彩った女たち』『京都の地名検証 3』


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経藏近く、松尾芭蕉句碑「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」(1690年)


経藏近く、紫式部供養塔、三重宝篋印塔(重要美術品)、初重軸部に四方仏が半肉彫りされている。鎌倉時代作。当初から三重だったかについては不確定。ただ、ほかに類例はある。

経藏近く、2基の宝篋印塔

鐘楼((重文)

多宝塔




多宝塔(国宝)、木造大日如来坐像(重文)

若宮

宝篋印塔

宝篋印塔

宝塔(重要美術品)

宝篋印塔、源頼朝の供養塔。

宝篋印塔(重文)、源頼朝乳母・亀谷禅尼の供養塔。

宝蔵

宝蔵

芭蕉庵(非公開)、平屋建ての和風建築、近代、1883年建立とみられる。
 松尾芭蕉ゆかりの茶室という。「曙は まだむらさきに ほととぎす」「石山の 石にたば しる 霰かな」などの句を残した。

芭蕉庵

月見亭、渡廊


月見亭、月を眺める建物で、境内上段、瀬田川を見下ろせる迫り出した崖上にある。

月見亭付近からの東の眺望、眼下に右手に流れている瀬田川、左奥に名神高速道路の架橋、瀬田の唐橋が見える。その奥が琵琶湖になる。

心経堂



心経堂、如意輪観世音菩薩

豊浄殿

源氏文庫、豊浄殿に隣接している。

菅原道真ゆかりの東風の苑の梅園

光堂

光堂


光堂


紫式部銅像、近くに源氏苑という庭がある。

光堂から南に見える袴腰山(はかまこしやま)。山の形が台形をしており、袴を穿いたように見えることから名付けられた。標高391m。

補陀落山


八大龍王社


八大龍王社

八大龍王社

八大龍王社、龍穴の池

尻掛石、龍穴の池の畔にある。平安時代の僧・歴海がこの石に座り八大龍諸王を供養したところ、諸龍が喜び歴海を終生敬い守護したという。歴海は淳祐に繋がる人師方(にんしがた)、淳祐弟子・真頼の孫弟子に当たる。
 

源義平かくれ谷という付近の林、八大龍王社の西にある。
源義平(1141‐1160)は、平安時代末期の武将。源義朝の長子、頼朝の兄。悪源太と呼ばれた。1155年叔父・義賢(源義仲の父)を殺害。1159年平治の乱で父に従い参戦、六波羅の戦で敗退、東国に逃れた。1160年平清盛を討とうとして難波経房に捕らえられ、六条河原で処刑された。
 この近くに悪源太供養塔という五輪塔があるという。

西国観音霊場

西国観音霊場

茶丈・密蔵院の表門

江戸時代、境外200m程の所あった小川に設置されていた水車小屋の水車。米の脱穀用の動力に使われていた。また、近年まで、これを足で踏んで、高所に水を上げていたという。

密蔵院

第3世・座主普賢院淳和内供

淳和の宝塔

崩れ石積みの庭

梅園

下向坂

大湯屋、切妻造、桟瓦葺、正面に板扉、連子窓、江戸時代、1733年頃に建てられたとみられている。

大黒天堂

大黒天堂、入母屋造、妻入、1間目に外陣、伝承によると本尊は950年前に、3人の僧の夢告により湖水より出現したという。 室町時代、650年前に秘仏本尊の御前立の仏様が造立されたという。

大黒天堂

公風園白耳亭、薬医門


拾翠園、薬医門
池泉に祀られている金龍龍王、江戸時代中期に現れたという。大日如来の化身であり、当寺院の守神、厄除招福の信仰を集める。

「此是南石山寺領」の石標、拾翠園。
かつて寺領地の境界に立てられていたものか。

宝性院、薬医門

芭蕉句碑「石山の 石にたばしる 霰(あられ)かな」、石山寺表境内。
 江戸時代、1690年冬の日に石山寺を訪れた際の句。

青鬼の小唄の歌碑、石山寺表境内。 
「降魔のすがたと なりたもう 朗澄律師の 青鬼は 悪心くじき 福徳を あたえ給うも ありがたや」 
石山寺50世座主・光遍和尚による中興の朗澄を讃えた詩。

島崎藤村の詩碑、石山寺表境内。
「湖にうかぶ詩神よ 心あらば 落ちゆく鐘のこなたに 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経の こえ」
この地にかつて茶丈密蔵院があった。藤村は2か月滞在した。現在は石山寺山内に移築されている。



朗澄大徳遊鬼境(朗澄大徳ゆかりの庭園)、東大門の北。
 池泉があり「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄の姿が石に刻まれている。
 僧・朗澄(1131-1209)は、没後、石山寺経蔵の一切経、聖教を守護し、万民の降魔招福の鬼と化したという。
 石山流の師、文泉坊朗澄は生前に語っていた。死後に鬼の姿となり多くの畜生類を連れ聖教を護り、法に従わない者を改めさせるとした。没後、霊が現れ不思議なことが続いた。弟子の行宴は、師の居場所を探し祈ると、夢に西の山の峰、松の梢にその姿が現れた。その場所に行くと、虚空に声がして定印を結び両眼にあてて見よという。その通りにすると、金色の鬼が四方を圧し、厳しい表情だった。松樹の上に鬼と化した師の朗澄が現れていた。(「石山寺縁起絵巻」、6巻第2段)

【参照】三禁鈷の松、平安時代、811年、空海は42歳の厄年に3か月間、石山寺に修行したという。空海ゆかりの松ということで三鈷の松といわれた。「東海道名所図会」(1797)にも描かれているという。

【参照】石山寺港付近、石山寺は瀬田川に面している。かつて境内地は川付近まであり、惣門、房舎も建てられていた。

【参照】「史跡 石山貝塚」の石標

【参照】貝塚の貝層削ぎ取り断面標本、石山観光協会内に展示されている。
石山寺 〒520-0861 大津市石山寺1-1-1  077-537-0013

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