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石山寺 (滋賀県大津市) Ishiyama-dera Temple |
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石山寺 | 石山寺 |
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![]() 「西国十三番 石山寺」の山号石標 ![]() ![]() 東大門(重文) ![]() 東大門、山号扁額 ![]() 東大門、参道 ![]() ![]() 東大門、阿仁王像、金剛柵 ![]() 東大門、大草鞋 ![]() 宿直屋、東大門に隣接する。 ![]() 宿直屋、太鼓楼屋根 ![]() 参道 ![]() ![]() 参道、楓の並木 ![]() 池 ![]() くぐり石 ![]() 比良明神影向石 ![]() ![]() 手水舎、池畔に建つ。 ![]() ![]() 手水舎 ![]() 閼伽井屋、池の畔に建つ。 ![]() 中段の境内に向かう石段。 ![]() 那須与市地蔵尊 ![]() ![]() 竜蔵権現社、石段途中に祀られている。 ![]() ![]() 観音堂 ![]() 毘沙門堂(県指定有形文化財) ![]() 毘沙門堂、兜跋(とばつ)毘沙門天(重文)・吉祥天・善膩師童子の三尊を安置する。 ![]() 宝篋印塔、四方に四国88カ所霊場の土が埋められており、塔を廻ると同じ功徳が得られるという。 ![]() ![]() ![]() 蓮如堂(県指定指定有形文化財) ![]() 御影堂(県指定文化財) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天然記念物硅灰石(けいかいせき) ![]() ![]() ![]() 本堂(国宝) ![]() ![]() ![]() 本堂東、庇は身舎、庇柱の間に海老虹梁、垂木を見せる化粧屋根裏、縁。 ![]() 本堂南の礼堂、縁 ![]() 本堂の礼堂、懸造、岩盤上に床よりの束柱を降ろしている。 ![]() 本堂、縋破風の檜皮葺屋根 ![]() ![]() 本堂、相の間に造られた源氏の間 ![]() 本堂、源氏の間の花頭窓、源氏窓ともいわれている。 ![]() 本堂相の間、紫式部源氏の間、紫式部の人形 ![]() 本堂相の間、紫式部源氏の間 ![]() ![]() 本堂、紫式部の絵馬 ![]() ![]() ![]() 本堂、紫式部開運おみくじ結び所 ![]() ご神木の大杉 ![]() 子育観音、硅灰石の岩盤を背景にしている ![]() 子育観音 ![]() 境内路傍の地蔵尊 ![]() 鴨祐為県主詠艸草塚、子育観音への道の傍らにある。 ![]() ![]() 三十八所権現社 ![]() 三十八所権現社 ![]() 三十八所権現社(県指定有形文化財)、硅灰石の岩盤上に建てられている。 ![]() 三十八所権現社近くの硅灰石 ![]() 経蔵(県指定有形文化財) ![]() 経蔵、腰掛石 この岩に座ると安産するといわれている。 ![]() 経蔵近く、松尾芭蕉句碑「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」 ![]() 経蔵近く、紫式部供養塔、三重宝篋印塔(重要美術品)、 ![]() 経蔵近く、2基の宝篋印塔 ![]() 鐘楼(重文) ![]() 多宝塔 ![]() ![]() ![]() 多宝塔(国宝)、木造大日如来坐像(重文) ![]() ![]() 若宮 ![]() 宝篋印塔 ![]() 宝篋印塔 ![]() 宝塔(重要美術品) ![]() 宝篋印塔、源頼朝の供養塔。 ![]() 宝篋印塔(重文)、源頼朝乳母・亀谷禅尼の供養塔。 ![]() 宝蔵 ![]() 宝蔵 ![]() 芭蕉庵(非公開) ![]() 芭蕉庵 ![]() 月見亭、渡廊 ![]() ![]() 月見亭 ![]() 月見亭付近からの東の眺望、眼下に右手に流れている瀬田川、左奥に名神高速道路の架橋、瀬田の唐橋が見える。その奥が琵琶湖になる。 ![]() 心経堂 ![]() ![]() 心経堂、如意輪観世音菩薩 ![]() 豊浄殿 ![]() 源氏文庫、豊浄殿に隣接している。 ![]() 菅原道真ゆかりの東風の苑の梅園 ![]() 光堂 ![]() 光堂 ![]() ![]() 光堂 ![]() ![]() 紫式部銅像、近くに源氏苑という庭がある。 ![]() 光堂から南に見える袴腰山(はかまこしやま)。山の形が台形をしており、袴を穿いたように見えることから名付けられた。標高391m。 ![]() 補陀落山 ![]() ![]() 八大龍王社 ![]() 八大龍王社 ![]() 八大龍王社 ![]() 八大龍王社、龍穴の池 ![]() 尻掛石、龍穴の池の畔にある。 ![]() 源義平かくれ谷という付近の林、八大龍王社の西にある。 ![]() 西国観音霊場 ![]() 西国観音霊場 ![]() 茶丈・密蔵院の表門 ![]() 水車 ![]() 密蔵院 ![]() ![]() 第3世・座主普賢院淳和内供 ![]() 淳和の宝塔 ![]() 崩れ石積みの庭 ![]() 梅園 ![]() 下向坂 ![]() 大湯屋 ![]() 大黒天堂 ![]() 大黒天堂 ![]() 大黒天堂 ![]() 公風園白耳亭、薬医門 ![]() ![]() 拾翠園、薬医門 ![]() 「此是南石山寺領」の石標、拾翠園。 ![]() 宝性院、薬医門 ![]() 芭蕉句碑「石山の 石にたばしる 霰(あられ)かな」、石山寺表境内 ![]() 青鬼の小唄の歌碑、石山寺表境内 ![]() 島崎藤村の詩碑、石山寺表境内 ![]() ![]() 朗澄大徳遊鬼境(朗澄大徳ゆかりの庭園)、東大門の北 ![]() 【参照】三禁鈷の松、瀬田川河畔 ![]() 【参照】石山寺港付近、石山寺は瀬田川に面している。かつて境内地は川付近まであり、惣門、房舎も建てられていた。 ![]() 【参照】「史跡 石山貝塚」の石標 ![]() 【参照】貝塚の貝層削ぎ取り断面標本、石山観光協会内に展示されている。 |
石山寺(いしやま-でら)は、山麓から山頂にまで寺域が広がる。境内上段からの眺めは、近江八景の一つ「石山の秋月」と称えられた。かつて瀬田川河畔にまで坊舎が広がっていた。 境内は、巨大な珪灰石の岩盤上にあり、石山寺の寺号の由来になった。山号も石光山(せっこうざん)という。 古くより観音の霊地とされ、多くの文学者たちが参詣に訪れ「文学の寺」としても知られる。多くの文化財も所蔵し、「近江の正倉院」ともいわれた。貴重な建造物も多数現存している。 東寺真言宗、本尊は秘仏の如意輪観音。安産、厄除け、縁結び、福徳などの信仰がある。 西国三十三所観音霊場第13番札所。江州三十三観音第1番、近江三十三観音第3番、神仏霊場巡拝の道第146番(滋賀第14番)。 庭園は「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 古来より、石山の地は神聖な場所とされてきた。 飛鳥時代、660年代、一帯は石切り場とされていた。 672年、壬申の乱で大友皇子は現在の多宝塔東側に手厚く葬られたという。 奈良時代、747年、良弁僧正は、第45代・聖武天皇の勅願により当寺を開基したという。(寺伝) 749年/天平勝宝年間(749-757)、聖武天皇の勅願により、良弁僧正が開基する。当初は華厳宗だった。この時、地中より五尺の宝鐸(銅鐸?)が出土したという。(『石山寺縁起絵巻』『三宝絵詞』) 天平宝字年間(757-765)、奈良・東大寺造営に際して、近江からの用材を集荷した役所の造石山院所(石山院)がこの地に置かれ、仏堂が改築されたともいう。石山寺の前身になる。 759年、境内西北に第47代・淳仁天皇による保良宮(ほらのみや)造営が始まる。 761年/761年-762年、東大寺の僧・良弁が、造東大寺司(ぞうとうだいじし)の支所である造石山院所を寺院に改めたのが当寺の始まりともいう。保良宮の鎮守寺として、造東大寺司の下、造石山院所により本堂、緒堂が整備拡張されたという。別当は造東大寺司主典・安都雄足、普請・大僧都・良弁による。造東大寺司からも仏師などが派遣され本尊の造立が始まる。別当に安都宿禰宜雄足(あとくの-くねおたり)が任じられた。造東大寺司管轄下山林の田上杣(たなかみのそま)から用材の大部分は伐り出された。761年、岩上礒座に塑像丈六の観音像が造立されたという。(「正倉院文書」) 762年、旧2月-12月、保良宮に安置するために、写経所で『一切経』600巻ほかの書写が行われる。旧8月、仏堂本尊の如意輪観音坐像が完成する。伽藍17棟が建つ。 768年、旧5月、第46代・孝謙天皇は、父・聖武天皇のために発願書写した『一切経』を納める。 奈良時代中期、仏堂の前に礼拝のための礼堂が建てられていた。 平安時代、804年、旧2月/803年、第50代・桓武天皇の勅による常楽会(じょうらくえ、涅槃会)が催され、近江国の租税が使われる。官人が奉仕した。(『石山寺縁起絵巻』『扶桑略記』) 811年、空海は42歳の厄年に、3カ月間にわたり石山寺に修行したという。(寺伝) 9世紀(801-900)末、座主・聖宝僧正の時、東大寺末の華厳宗の寺から真言密教に改める。この頃、本尊・如意輪観音の信仰が広まる。貴族、庶民の遊楽、参籠が盛んになり「石山詣」と呼ばれた。 917年、旧9月、宇多法皇(第59代)が臨幸する。(『石山寺縁起絵巻』『石山寺年代記録』) 921年/922年、旧10月、座主・観賢僧正は弟子・淳祐内供を伴い、宇多法皇(第59代)下賜の御衣を高野山・弘法大師御廟に奉納する。大師号を報告した。 962年、源高明は「大般若経」を読経させた。(『石山寺年代記録』) 964年/康保年間(964-968)、源順は万葉集の訓方に苦慮し、梨壺ら5人と参籠する。(『石山寺縁起絵巻』) 970年、旧7月、藤原道綱の母(兼家の妻)が夫と仲違し参詣する。旧8月、藤原兼家が参詣し関係修復する。(『石山寺縁起絵巻』) 985年、旧10月、円融上皇(第64代)が参籠する。(『石山寺縁起絵巻』) 987年/永延年間(987-988)、寺領内の生類殺生禁断を朝廷に奏上する。漢学者・慶滋保胤が奏状により同調する。(『石山寺縁起絵巻』) 992年、旧2月、円融上皇女御・東三条院詮子は、藤原道兼を随行させ7日間参籠する。(『石山寺縁起絵巻』『白錬抄』) 995年、東三条院詮子は参詣する。(『小右記』) 998年、東三条院詮子は参詣する。(『日本紀略』) 1000年、東三条院詮子は参詣した。(『権記』) 1001年、旧9月、東三条院詮子が参籠する。旧11月、菅原孝標の娘が参籠する。(『石山寺縁起絵巻』) 1003年、旧11月、菅原孝標の娘が再び参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)。和泉式部が参詣する。 1004年、旧8月、寛仁年間(964-1035)とも、選子内親王の御意により紫式部が7日間参籠する。(『石山寺縁起絵巻』)。『源氏物語』の第12帖「須磨」巻、第13帖「明石」巻の2編を構想、書いたともいう。「大般若経」6巻を書写して納めたともいう。 1019年、旧7月、法成寺・禅定太閤(藤原道長)が参籠する。第68代・後一条天皇は石山寺に3人の阿闍梨を置くとの官符を下す。(『石山寺縁起絵巻』) 1026年、藤原公成は後一条院(第68代)の病のため勅使として参詣する。(『石山寺縁起絵巻』) 1027年、座主・深覚は、敦良親王のマラリア(瘧、おこり)平癒のために内裏・凝華舎で孔雀経法を転読修した。旧2月、朝廷の御使を座主に遣わした。(『石山寺縁起絵巻』) 1045年、菅原孝標の娘が参籠する。 1057年-1135年、平等院僧正・行尊が一晩おきに参詣する。(『石山寺縁起絵巻』) 1078年、旧2月、落雷により本堂は半焼し、本尊・如意輪観世音菩薩が損壊する。(『扶桑略記』)。また、本尊は火より飛び出し、池の中島、柳の上にあり光り輝き無事だったともいう。(『石山寺縁起絵巻』『百錬抄』) 1079年、一部を再興した。 1096年、現在の本堂(正堂)が再建される。 1148年、富家関白・藤原忠実が、近江国波多庄を寺領として寄進した。(『石山寺縁起絵巻』)。念西が『一切経』の収集・書写を発願する。 久安-保元年間(1148-1159)、念西の発願勧進により『石山寺一切経』の大部分が成る。 1150年、旧3月、朗澄は宰相・阿闍梨に従い、神蔵岡(神楽岡)金剛界次第を受ける。 1160年、旧6月、朗澄は、内山真乗房阿闍梨に従い、諸尊法を習い『石文抄』を著す。 1161年、三十三所巡礼の石山寺は23番とある。(『寺門高僧記』) 1178年、旧9月、座主・公祐は朗澄を阿闍梨に任じたいと奏請する。 1179年、朗澄は当寺に帰住した。 鎌倉時代、文治年間(1185-1190)、朗澄により『一切経』の収集・書写が完了する。 1190年/建久年間(1190-1199)、 源頼朝の寄進により現在の東大門(山門)、勝南院毘沙門堂が建立されともいう。その乳母であり中原親能の妻・亀谷禅尼の請による。 建久年間(1190-1199)、鎌倉幕府の掃部頭・中原親能は源頼朝の命により、山城国和束の謀反鎮圧のために石山寺に戦勝祈願した。 官符を下し、権中納言・藤原隆房を奉行として石山寺、周辺、寺領などでの殺生禁断の厳守を命じる。(『石山寺縁起絵巻』) 1194年、現在の多宝塔が建立される。 1230年、関白・九条道家は第77代・後白河天皇中宮で娘・靖子(藻壁門院)のために立願、願文を捧げる。翌年、皇子誕生をみる。(『石山寺縁起絵巻』) 1240年、旧10月、藤原行能は東大門の額を書した。 寛元年間(1243-1247)、叡尊が再興した。 1247年、鎌倉幕府は境内地を拡張し、寺領地の税を免除する。 1267年、山階左大臣実雄が参詣する。 永仁年間(1293-1298)、鎌倉幕府は下知状により、石山寺での殺生禁断を守らせる。第92代・伏見天皇は愛染王法を修した。(『石山寺縁起絵巻』) 1299年、旧10月、亀山法皇(第90代)は後宇多院(第91代)と臨幸する。(『石山寺縁起絵巻』) 1308年、1310年、鎌倉幕府は寺領地を寄進する。 正中年間(1324-1326)、『石山寺縁起絵巻』(重文)の前半が成立する。 南北朝時代、1335年、旧3月、足利尊氏は大般若経を輪読させる。 1336年、足利尊氏と第96代・南朝初代・後醍醐天皇の軍が勢多橋を挟み戦い、数万の軍により寺庫が破られる。 1338年、足利直義の命により『大般若経』の読誦を行う。足利尊氏は天下泰平を祈願し『大般若経千部』の読経を頼む。 1341年、尊氏自ら参詣し、祈願成就のための刀一振を奉納した。 室町時代、西国三十三所巡礼が定着し、庶民が巡礼として参詣していた。 1413年、この頃、醍醐寺と山界をめぐり争う。(『満済准后日記』) 1424年、旧4月、醍醐寺衆徒と石山寺衆徒が境界で争い、醍醐寺衆徒により寺が襲撃される。(『史料綱文』「石山寺解案」) 1454年、三十三所巡礼の石山寺は13番とある。(『撮壌集』) 1465年、旧6月、堂宇修造のために、初めて本尊・如意輪観世音菩薩を初開帳する。(『石山寺年代記録』『蔭涼軒日録』『年代記録』) 1485年、幕府より徳政一揆の取締を命じられる。(『土一揆制禁下知案』) 1497年、三条西実隆は『石山寺縁起絵巻』4巻の詞書を書写する。 1496年、勧進を行い、一切経の欠損を修復する。(『史料綱文』) 1515年、旧2月、三条西実隆は、成就院において三条西公条、座主・尊海らと法楽和歌20首を詠む。 1525年、旧8月、三条西実隆は、法楽和歌30首を詠み奉納する。 1533年、三条西公条、里村紹巴らが千句連歌会を催した。(『石山月見記』) 1542年/1533年、旧12月、三条西実隆は、源氏巻の和歌1巻を奉納した。 1543年、旧8月、本堂鳴動する。7日間にわたり普門品を読誦する。 1555年、旧8月15日より5日間にわたり、倉坊(房)において千句連歌会(石山千句)を行う。大覚寺義俊門跡、准后、三条西称名院公条、宗養法師、紹巴法師らが参加する。 1572年、旧4月、室町幕府15代将軍・足利義昭が、復興のために供奉する。この頃、寺領庄園は武士に押領され、寺僧は半減、寺勢は衰微した。 室町時代、1573年、足利義昭は近江・安土城を築いた織田信長と争う。義昭は当寺に布陣し、明智光秀が「石山の城」を攻めたため寺は兵火にかかる。(『信長公記』)。多くの堂宇が兵火に焼かれ、本堂など主要伽藍は災禍を免れた。東大門は損傷した。信長により寺領五千石も没収される。 安土・桃山時代、1582年、仲秋、紹巴は「石山千句」を書写し源氏の間に納める。この頃、伽藍修復が始まる。 慶長年間(1596-1615)、淀殿の寄進で大改修、再建が行われ、現在の寺観が整った。 1600年、旧3月、本堂を修復再現する。 1601年、徳川家康が寺領寺辺村の573石を安堵した。 1602年、旧9月、淀殿の寄進により本堂の礼堂、相の間を建立する。(『年代記録』)。この頃、寺僧も還住し、伽藍もほぼ復興、落慶法要を営む。 江戸時代、1610年、寺務の仁和寺宮(第107代・後陽成天皇皇子)が下した15条の寺内法度が、京都所司代・板倉勝重、伏見円光寺閑室元吉連署の定書で決定した。 1613年、旧7月、徳川家康は駿河において寺領579石の朱印を贈る。 1620年、旧9月、鎮守新宮社が焼失した。 1624年、旧8月、荒痛薬師堂が建立される。 1625年、旧2月、鎮守新宮大明神を造営し、遷宮の儀式を修す。 1645年、三十八社鳥居を建立する。 1646年、吉祥院、食堂が焼失する。 1647年、旧8月、食堂、米蔵を再建した。 1652年、吉祥院寝殿を築造する。 明暦年間(1655-1658)、『校倉聖教』の整理が行われる。 1656年、4月、駿河屋忠兵衛新刻の懸仏・如意輪観世音像(現本堂格子上)、脇士2像の開眼供養を行う。 1665年、10月、浴室が造営される。 1690年、松尾芭蕉が参籠した。 1687年、旧3月、月見亭が再建される。 1712年、旧8月、台風により月見亭が倒壊した。 1713年、旧2月、月見亭が再建される。 1787年-1801年、尊賢により『一切経』の整備が行われる。 1801年、本居宣長が参籠した。 1805年、松平定信は『石山寺縁起絵巻』の第6・7巻を補う。 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、無住子院の廃止が相次ぐ。 1893年、島崎藤村が茶丈・密蔵院に2カ月間滞在した。 1922年、石山寺硅灰石が天然記念物に指定された。 現代、1961年、本尊・木造如意輪観音半跏像が開扉される。 1970年、収蔵庫の豊浄殿が竣工する。 1971年-1972年、石山寺文化財総合調査団により、『石山寺校倉聖教』の調査が行われる。 1990年、心経堂が建立された。 1991年、4月、本尊が開扉される。 2002年、8月-12月、本尊が開扉された。像内より仏像、五輪塔が発見される。 2007年、日本の地質百選選定委員会により、石山寺珪灰石が「日本の地質百選」に選ばれた。 2016年、本尊の如意輪観音半跏像が開扉された。9月、現代芸術家・シュウゾウ・アヅチ・ガリバーは、淳浄館の襖絵を制作した。 2022年、第53世座主・鷲尾龍華が就任し、創建以来初の女性座主になる。 ◆良弁 飛鳥時代-奈良時代の僧・良弁(ろうべん、689-774)。男性。朗弁、通称は金鐘行者。相模国(神奈川県)・漆部氏/近江国(滋賀県)志賀里の百済氏ともいう。師・義淵に法相宗を学ぶ。東大寺の前身・金鐘寺に入る。728年、第45代・聖武天皇皇太子・基親王の冥福を祈る金鐘山房智行僧の一人に選ばれる。740年、大安寺審詳(祥)により華厳経研究を始めた。745年、金光明最勝王経の講説を行う。東大寺・盧舎那大仏造像で聖武天皇を助ける。751年、少僧都、752年、大仏開眼し、初代の東大寺別当に任ぜられた。754年、唐僧・鑑真一行を東大寺に迎える。聖武天皇の病平癒の功により、756年、大僧都になる。760年、僧尼位(三色十三階制)の整備を行う。763年、僧正の極官に補せられた。石山寺の建立に関わり、764年、僧正に昇る。85歳。 ◆霊仙 奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧・霊仙 りょうせん、759?-827?)。男性。霊宣、霊詮、霊船。父・近江(滋賀県)の息長(おきなが)真人刀禰麻呂。阿波国(徳島県)生まれともいう。幼くして霊山寺に入る。18歳で奈良・興福寺で出家した。804年、遣唐使に随い、最澄、空海らと唐に渡る。長安・醴泉(れいせん)寺のインド僧・般若の弟子になり、唯識を学ぶ。810年/811年、憲宗の詔により般若三蔵を助け、梵経より『大乗本生心地観経』の漢訳をした。憲宗の内供奉僧に選ばれ、大元帥法を修得した。帰国は許されず、日本人としてただ一人「三蔵」号を与えられた。内供奉十禅師になる。820年、仏教弾圧を恐れ五台山に移る。825年、第52代・嵯峨天皇より砂金100両を贈られ、返礼に舎利、『心地観経』などを送付した。825年、嵯峨上皇から黄金を贈られ、新訳経典などを献じた。827年、第53代・淳和天皇寄進の黄金を弟子・貞素(じょうそ)が届けた。その後、霊仙は何者かに毒殺された。 語学に精通した。石山寺に著『大乗本生心地観経』がある。境内に顕彰碑が立つ。 ◆聖宝 平安時代前期-中期の真言宗の僧・聖宝(しょうぼう、832-909)。男性。俗名は恒蔭王(つねかげ-おう)、諡号は理源大師。 大和国(奈良県)/讃岐(香川県)の生まれ。父・兵部大丞葛声王。第38代・天智天皇皇子の歌人・施貴皇子(しきのみこ)の子孫、春日親王の末裔という。847年、空海の弟子・真雅から密教を学び出家した。東大寺の東僧坊南第2室に住し、願暁・円宗に三論、平仁に法相、玄栄に華厳、真蔵に律を学ぶ。役小角に私淑し、860年頃より、葛城山、大峯山で修験道を修めた。869年、興福寺・維摩会の堅義(りゆうぎ)に三論宗の立場で論を立て名を知られる。師・真雅の勘気を解かれた後、871年、真雅より無量寿法(真言密教修法)を受けた。真雅より離反し、874年、笠取山頂に道場を開き、醍醐寺を創建する。880年、高野山の真然(しんぜん)に学ぶ。884年、東寺・源仁(げんにん)より伝法灌頂を受けた。887年、源仁につき、阿闍梨(あじゃり)になる。890年、藤原良房が聖宝のために建立した深草・貞観寺の座主になった。894年、権法務、895年、東寺二長者、897年、朝廷の命により日蝕の際に祈祷する。飛鳥・川原寺検校、東寺長者・別当、西寺別当を歴任し、905年、三論宗の本所として東大寺東南院を建立し、院主・別当、七大寺検校になった。906年、僧正、東寺長者になる。奈良・弘福寺などに就く。78歳。 真言宗醍醐派小野流の祖師、醍醐寺の開祖になる。吉野・金峯山(きんぶせん)の整備・金剛蔵王像を安置し、中世以降、修験道中興の祖といわれた。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の帰依を受けた。 ◆淳祐 平安時代前期-中期の真言宗の僧・淳祐(じゅんにゅう、890-953)。男性。通称は石山内供、普賢院内供。父・菅原淳茂、菅原道真の孫。般若寺・観賢に師事し出家、受戒し、925年、伝法灌頂を受けた。真言宗小野流の法を継ぐ。足に障がいがあり、病弱であるとして醍醐寺座主を辞退した。石山寺普賢院に隠棲し、修行と真言密教の著作に専念した。東密、台密の僧が多く集う。第3世座主、石山寺中興の祖。 921年、師・観賢が醍醐天皇の勅命により、高野山奥の院御廟を訪れた際に同行し、廟内に入り弘法大師の膝に触れたという。その際に妙香の薫りが手に移り、一生消えなかったという。また淳祐自筆本などにも同様の薫りが移った。これらは「薫(匂い)の聖教(かおりのしょうぎょう)」(国宝)といわれたという。著『石山七集』『金剛界次第法』など。64歳。 ◆元杲 平安時代中期の真言宗の僧・元杲(げんごう、914-995)。男性。字は真言房。父・藤原晨省、母・榎井氏。醍醐寺・元方により得度受戒し南都で一定、明珍に学ぶ。石山寺の淳祐に師事し小野流の正嫡になる。964年、伝法阿闍梨、968年、内供、東宮(円融天皇)の護持僧、972年、東寺凡僧別当になる。神泉苑で請雨経法を修して法験がある。988年、辞して醍醐山に籠居し延命院と号した。権大僧都、東寺二長者。82歳。 ◆藤原 道綱母 平安時代中期の歌人・日記作者・藤原 道綱母(ふじわら-の-みちつな-の-はは、936?-995)。女性。倫寧女(ともやすのむすめ)、道綱母、傅大納言母(ふのだいなごんのはは)、傅殿母(ふのとののはは)。父・藤原倫寧(ともやす)、母・主殿頭・藤原春道の娘/刑部大輔・源認(みとむ)の娘。異母弟・歌人・長能(ながよし)、姪・菅原孝標女。954年、19歳で右大臣・藤原師輔の3男・藤原兼家と結婚する。兼家にはすでに正妻・時姫がいた。955年、道綱(後の大納言右大将)を産む。967年、兼家邸近くに移る。971年、西山の寺に長く籠り、兼家により連れ戻される。973年、中川(中河)に移る。974年、兼家の通いが絶え身を引く。986年、内裏歌合に道綱の代作を出詠した。60余歳?。 「中古三十六歌仙」の一人、後に「本朝三美人」の一人。夫に疎んじられた20年の歳月を綴る自伝的『蜻蛉(かげろう)日記』(954-974)の作者として知られる。平安時代に家庭にあった女性による文学の代表的作品の一つであり、後の『源氏物語』につながる。家集『道綱母集』、『拾遺和歌集』、『小倉百人一首』に入集。夫に見捨てられ、伏見稲荷、石山寺、賀茂神社、鳴滝・般若寺などに参籠したという。 ◆深覚 平安時代中期-後期の真言宗の僧・深覚(じんがく、955-1043)。男性。父・藤原師輔、母・康子(こうし)内親王の11男。寛朝に灌頂を受け京都禅林寺に入る。東大寺別当、東寺長者、石山寺に移り、1023年、大僧正。晩年、高野山に無量寿院を開く。歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に入集。89歳。 ◆和泉 式部 平安時代中期-後期の歌人・和泉 式部(いずみ-しきぶ、978/974?-1014?)。女性。父・は越前守・大江雅致(まさむね)、母・越中守・平保衡の娘。美貌と歌才に恵まれ、第63代・冷泉天皇の皇后・昌子に女房として仕える。20歳頃、官人・橘道貞と結婚、999年、夫が和泉守となり、娘で歌人・小式部内侍を産む。夫の任国、父の官名により「和泉式部」と呼ばれた。冷泉天皇の第3皇子・弾正宮為尊親王の寵愛を受けた。1002年、為尊親王が亡くなる。24、25歳で、夫の心離れから別居し、親から勘当された。1003年、為尊親王の同母弟・帥宮(そちのみや)敦道親王に寵愛される。その邸に迎えられ、正妃・北の方は屋敷を去る。敦道親王との間の子・永覚、1007年、敦道親王も相次いで喪う。寛弘末年(1008-1011)、一条天皇の中宮彰子に女房として出仕する。紫式部、赤染衛門とも交流した。藤原道長の計らいにより、33歳頃、丹後の守・公家・藤原保昌と再婚した。1025年、娘・小式部内侍を喪う。1036年、夫も喪う。後、出家、専意と称した。東北院内の小御堂に住し、朝夕に本尊・阿弥陀如来を詣でたという。 王朝女性歌人の中で第一人者とされ、『拾遺集』に多数入集、敦道親王との恋を記した『和泉式部日記』、和歌『和泉式部集』などがある。中古三十六歌仙の一人。誠心院に墓とされる宝篋印塔がある。 ◆紫 式部 平安時代中期-後期の歌人・作家・紫 式部(むらさき-しきぶ、?-?)。女性。本名は香子(たかこ)、女房名は藤(とう)式部。父・藤原為時、母・藤原為信の娘。幼くして母、後に姉も亡くす。996年、為時が越前守に任じられ紫式部も下向する。997年、帰京、998年頃、複数の妻子ある地方官吏・藤原宣孝の妻になる。宣孝は式部の又従兄弟に当たる。999年、式部は一人娘・賢子(かたこ)を産む。1001年、夫と死別、1006年、内覧左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(しょうし、のちの院号・上東門院)に仕える女官になる。紫式部は侍講として漢文学を教え、傍ら54巻の『源氏物語』を執筆した。物語は当初から宮廷で評判になる。1008年、『源氏物語』が流布する。1010年頃、物語は完成した。1014年、皇太后彰子の病気平癒祈願のため清水寺に参詣する。 候名(さぶろうな)の「式部」は、父の官名「式部丞(しきぶじょう)」に由る。『源氏物語』中の女主人公、紫の上に因み、紫式部と呼ばれるようになる。物語は「桐壷」から始まる54帖からなり、光源氏の誕生と栄華、その晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になる。紫式部は、自らの半生を物語に投影したといわれている。執筆に12年の歳月をかけ、完成とともに生涯を終える。40余歳? ◆菅原 孝標女 平安時代中期-後期の歌人・作家・菅原 孝標女(すがわら-の-たかすえ-の-むすめ、1008-?)。女性。父・孝標(道真の5代の直系)、母・藤原倫寧(ともやす)の娘(藤原道綱母の異母妹)。1017年、10歳の時、父の上総介赴任に伴われて上総(千葉県)に下国する。継母・後一条院の女房・上総大輔 (たいふ、大弐三位の姪)、姉の影響で『源氏物語』を耽読した。1020年、帰京する。1039年、第69代・後朱雀天皇の皇女・祐子内親王家に出仕する。1040年、33歳の時、橘俊通と結婚し、長男・仲俊、女子をもうける。この頃より、信仰に熱心になり社寺に物詣(ものもうで)した。34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行しなかった。再出仕し、源資通(すけみち)と和歌で交流した。1058年、夫と死別し、晩年、孤独だった。 著は自伝的な日記文学『更級日記』、ほか『夜の寝覚』、『浜松中納言物語』などともいう。和歌は ◆念西 平安時代後期の僧・念西(?-?)。詳細不明。男性。真言宗小野流の僧という。1148年-1159年(1157年とも)、発願勧進により、『石山寺一切経』の大部分が成る。没後は朗澄が事業を継承する。 ◆朗澄 平安時代後期-鎌倉時代前期の学僧・朗澄(ろうちょう、1132-1209)。男性。文泉房朗澄。幼くして石山に上り得度剃髪、観祐阿闍梨に従い、金胎両部の潅頂を受ける。1160年、内山(永久寺)・真乗房亮恵、観修寺・大法房実任に諸法を受任した。律師、1178年、石山寺阿闍梨に任じられる。1179年、石山寺に移り北房に住した。淳祐教学研究の伝統を受け継ぎ、念西後、校倉聖教を集成した一人になる。1190年頃、完成したという。図像画も描き、白描図像なども書写した。多宝塔内「石山寺多宝塔柱絵」(重文)作画を指導した可能性も指摘されている。没後、『一切経』、『聖教』を守護するため鬼と化したとの伝承がある。77歳。 ◆亀谷 禅尼 平安時代後期-鎌倉時代前期の亀谷 禅尼(?-?)。女性。源頼朝(1147-1199)の第2の姫の乳母だった。石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした官人・中原親能(1143-1208)の妻になる。剃髪後、石山寺に住し「石山の尼」と呼ばれた。宝塔院を建立し、本尊・大日如来の胎内に頼朝の髪を納めて日々勤行したという。頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を寄進したという。 ◆高階 隆兼 鎌倉時代後期の絵師・高階 隆兼(たかしな-たかかね、?-?)。男性。姓は藤原、春日・土佐、高階に改める。父・邦隆/隆親の次男。1309年-1330年、第93代・後伏見天皇、第95代・花園天皇の宮廷の絵所預の任にあった。作品として御物『春日権現験記絵巻』20巻(1309)、『春日影向図』(1312)、石山寺『石山寺縁起絵巻』(1-3巻)(1324-1326)、京都矢田寺『矢田地蔵縁起絵巻』(2巻)などがある。絵巻、仏画、神輿の彩色も手掛けた。画風は繊細華麗で大和絵技法の完成者とされる。 ◆粟田口 隆光 室町時代前期の絵仏師・粟田口 隆光(あわたぐち-りゅうこう、?-?)。男性。俗名は以盛、通称は粟田口法眼。父・土佐光顕の3男。京都粟田口に住む。父に土佐派の画法を学ぶ。民部少輔に任じられ、後に出家し法眼になる。清涼寺本『融通念仏縁起』第2巻2段(1417頃)、『親鸞上人絵伝』(1426)を描いた。『石山寺縁起』第5巻の筆者ともいう。絵巻物、水墨画をよくした。 ◆土佐 光起 江戸時代前期の土佐派の画家・土佐 光起(とさ-みつおき、1617-1691)。男性。幼名は藤満。和泉(大阪府)堺の生まれ。父・土佐光則。1634年、父に従い京都に移る。1654年、従五位下左近衛将監に叙任された。宮廷の絵所預として承応度内裏造営に伴う障壁画制作などを行う。土佐家再興を果たし、剃髪して常昭と号した。1681年、法橋、 1685年、法眼になる。主な作品は「秋郊鳴鶉図」(光成との合作) 、「北野天神縁起絵巻」 「鶉図」(光茂と合作)など。著『本朝画法大伝』。75歳。 土佐派の画風に、狩野派、漢画、宋の院体画の要素も取り入れた。土佐派中興の祖。土佐三筆(ほかに光長、光信)と称される。 ◆松尾 芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾 芭蕉(まつお-ばしょう、1644-1694)。男性。名は宗房、別号は桃青、泊船堂、芭蕉庵。伊賀国(三重県)上野の生まれ。柘植とも。伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の料理人として仕える。若君・藤堂良忠(俳号、蝉吟)と共に俳諧を嗜む。北村季吟に学び俳号は宗房とした。1666年、蝉吟の死とともに仕官を退き、俳諧に入る。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり、俳諧師の道を歩む。其角が入門する。1680年、深川に草庵「芭蕉庵」を結び、隠逸の生活に入る。1682年、庵焼失後、北は陸奥平泉、出羽象潟から西は播磨、明石まで旅し、大坂南御堂前花屋の裏座敷で旅の途上に亡くなった。『奥の細道』『猿蓑』などを著す。51歳。 ◆尊賢 江戸時代中期の僧・尊賢(1749-1829)。男性。1760年、石山寺で得度し、権律師、権僧正、1795年、僧正になった。1787年-1801年、『「石山寺一切経』の折本改装事業を行う。『石山要記』などを著す。80歳。 ◆島崎 藤村 近代の詩人・小説家・島崎 藤村(しまざき-とうそん、1872-1943)。男性。本名は春樹。筑摩県(長野県)生まれ。父・馬籠宿の本陣・問屋・庄屋・17代島崎正樹、母・ぬいの4男。1881年、修学のため上京し、共立学校(開成中学)を経て、1891年、明治学院卒した。その間にキリスト教に入信した。1892年、明治女学校教師になり、『女学雑誌』に寄稿した。北村透谷に傾倒し、1893年、透谷、星野天知らと雑誌『文学界』を創刊した。教え子・佐藤輔子との恋愛から辞職、関西への旅に出た。1896年、仙台・東北学院教師として仙台に赴任する。新体詩の第1詩集『若菜集』(1897)を出版した。詩集『一葉舟』『夏草』『落梅集』で浪漫主義時代を築く。1899年、信州・小諸義塾に赴任し、散文『千曲川のスケッチ』などを書いた。1905年、一家をあげて上京、1906年『破戒』を自費出版し、最初の本格的な自然主義小説として激賞された。『春』『家』(1910-1911)などを発表する。フランスへ渡り、帰国後に『新生』(1918-1919)で姪との恋愛関係を告白した。1929年-1935年、父をモデルに歴史小説『夜明け前』完成した。1936年、ペンクラブ会長、1939年、『破戒』で自然主義文学の代表的作家になり、1940年、芸術院会員になる。1943年、『東方の門』(1941-)を未完のまま死去した。 72歳。 ◆鷲尾 光遍 近現代の真言宗の僧・鷲尾 光遍(?-1967)。詳細不明。男性。山階派管長。大本山勧修寺門跡。大本山石山寺座主。88歳。 ◆シュウゾウ・アズチ・ガリバー 現代の美術作家・シュウゾウ・アズチ・ガリバー(1947-)。男性。本名は安土修三。滋賀県大津市の生まれ。滋賀県立膳所高等学校時代に、フランス人美術家・マルセル・デュシャンの著作に衝撃を受けた。1965年、ハプニング(偶然性を尊重した演劇的出来事)「草地」を発表する。1967年、立命館大学文学部哲学科を中退し、作家集団「PLAY」に参加した。1969年、「インターメディア・アート・フェスティバル」に"Cinematic Illumination"を発表する。1990年代以降、ヨーロッパ中心に作品を発表した。 オブジェ、版画、写真、パフォーマンス、インスタレーションなど横断的な表現活動を行っている。 ◆鷲尾 龍華 現代の真言宗の僧・鷲尾 龍華(わしお-りゅうげ、1987-)。女性。千賀子。父・第52世座主・鷲尾遍隆(へんりゅう)の長女。大津市の生まれ。境内塔頭で生まれ育つ。2001年、中学生の時に得度した。2010年、同志社大学文学部美学芸術学科(西洋美術史専攻)を卒業し、東レに勤務した。2013年、東寺で伝法灌頂入壇し、東寺真言宗僧侶として僧籍取得する。種智院大学(京都市)の3年次に編入する。2015年、同大学を卒業した。東北大学で臨床宗教師の研修を受け、被災地の宮城県石巻市に入り、傾聴に従事した。2022年、石山寺第53世・座主(終身)に就任する。 747年とされる奈良時代の創建以来、女性の座主は初めてになる。大僧都、塔頭・法輪院住職。滋賀県立近代美術館での企画展「石山寺縁起絵巻の全貌」、米メトロポリタン美術館「源氏物語展」などに尽力した。 ◆仏像・木像 数多くの仏像が残されている。 ◈東大門の両脇には「仁王像」が安置されている。鎌倉時代の仏師・運慶(?-?)・湛慶(?-?)の作という。 ◈創建時の本尊は「観世菩薩」(1丈6尺)、脇侍は神王二柱(6尺)の塑像だったという。奈良時代、761年に完成した。だが、平安時代後期、1078年に焼失している。 ◈本堂内陣に本尊「木造如意輪観音半跏像」(重文)を安置する。秘仏であり、本堂の巨大な厨子(宮殿[くうでん])内に納められている。日本で唯一の勅封の秘仏という。33年に1度、天皇即位の翌年にのみ開扉される。 平安時代後期の作と推定される。平安時代後期、1096年頃造立ともいう。創建時、天平時代には塑像であり、この時に木造に改められた。1078年の炎焼で破損した。鎌倉時代前期、1211年に崩壊し、鎌倉時代中期、1245年に修復したともいう。江戸時代前期、1690年の新造ともいう。 2臂像で、左手は膝上で掌を開く。右手は肘を曲げ1指、3指で蓮華茎を掲げる。硅灰石の岩盤の上に置かれた木製蓮台に坐している。右足を曲げ左足を下げた半跏像になる。定朝様、寄木造、漆箔彩色。像高約301.2mの丈六仏。 安産、福徳、縁結び、厄除の信仰がある。 ◈「本尊胎内仏」(重文)は、 現代、2002年に発見された。創建1250年を記念し、本尊・如意輪観世音菩薩が開扉された。この時、本尊の背面に木製厨子が発見され、内部から胎内仏4体、水晶の五輪塔が見つかった。 仏像は、かつて「古像(塑像の旧本尊)」として旧本堂に納められていた。平安時代後期、1078年の本堂火災により罹災した。このため、旧本尊(古像)胎内仏にも焼痕跡があるという。1体は「往古の霊像」とされ、飛鳥時代の聖徳太子(574-622、厩戸皇子)より伝わった「聖徳太子二生の御本尊」とされる。平安時代後期、1145年に像の修造が終わり新本尊胎内に安置された。(厨子銘文)。また、1体は本堂焼失の折、本尊を飛び出し池中島の柳樹の上に光り輝いて止まっていたという。(『石山寺縁起絵巻』第4巻5段詞書) ⋄胎内仏「観世菩薩立像(観世菩薩)」(重文) は、飛鳥時代作、 金銅仏、像高21.3cm ⋄胎内仏「観世菩薩立像(観世菩薩)」(重文) は、飛鳥時代作、 金銅仏、像高30.3cm ⋄胎内仏「観世菩薩立像(観世菩薩)」(重文) は、奈良時代(天平時代、710-749)作、金銅仏、像高28.4cm ⋄胎内仏「如来立像」(重文)は、飛鳥時代作、金銅仏、像高26.2cm ⋄「水晶製五輪塔」(重文)。 ◈「木造 如意輪観音半跏像(旧御前立)」(重文)は、平安時代前期(10世紀後半、10世紀末-11世紀初頭)作とみられている。旧本尊御前立であり、現本尊と同じ姿をしている。二臂、頭上に天冠台、宝冠の岩座の坐像になる。両手が欠落している。山内最古像になる。岩座ともに一木造、像と岩座の間に連弁はない。像高61.3㎝。 ◈「金剛蔵王(蔵王権現)像」は、江戸時代の本尊右脇侍になる。台座に左足だけで立ち、右手は曲げ拳を作り、右足も曲げ上げている。像高159.8㎝。 ⋄「塑像金剛蔵王心木・断片」(重文)は、奈良時代作になる。近年の金剛蔵王(蔵王権現)像の修理で、胎内から発見された。近世の塑土を除くと、造立時の旧塑像本尊脇侍の心木が現れた。面相部からは当初の塑像断片が取り出された。心木胸部からは、「五輪塔形(舎利と経典)」が発見された。これらは、奈良時代、761年-762年に造石山院所で造立された塑像の遺物になるという。(「正倉院文書」) ◈本堂左右脇侍は「執金剛神立像」、「金剛蔵王立像(地蔵権現)」になる。ほか、西国三十三所札所の観音が祀られている。等身大。 ◈本堂「本尊御前立像」は、現本尊の御前立になる。岩座に遊戯座、二重円光を背負う。快慶様、像高102.5㎝。 ◈本堂「木造如意輪観音像」(重文)は、一木彫像、左足垂下蓮座を踏む。二重円光、平安時代中期作とみられる。 ◈本堂西内陣の「木造不動明王座像」(重文)は、平安時代中期作、かつて護摩堂の本尊という。大師様不動、迦楼羅焔光、瑟瑟座、一木彫、像高85㎝。 ◈本堂北西隅安置の「木造毘沙門天立像」(重文)は、瀬田の毘沙門天堂の本尊だったという。(『石山要記』)。平安時代後期作とみられる。寄木造、彫眼、295㎝。 ◈毘沙門堂に、「兜跋毘沙門天」(重文)を安置する。平安時代作になる。吉祥天・善膩師童子を祀る。 ◈豊浄殿の「銅造釈迦如来坐像」(重文)は、奈良時代後期作になる。施無畏・与願印、像高14㎝。 ⋄「観世音菩薩立像」(重文)は、奈良時代になる。近代、1948年に盗難に遭う。見つかるが頭部が切断されていた。銅像、像高56.2㎝。 ⋄「木造維摩居士坐像」(重文)は、平安時代、9世紀前半作、像高51.5㎝。 ◈毘沙門堂の「木造兜跋(とばつ)形毘沙門天立像」(重文)は、平安時代、9世紀後半作になる。左手に塔、右手に三鈷戟、腰に長刀を差す。一木彫、彩色、彫眼。像高172㎝。 脇侍は吉祥天、善賦師童子。 ◈御影堂に「弘法大師像」を安置している。淳祐内供の住房「普賢院」の損壊、廃絶後に弘法大師像、良弁僧正像、淳祐内供の御影が遷されている。 ◈御影堂の塑造「淳祐内供坐像」(重文)は、室町時代前期、1398年作になる。淳祐内供(890-953)は、石山寺第3代座主だった。弘法大師(空海)の膝に触れ、芳香が移った手で『薫聖教』を書いたという。淳祐は生来、愚鈍、醜男だった。毎夜、本尊に祈ると美男に生まれ変わったという。このため、お参りすると美男子になるという。 右手に独鈷、左手に数珠を持つ。台座裏面の墨書銘がある。玉願嵌入。像高77.6㎝。 ◈御影堂に開基の「良弁僧正」を安置している。 ◈多宝塔本尊の「大日如来坐像」(重文)は、鎌倉時代前期、1194年の塔建立と同時期に造立された。鎌倉時代の快慶(?-?)と弟子の作になる。 表面に漆を塗り金箔を張り、衣には截金文様、左肩から襷状の条帛。寄木造、玉眼、像高101.7㎝。 本尊を囲む四天柱には、金剛界の諸尊・五大尊(重文)54体が描かれ、平安時代から鎌倉時代へ移る過渡の作品になる。現在はその多くが剥がれ落ちている。 ◈「木造伝三宝荒神像」(重文)は、一木彫成像、像高51㎝。 ◈「大黒天堂の本尊」は、平安時代後期、1024年に、3人の僧の夢告により湖水より出現したという。 秘仏本尊の御前立の仏像は、650年前の室町時代に造立されたという。 ◆建築 ◈「東大門」(重文)は正門になり、東面して建つ。鎌倉時代前期、1190年に建立された。また、鎌倉時代に源頼朝(1147-1199)により寄進され、その時の石造の唐居敷(門柱の下に敷かれる門扉の軸受石)が境内の法輪院の庭石、多宝塔の礎石などとして残る。安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1614)以後の淀殿による大幅な修理がある。近世には「仁王門」と呼ばれた。なお、現在地の東、瀬田川近くには「惣門」という別の門が建てられていた。 板扉、組物は三手先、斜めに出る尾垂木がない。内部は組入天井、前後や隅行に虹梁、蟇股。門の北側の妻飾り付近に、豊臣氏の五七桐紋が透し彫りされている。建ちが高く屋根が大きい。3間一戸、八脚門、入母屋造、本瓦葺。 ◈「宿直屋(とのいや)」は、東大門の西にある。太鼓楼屋根があり、近代、明治期(1868-1912)前期の建立とみられる。 ◈「閼伽井(あかい)屋」は、本堂の下池の畔に建つ。幕末期の建立とみられる。岩盤からの湧水を集めており、本尊御座下から湧き出ているという。本尊に供える閼伽水が汲まれている。 ◈「多宝塔」(国宝)は、硅灰石の上に建ち、均整のとれた美しさを誇る。平安時代後期、1078年に焼失した。鎌倉時代前期、1194年に源頼朝(1147-1199)の寄進により再建立された。(下層須弥壇上框裏面の墨書)。年代の明らかなものとしては日本最古とされている。源頼朝の寄進ともいう。(『石山要記』)。安土・桃山時代-江戸時代前期、慶長年間(1596-1615)に解体修理されている。日本三塔(ほかに、高野山金剛三昧院の多宝塔、大阪府泉佐野市の慈眼院の多宝塔)の一つといわれている。 外観は宝塔に裳階が付いた形で、下層に較べて上層の逓減が大きく安定感を与えている。縁高欄、長押、戸口廻り、垂木などは慶長年間(1596-1615)に改造された。二重は円形平面で裳階付き。上重が下重の半分以下に狭めてあり、軒の深い檜皮葺が特徴になる。初重内部内陣に須弥壇があり、高欄は跳高欄の古例、地覆の上面は丸く、平桁、架木の端の反りが少ない。斗束は比肩が緩やかで斗はやや小さい。天井は折上小組格天井。柱や天井廻りなどの壁面に、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれている。 3間3間、初重は方形、二重は漆喰塗の亀腹に、円形平面。現代、2012年に檜皮葺屋根葺替修理が行われた。 ◈「仏堂」は、現存していない。奈良時代、天平宝字年間(757-765)に東大寺造営に際して造石山院所が置かれた。この時、仏堂が改築され長さ7丈になった。平安時代後期、1078年に焼失している。 礼堂の付いた懸造だった。(『石山縁起絵巻』) ◈「本堂」(国宝)は、正面の石段から上がると、珪灰石の岩盤上に建てられている。右手(北側)に正堂(しょうどう)、左手(南側)に外陣である礼堂(らいどう)、その間に相の間(造り合い)・源氏の間が造られている。 創建年代の異なる3つの建物の複合建築(9間4間)になる。本堂は創建時には、5丈2丈だった。奈良時代、761年、761-762年とも、造東大寺司により7丈4丈に増築される。平安時代、10世紀(901-1000)後半までに、礼堂が建て増しされた。平安時代後期、1078年に焼失した。現在の建物は、平安時代後期、1096年に再建され、滋賀県内現存最古の建築物になる。創建時の柱も使用されているという。 礼堂と相の間は、安土・桃山時代、1602年、安土・桃山時代-江戸時代前期、慶長年間(1596-1615)に、淀殿の寄進により改修され現在の形になった。叔父・織田信長が境内の一部を焼いたことを受け、寺の復興のためだった。額が本堂に残され、世の安寧を願う文言が刻まれている。 正堂(7間4間)、相の間(1間7間)、外陣である礼堂(9間4間)があり、正堂は良弁の創建によるという。正堂の組物は平三斗、間は間斗束、側面、背面に戸口、白壁、窓が開く。内部は内陣(5間2間)、土間で漆喰叩き、中央に厨子(3間2間)、内陣四方、幅1間通りに外陣、拭板敷。内陣に向かう正面は吹き放し。 正堂と礼堂は寄棟造、両棟を相の間の両下造の屋根で繋ぎ、礼堂の棟を越えて破風を造る。総檜皮葺。 ◈「礼堂(本堂外陣)」は、硅灰石の岩盤にせり出しで建つ。鎌倉時代前期、1096年に改築された内陣(正堂)と、安土・桃山時代、1602年に、淀殿の寄進により改築された外陣(礼堂)を相の間によって繋いだ複合建築になる。両棟を相の間の屋根で繋ぎ礼堂の屋根を越えて破風をつくる。滋賀県最古の木造建造物になる。 南面している。身舎は7間3間、床、三方に縁、内部は折上格天井、勾配なりの化粧屋根裏。懸造、寄棟造、檜皮葺、千鳥破風。 ◈「源氏の間」は、相の間の東端にある。室町時代に造られたという。安土・桃山時代-江戸時代前期の慶長年間(1596-1615)に改造されている。かつて、南北2間の部屋があり、天皇、貴族、高僧の参拝、参籠に用いられていた。(『石山寺縁起絵巻』)。源氏の間は、紫式部が『源氏物語』を起筆したことに因んでいるという。現在は、有職人形司十世・伊東久重作の紫式部像が置かれている。 開けられている花頭窓は源氏窓ともいわれ、その始まりになったという。2間、4畳、向唐破風造。 ◈「御影堂」(県指定文化財)は、室町時代前期、1398年頃に建立された。安土・桃山時代-江戸時代前期の慶長年間(1596-1615)以後に改修されている。三昧堂、開山堂とも呼ばれ法華三昧の道場だった。淳祐内供の住房普賢院の損壊、廃絶後に弘法大師、良弁僧正、淳祐内供の御影を普賢院から遷して御影堂になった。幾度か大改造が行われた。江戸時代中期、享保年間(1716-1736)には、大梁を抜き四天柱のうちの前の2本を抜く改修が行われた。 組物は三斗、組物間は間斗束。内部に格天井。かつては3間四方であり、後方に増築されている。持仏堂風。3間4間、一重、宝形造、檜皮葺。 ◈「毘沙門堂」(県指定有形文化財)は、江戸時代中期、1773年に建立された。兜跋毘沙門天を深く信仰する和歌山の藤原正勝が施主、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛、大工は大坂の大西清兵衛による。大坂で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てた。須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通肘木を虹梁型に加工し、中央に笈形付きの大瓶を載せ天井を受ける。正方形の平面で3間2間、一重、宝形造、桟瓦葺、背面に閼伽棚。 ◈「観音堂」は、江戸時代中期、宝暦年間(1751-1763)の建立という。「市人三井某老尼」の志願によって建立された。西国三十三所札所の観音を祀る。かつて、札を奉納し「札堂」と呼ばれていた。(『石山要記』)。建物木部に多数の釘穴があり、参拝者が札を奉納した跡という。入母屋造、桟瓦葺。 ◈「経蔵」(県指定有形文化財)は、岩盤の上に建てられている。奈良時代、761年-762年、石山院の堂塔伽藍26棟が造営された。経蔵(間口9m、奥行3.7m)が建てられ、写経所では『大般若経』600巻が書写奉納されたという。(正倉院文書)。現在の建物は、安土・桃山時代、16世紀後期、16世紀後期-17世紀前期に建立されたとみられている。かつて『一切経』、『校倉聖教』、『淳祐内供筆聖教』などの経典を収蔵していた。県内最古の校倉造の建造物になる。 頭貫木鼻、桁、垂木に反り増し。八画の束柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪、校木は桁行・梁間方向とも同じ高さに十段組む。台輪は木鼻の部分で矧ぎ木。県下の数少ない校倉造遺構、切妻造の校倉も珍しいという。東面している。3間2間、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺。 ◈鎮守社の「三十八所権現社本殿」(重文)は、本堂の東側の硅灰石の上に建つ。初代・神武天皇-第38代・天智天皇までの歴代天皇を祀る。安土・桃山時代、1602年/安土・桃山時代-江戸時代前期、慶長年間(1596-1615)、豊臣氏の寄進建立によるとみられる。 かつては彩色されていたという。妻を正面入り口とし、突きあたりの妻面を壁とし閉鎖的に扱う。本殿側の一間通りを広縁とする。蟇股、海老虹梁が見られる。組物は絵様大斗肘木。懸造、一間社流造、檜皮葺。 ◈「鐘楼」(重文)は、鎌倉時代後期、源頼朝(1147-1199)寄進ともいう。(寺伝)。ただ、南北朝時代の建立とみられている。現代、1953年に復元された。棟は短くされた。縁下、上層軒に三手先、斜めに出る尾垂木はない。袴腰全体を白漆喰塗としているのが珍しい。上層は正背面が5.6m、両側面が3.3m、3間2間、重層袴腰付、入母屋造、檜皮葺。 「梵鐘」(重文)は平安時代作になる。下層から撞木を引いて撞く。 ◈「蓮如堂」(重文)は、安土・桃山時代、1602年、安土・桃山時代-江戸時代前期、慶長年間(1596-1615)、淀殿による復興の際に、三十八所権現社本殿の拝殿として建築されたという。近世まで鎮守社拝殿として「礼殿」、「拝殿」と呼ばれていた。江戸時代後期、1811年に桟瓦葺に葺き替えられた。神事のほか、仏事にも使用された。近代、明治期(1868-1912)以降に、板敷間に蓮如6歳の御影、遺品を安置し、「蓮如堂」と呼ばれた。現在は蓮如の遺影、遺品を安置している。 硅灰石の崖の岩盤上に建つ。入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、北側一間通りを広縁とする。寺院の鎮守拝殿の類型になる。懸造、5間4間、入母屋造、桟瓦葺。 ◈「大黒天堂」は、平安時代後期、1024年に、3人の僧の夢のお告げによりご本尊はて湖水より出現した。近代、明治期(1868-1912)に建立された。 1間目に外陣、入母屋造、妻入。 ◈「大湯屋」は、江戸時代中期、1733年頃に建立された。内部は前室、脱衣場、浴室がある。 正面に板扉、連子窓、妻を正面とする切妻造、桟瓦葺。 ◈「宝蔵」は、江戸時代後期、1808年に建立された。土蔵造。 ◈「月見亭」は、かつて、平安時代末期、保元年間(1156-1158)に、第77代・後白河天皇行幸の際に建てられという。その後も改修を重ねた。現在の建物は、江戸時代後期、1687年に再建されたという。また近代、1929年の建立ともいう。 琵琶湖、瀬田川の景色を眼下に望み「近江八景 石山の秋月」の図にも描かれた。中秋の名月の鑑賞地にもなっている。 懸崖造、方1間、柱間吹放し、茅葺、杮腰付で懸崖の部分は板で覆われている。 ◈茶室「芭蕉庵」は、近代、1883年の建立とみられる。月を眺める建物であり、境内上段、瀬田川を見下ろせる迫り出した崖上にある。「観月亭」とも呼ばれていた。松尾芭蕉ゆかりの茶室という。江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)、芭蕉は幻住庵に滞在し、度々石山寺に訪れたいう。「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたば しる霰かな」などの句を残したという。平屋建、和風建築。(非公開) ◈「宝蔵」は、江戸時代後期、1808年に建立された。 上は漆喰の白壁、下は海鼠壁、土蔵造。 ◈「心経堂」は、現代、1990年に建立された。壁柱は丹塗り、八角輪堂の一面に如意輪観世音菩薩、ほかの7面に写経が納められている。花山法皇(第65代)の西国三十三所観音霊場の中興を記念し、心経写経の保存のために建立された。方形造、総ヒノキ造。 ◈「豊浄殿」は、現代、1970年に建立された。収蔵庫であり、宝物、紫式部、『源氏物語』関連の史資料、文献、美術品などが収蔵展示されている。春秋に「石山寺と紫式部展」を開催している。 ◈「光堂」は、現代、2009年に東レによって寄進された。鎌倉時代に存在した「光堂」を復興した。本尊の阿弥陀如来を安置している。 懸崖造。 ◆庭園 ◈梅林第一梅園「薫の苑」は、国宝『薫の聖教』を著述した淳祐内供ゆかりの地で、藤牡丹・白滝などの梅が咲く。 ほかに、第二梅園「東風の苑」、第三梅園がある。 ◈光堂周辺に「牡丹苑園」、「源氏苑」がある。2月-3月には、梅、早咲きの桜、水仙などが見られる。牡丹園では、4月-5月上旬に開花する。 ◈「無憂園」は、琵琶湖の形をした回遊式庭園であり、甘露の滝、大観亭が建つ。花菖蒲が花咲く。 ◆石山寺開創の伝承 開創の伝承が残る。 良弁は前世で旅人(行人)であり、インドへ行くことを望んだ。だが、無一物で流沙を渡ることができなかった。渡守が渡してやる。 後世、2人はそれぞれ良弁と聖武天皇として生まれ変わる。天皇は東大寺を建立し、金銅廬舎那仏鋳造を発願する。像に用いる黄金が不足し、良弁は鍍金を集めるように命じられた。吉野金峯山(きんぷせん)で祈ると夢告があり、金剛蔵王(蔵王権現)が現われた。金峯山の黄金は、弥勒菩薩出顕の際に、地を黄金で覆うために用いられる。分けることはできないので、近江国志賀郡湖水南の山に観音菩薩垂迹の地がある。そこで祈請せよという。 良弁はその地である石山に向かい、釣りをしていた老翁(比良明神)に会い導かれる。この地石山には、山上に八葉の蓮華のような大岩があり紫雲たなびく。美しい場所であり観音の聖地とされた。 奈良時代、747年、良弁は岩上に草庵(石山寺)を建て天皇の念持仏(聖徳太子の念持仏)、本尊の如意輪観音像を安置し秘法を行う。3月に、陸奥国に金鉱脈が見つかり、沙金(黄金)を朝廷に献上することができた。良弁の功験により「天平勝宝」と改元される。良弁の修法結願の時、本尊が石から離れない。やむなく天皇に請願し、比良明神に乞い、この地に仏閣建立を行い本尊を安置することにする。なお、寺地造成中に5尺の銅鐸が出土したという。 こうして、東大寺に先立ち石山に寺を開くことにしたという。(『石山寺縁起』1巻第1段) なお、石山寺境内は「栗太郡勢多村下一勝地」にあり、如意輪観音、執金剛神像を安置したという。(『東大寺要録』)。また、「志賀郡瀬田江辺」で老翁が石に座し、観音像を造るように宣託があったともいう。(『扶桑略記』) ◆石山院・東大寺 奈良時代、8世紀(701-800)に律令制下で「造寺司(ぞうじし)」という臨時役所が置かれた。寺院の造営、営繕、造仏、写経などに当り、四等官の下に史生、舎人、大工、番上などがあった。 奈良時代、748年に「造東大寺司(ぞうとうだいじし)」が置かれ、役所で最大規模になる。その支所の一つに「造石山院所」があった。石山院は、平城京、大仏殿建立などの木材運搬、用材採集の事務を司った。木材は、滋賀の甲賀、高島などの山々から伐り出され石山に集められた。水路により瀬田川、淀川を経て、大和川を遡り奈良・平城京に地運ばれたとみられている。 造東大寺司は、奈良時代、760年に建立された法華寺金堂、その後の石山寺、阿弥陀浄土院などの造営も担当し、後に常置化した。 石山寺はこの石山院を寺に改めて創建されたとみられている。石山寺は、保良宮の鎮守寺として、造東大寺司の下、造石山院所により本堂、緒堂が整備拡張されたという。別当は造東大寺司主典・安都雄足、普請・大僧都・良弁による。造東大寺司からも仏師などが派遣され本尊の造立が始まる。別当に安都宿禰宜雄足(あとくの-くねおたり)が任じられた。 造東大寺司管轄下の山林の田上杣(たなかみのそま)から、用材の大部分が伐採された。伐採作業は田上山作所の監督官の領2人の下、専門工人・司工2人、鉄工1人、臨時工人・雇工3人、様工6人、仕丁10人、運送の仕丁、雇夫が携わった。 ◆法流 醍醐寺小野流の聖宝(初代座主)、観賢(2代座主)の両者は醍醐寺開基に関わっている。中興の祖になった3代座主・淳祐がこれに続く。正嫡の元杲は淳祐の命により広沢流を受け、後に醍醐寺に移った。以後、醍醐寺の法流も受け、石山流と呼ばれた。 淳祐以後、3流あり、法喜の法脈は1代で絶える。2流が残り、平安時代末期までは座主方(ざすがた、寛忠の弟子)、その後は人師方(にんじがた、真頼の弟子)が優勢になる。安土・桃山時代には、仁和寺系統広沢流とも関わる。また、一時、延暦寺の系統、三井寺との関わりもあった。 ◆保良宮 「保良宮(ほらのみや)」は、奈良時代に近江国滋賀郡に存在した。場所は特定されていないが石山付近、境内の北西ともいう。新都では法相宗の僧・弓削道鏡(700?-772)が活躍していた。都と石山寺との関係も指摘され、鎮護寺の位置付けだったともいう。また、石山寺本尊は道鏡の発願だったともいう。(『三十三所巡礼記』) 保良宮は、藤原仲麻呂が唐の複都に倣い、平城京の陪都として、奈良時代、759年に造営が始まる。また、政敵・橘諸兄の恭仁京に抗し、藤原氏と関係深い近江国に新宮を造営することで、孝謙上皇(第46代)と第47代・淳仁天皇を勢力内に取り込むことを意図としたともいう。759年に造営担当者が任命され、官人7人らを派遣、上皇と天皇が行幸し、平城京改作のために新都へ遷都することが宣せられた。761年に平城京に対して「北京(ほくきよう)」と呼ばれた。だが、762年に建都未完成のまま廃都になる。 ◆院家 近世には8院家(塔頭)が存在した。近代以降は廃され、2院家(法輪院、宝性院)のみが残る。現在の東大門の東にも7つほどの坊があったという。 ◆鎮守社 ◈第一の鎮守「三十八所権現社」の祭神は、観音二十八部衆と法華十羅刹女(『石山要記』)、また、般若十六善神と薬師十二神将(『近江輿地誌略』)ともいう。 石山祭り(5月5日)では、大人神輿と子ども神輿が境内を巡行し石段を登る。 ◈「金龍龍王社」は、大日如来の化身を祀る。石山寺の守護神で除災招福を司る。 ◈「龍蔵権現社」は、本堂へ向かう石段途中に東面している。鎌倉時代中期、1247年に勧進沙門祐円が再興した。江戸時代中期、明和年間(1764-1772)に朽損し、江戸時代中期-後期、天明年間(1781-1789)に再興された。 ◈「若宮」は、現代、2002年の建立という。祭神は天照皇大神になる。飛鳥時代の大友皇子(648-672)を崇める壬申の乱の際に葬り、寺僧により供養されてきたという。境内に祀られている三十八所権現社が親社という。 飛鳥時代、672年の壬申の乱は、第38代・天智天皇の子・大友皇子と同天皇の実弟・大海人皇子の皇位継承をめぐる争いだった。一カ月余の戦いにより、大友皇子は自害、大海人皇子が翌年即位し第40代・天武天皇になる。 ◈「八大龍王社」は、境内西の無憂園の奥にある。龍穴といわれる池の中島に建つ。この地は、炎天下でも請雨法を修すると必ず雨が降るといわれた。僧・歴海が孔雀経を転読すると、龍王たちが池の中から現れ、歴海の傍らに侍って護衛したという。(『石山寺縁起絵巻』) 池前の大丸石は「歴海和尚尻懸石」と呼ばれ、歴海が読経の際にいつも座した石という。 ◆珪灰石 境内は、世界的にも珍しい巨大な「珪灰石(けいかいせき)」の岩盤(天然記念物)上にある。古来より、霊地とされ信仰されてきた。岩上に本堂は建てられ、本尊も安置されている。三十八所権現社本殿、経蔵などもこの岩盤の上に建っている。このため石山寺の寺号の由来になった。山号も石光山(せっこうざん)という。 石山寺硅灰石(wollastonite、ウラストナイト)の岩盤が各所に露岩している。地層面に沿い、多数集合し、風化も進んでいる。硅灰石は、ジュラ紀付加体の石灰岩が、貫入してきた花崗岩の熱変成作用を受け熱作用のために変質している。カルシウムの珪酸塩鉱物で、ガラス光沢があり、板状や柱状の結晶を作る。石山寺では、大理石に成らず大規模な硅灰石に変わった。色は淡黄色、淡褐色、純白色をしている。また、大理石、ベーブ石、石灰岩などによる大岩塊が混じり、褶曲(しゅうきょく)している。 本堂下方に硅灰石の15カ所の採石痕がある。奈良時代の第38代・天智天皇(在位: 668-672)の頃、「石切場」があり、石材は飛鳥・川原寺(かわらでら)中金堂の礎石に使用されていた。 現代、1922年、国の天然記念物に指定された。2007年、「日本の地質百選」に選ばれている。 ◆文化財 多数現存している。 ◈「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん」全10巻(国宝)は、『大乗起信論』の注釈書で竜樹の著とされる。真言宗では根本経典の一つとされる。石山寺本は、1巻-5巻あり、中国・唐代写経の巻1巻の首題下部分には、唐の則天武后が定めた則天文字が使用されている。江戸時代に折本装に改装された。 ◈『淳祐内供筆聖教』73巻・1帖(国宝)は、3代座主・淳祐が自筆書写した聖教をいう。平安時代前期、835年に弘法大師(空海)没後、平安時代中期、922年10月25日に、師・観賢は第60代・醍醐天皇の勅を受けて、弘法大師の諡号と紫衣を下賜するために高野山奥院の弘法大師御廟に参じた。淳祐は師・観賢に従い御廟に赴いた。淳祐は入定のままの姿で坐した空海の膝に触れた。その香気は淳祐の手に移ったという。香気は生涯消えることはなく、淳祐が書写した聖教類にも香気が残ったという。このため、「薫聖教(においの-しょうぎょう)」と呼ばれた。薫聖教は、座主以外は開くことが許されなかった。梵字(サンスクリット)を書写したものが多く、当寺の梵語・梵字に関する研究の悉曇学(しったんがく)を知る上で貴重な資料になった。 ◈『石山寺一切経』(重文)は、4644帖(200巻)の経典群であり、奈良時代-江戸時代作になる。奈良時代、730年の最古の奥書「瑜伽師地論」、鎌倉時代-室町時代の版経398帖、沙門念西の院政期の2915帖を含む。奈良時代310点、平安末期3000点、室町時代600点、その他、平安時代初期か鎌倉時代のものがある。平安末期のものは沙門念西、室町時代は善忍律師の勧進により蒐集された。(奥書)。なお、これらは、江戸時代の学僧・尊賢僧正が中心になり整備されている。 『一切経』は、仏教えを説いた「経」、僧侶の決まりを示した「律」、仏教教義を論じた「論」の「三蔵」を主体とした仏教関係書籍群であり、経蔵に納め信仰と研究研鑽の糧にした。現在は、豊浄殿で収蔵している。 ◈『石山寺校倉聖教』(重文)は、修法の行儀作法を記しており、書跡・典籍ト書など30函1926点ある。平安時代-安土・桃山時代に至る。聖教中で最重要なものとして校倉経蔵に『一切経』と共に収納されていた。淳祐の教学研究を継いだ書写、朗澄(1132-1209)、その師・慶雅(1103-?)などの書写・所持本が多い。平安時代1400点(内院政期1240点)、鎌倉時代300点になる。江戸時代前期、1655年に作られた函に収納されている。現代、2001年より修復が行われている。 ◈『石山寺深密蔵聖教』は、近代、明治期(1868-1912)までに石山寺諸院坊に伝わっていた聖教が集められた。江戸時代が中心になり、一部に平安時代のものも含まれる。111函、20000点。 ◈『石山寺漢書』は、中国前漢の歴史書で120巻から成る。後漢の班固の著で、その死後、妹の班昭が完成したといわれている。石山寺蔵の『漢書』は、中国の唐時代の学者・顔師古が注釈を加えた古写本で、巻1下の「高帝記下」、巻第34の「列伝第4」に相当する。奈良時代に日本で制作された。「高帝紀下」には、平安時代、10世紀中頃の全巻に角筆(かくひつ)の跡がある。これは、筆記具で紙を凹ませることにより、紙表面に文字や絵を書いた。仮名、ヲコト点、声点や漢字による注があり、当時の漢書の訓読法としても貴重とされている。紙背には、元杲の著作『金剛界念誦私記』が書写されている。 ◈『大乗本生心地観経』(重文)は、近代、1913年に石山寺経蔵から発見された。奈良時代-平安時代の霊仙三蔵(760-827)の訳書になる。本来、翻訳者は般若三蔵のみとされていた。同経巻頭文の「日本国沙門霊仙筆受並訳語」により、霊仙三蔵が訳著したことが判明した。 霊仙の遺徳を偲び、現代、1980年に石山寺無憂園、1987年に霊仙が没した中国五台山金閣寺に顕彰碑が立てられた。 ◈奥書「伝法記」は平安時代後期、1163年に書かれた。紙背書状「時鳥(ほととぎす)の願文」がある。 ◈絹本着色「仏涅槃図」(重文)は、鎌倉時代前期(13世紀)の作になる。周囲に宝相華(唐草文様)の描表装を伴っている。ほかに見られない特徴がある。釈迦の両眼が開く。摩耶夫人が居ない。供養台に仏具、卓子に袈裟を安置している、七宝、蓮弁、飛天舞う様などが描かれている。縦249.1㎝、横281.2㎝。 ◈紙本着色絵巻物『石山寺縁起絵巻』7巻33段(重文)は、鎌倉時代後期-江戸時代中期作になる。鎌倉時代、正中年間(1324-1326)に、詞書はすべて石山寺座主・杲守(こうしゅ)によって書かれた。鎌倉時代末期に原本は隆兼が作ったとされる。その後、第4巻以下が失われ、後世に順次補作されたとみられている。 観音の三十三応化身に因み、33場面の絵、詞書で構成されている。良弁による石山寺創建の縁起、本尊の観音菩薩の霊験譚、病気平癒などの法験譚、淳祐内供の逸話、宇多上皇(第59代)、藤原道長などの参詣祈願、藤原道綱の母、菅原孝標の女の参詣、紫式部の『源氏物語』構想、第96代・後醍醐天皇即位時の荘園寄進などの逸話、伝承などを描いている。縦34㎝、長さ112m(1巻平均16m)。 ⋄「1巻-3巻」は、鎌倉時代、正中年間(1324-1326)、14世紀後半作になる。詞書は石山寺座主・杲守、絵は宮廷絵師・高階隆兼(たかしな-たかかね、?-?)とされ、大和絵の典型で柔軟な描線と精緻彩色による。 ⋄「4巻」は室町時代後期、1497年作になる。詞書は公卿・歌人・三条西実隆(さんじょうにし-さねたか、1455-1537)、絵は画家・土佐光信(とさ-みつのぶ、?-1522頃?)による。 ⋄「5巻」は、室町時代、15世紀前半作ともいう。詳細は不明。詞書は、公卿・歌人・冷泉(二条)為重(にじょう- ためしげ、1325-1385)、絵師は不明。絵師・粟田口隆光(あわたぐち-たかみつ、?-?)ともいう。 ⋄「6巻-7巻」は、江戸時代後期、1805年に知足院尊賢が白河楽翁(松平定信)の援助により補作させたという。詞書は公卿・歌人・飛鳥井雅章(あすかい-まさあき、1611-1679)、絵は谷文晁(たに-ぶんちょう、1763-1841)一門による。俯瞰の構図で美しい色彩と、大和絵の手法による時空の移動を示す霞形、異時同時図なども用いられている。 ◈絹本著色「不動明王二童子像」(重文)は室町時代前期(14世紀)作になる。 ◈「白描図像」は、鎌倉時代初期以前のものが大半になる。白画ともいわれ、描線を主体とし墨一色で描いた仏像画で、わずかに淡彩を施したものもある。僧侶が多く描いた。儀軌(密教の念誦供養の方法や規則、それらを記した典籍)に依拠しており、「校倉聖教」に含まれる。朗澄も多く描いた。 平安時代の『胎蔵私記』『虚空蔵念誦次第』(966)、『仏説六字神呪王経』などがある。白描図像や各種の曼荼羅図などの『大正新修大蔵経』図像篇などもある。 ◈多宝塔内に描かれている「石山寺多宝塔柱絵」(重文)は、鎌倉時代作になる。初重には、鎌倉時代前期、1194年の創建当初の作と思われる尊像群、文様が描かれている。尊像は当初54体あり、現在は20数体が確認できる。大日如来をはじめ金剛界五仏、四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、四摂菩薩など金剛界三十七尊を中心に構成されていたとみられる。また、五大明王坐像を書き加えている点が珍しい。朗澄(1131-1209)が指導した可能性があるという。 ◈「梵鐘」(重文)は、平安時代作になる。駒の爪が目立たない、竜頭の向きと撞木が直交している、撞座が高い、乳が108ではないなどの古式の特徴がある。 ◈「袈裟襷文銅鐸」(重文)は、弥生時代後期作になる。江戸時代後期、1806年に境内水田より出土した。縁起にある石山寺造営時に見つかった「五尺(1.5m)」の銅鐸ともいう。(『石山寺縁起絵巻』第1巻)。総高91.5㎝/90cm。 ◈「西国三十三所巡礼納め札 」(滋賀県指定有形文化財)は、室町時代作になる。庶民の巡礼者は、塔婆形の巡礼札「納め札」に、巡礼の年月、所願目的、生国、氏名などを記して納めた。納札(巡礼札)の最古のものは、「武蔵国吉見住人道音」によるもので、室町時代後期、「永正四年(1507年)」と記されている。 私年号「弥勒二年」の銘を刻んだものがあり、貴重とされている。私年号は朝廷の定めたものでない年号であり、偽年号、異年号などともいわれた。30以上の私年号が登場している。主に中世後期の政治的混乱期に、東国の社寺・地方豪族などが用いた。私年号と公年号とは併用されていたともいう。仏教思想に基づく私年号「弥勒」は、僧侶らが創作したとみられ、平安時代後期、1171年、室町時代後期、1506年、1531年の3回登場している。 ◈「山岡景以(かげこれ)舎系図(いえのけいず)」は、現代、2020年5月に倉庫から発見された。山岡家の系図が漢文体で書かれている。安土・桃山時代、1591年に瀬田城主・山岡景隆(1525-1585)の息子・景以(1574-1642)が記した。江戸時代前期、1641年に清書され、江戸時代中期に別の人物が書き写したとみられている。1641年に、将軍・徳川家光が大名と旗本の系譜「寛永諸家系図伝」の編纂を命じており、景以が家光に差し出すために清書したと見られている。 系図によると、安土・桃山時代、1582年6月、本能寺の変で織田信長(1534-1582)を倒した明智光秀(1528-1582)の軍は、安土城に向かう。信長に仕えた景隆は瀬田橋を焼いて進軍を阻止した。その後、軍勢を率い明智秀満(左馬助、1536?-1582)が、船に乗り強行突破を試み湖上で船戦になる。景隆は左馬助の家来らを破り進軍を阻止したという。 伝承として、秀満は光秀の居城・坂本城(大津市)を目指し、途中で敵方に道を塞がれ、打出浜から北方向の柳が崎まで、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという。(「湖水渡り」)。 縦27㎝、横119㎝。 ◆紫式部関連 ◈絵像「紫式部聖像」は、賛文末尾に「戊申白露」とあり、南北朝時代、1368年か、室町時代前期、1428年の制作とみられる。賛の筆者は不明。像は、古くより「聖像」として当寺に伝えられていた。 画面は大きく、紫式部は左に体を向け、文机の前に座り、筆を手にしている。画像全面が黒いのは、長年にわたり絵像を掛けて源氏供養などの法要が営まれたことによる。黒地に上部に48行の漢文賛文、絵が描かれ、『源氏物語』の6場面が描かれている。紫式部について、人間の欲、罪業、無常などについて記されているとみられる。 ◈「源氏物語絵巻 末摘花」1巻(重文)は、江戸時代写になる。伝・土佐光起(1617-1691)筆という。巻頭16行筆者は四辻季賢(1630-1668)、奥書は季通(1619-1693)による。 『源氏物語』末摘花巻の冒頭から半ばまでの本文を7段に分け、6段まで絵を添えている。題箋に「末摘花上」とあり、ニューヨーク公立図書館・スペンサーコレクションの「末摘花中」「末摘花下」と同一の3巻本の一つだった。また、同一巻とみられる「桐壺」「帚木」「葵」「賢木」などが世界各地に所蔵され、本来は54帖数百巻が制作され、後に散逸したとみられている。「幻の源氏物語絵巻」といわれている。 ◈「紫式部聖像」(大津市指定有形文化財)は、安土・桃山時代作になる。伝・狩野孝信(1571-1618)筆になる。長らく源氏の間に掛けられていたという。「紫式部聖像」の構図を踏襲したとみられ、式部は左に顔を向け、右手に筆を持ち、硯箱と紙束を前にして上畳の上に坐している。 画面上部の3枚の色紙形の筆者は、「寛永の三筆」の1人である公卿・近衛信尹(このえ-のぶただ、1565-1614)とされ、右端には「天台四門」が墨書されている。中央と左端の色紙には、和歌が書かれていたとみられる。 ◈「紫式部像」は、江戸時代前期作になる。土佐光起(1617-1691)筆による。式部は上げ畳に座り、右に顔を向ける。筆を持つ右腕を文台に置き、机には硯箱と料紙が載る。上部の3枚の色紙形は、青蓮院宮筆とされる。右は天台四門、中央、左は式部の歌になる。縦90×横53㎝。 ◈「古硯」は紫式部が使ったとされる。中国産の紫瑪瑙に、太陽と月を表した2つの円を彫り、海に牛と鯉が刻まれている。2つの円で薄・濃の墨の濃淡を使い分けていたという。 ◈「源氏の間」は本堂相の間にあり、紫式部が『源氏物語』を起筆したことされる。有職人形司十世・伊東久重作の紫式部像が置かれている。 ◈「三重宝篋印塔(紫式部供養塔)」(重要美術品)は、経蔵近くにある。 ◈銅像「紫式部像」は、源氏苑の一角にある。 ◆障壁画 現代、2016年9月の本尊開扉の年に、現代芸術家・シュウゾウ・アヅチ・ガリバーは、3週間籠り淳浄館の襖絵を制作した。複数大小の球体により構成されている。 「西国三十三所草創千三百年開白法要で使用された散華も制作した。 ◆石造物 境内には50基以上の石造物がある。 ◈「宝篋印塔」は、源頼朝の供養塔という。源頼朝(1147-1199)は義朝3男になる。鎌倉幕府初代将軍だった。平安時代後期、1160年の平治の乱、1180年の以仁王の乱に敗れた。1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を、1189年に奥州藤原氏を滅ぼし全国を平定した。鎌倉時代前期、1192年に征夷大将軍に任じられ、以後700年の武家政治が続く。源平の乱にあたり、頼朝の命を受けて戦った中原親能(1143-1208)は、石山寺の毘沙門天に賊討伐の戦勝を祈願し、成就したことから境内に勝南院を建立した。頼朝は、乳母であり親能の妻・亀谷禅尼は当寺に住しその請により、石山寺の多宝塔、東大門、鐘楼などを寄進したともいわれている。基壇に格狭間、笠の耳飾りに中世の特徴がある。 ◈「宝塔(めかくし石)」(重要美術品)は、多宝塔の西側に立つ。平安時代作というが、鎌倉時代後期作とみられる。「めかくし石」といわれている。かつては「めくら石」と呼んだ。目を隠して塔身を完全に抱きとめることができれば所願成就になるという。 壺型塔身、笠、相輪がのる。相輪は後補。高さ3m。 ◈「宝篋印塔」(重文)は、南北朝時代に建立された。源頼朝乳母・亀谷禅尼の供養塔という。亀谷禅尼は源頼朝の乳母であり親能の妻でもあったという。中原親能(なかはらの-ちかよし、1143-1209)は、平安時代末期-鎌倉時代初期の官人であり、文官御家人、鎌倉幕府政所公事奉行だった。 ◈「三重宝篋印塔(紫式部供養塔)」(重要美術品)は、経蔵近くにあり紫式部供養塔という。鎌倉時代中期作とみられている。 宝篋印塔の笠を3つ重ねた層塔になる。当初から三重だったかについては不確定とされる。ただ、上層軸部を堀り出している。ほかに類例はある。初重軸部に四方仏が半肉彫りされている。相輪の代わりに宝珠を冠る。高さ2.6m。 ◈「宝篋印塔」は、毘沙門堂の左に立つ。南北朝時代の作とみられている。基礎の格狭間、塔身の梵字、笠の耳飾り(二つの弧からなる)などに典型的な特色がある。四方に四国88カ所霊場の砂が敷かれており、砂踏みができ同じ功徳が得られるという。高さ182cm。 ◈「源頼朝供養塔」(重文)、「亀谷禅尼供養塔」(重文)の2基の宝篋印塔が多宝塔の北西に並んで立つ。右が頼朝、左が禅尼の供養塔という。禅尼は頼朝の乳母であり、石山寺に住したという。後世、南北朝時代に禅尼、その後、頼朝の供養塔が立てられた。 ◈「悪源太義平供養塔」という宝篋印塔がある。 ◈「石造道標」は、東大門南にある。江戸時代中期、「天明五年(1785年)」建立とある。 ◆石山詣 平安時代、初代座主・聖宝の頃、石山寺は真言宗道場として栄えた。観音信仰が盛んになり、本尊・如意輪観音の霊験は、清水寺、長谷寺などに並び広まる。貴族、庶民の遊楽、参籠が続いた。「石山詣(いしやまもうで)」の言葉も生まれ、特に陰暦10月甲子の日(きのえね)に参詣参籠した。 人々は京都から逢坂の関を越え、打出浜から船で石山寺に到着し、堂に籠って夜通し祈願した。参籠者には、紫式部、和泉式部、赤染衛門など女性作家もあった。 ◆紫式部と石山寺 紫式部と石山寺の所縁は深いという。紫式部の『源氏物語 』起筆の動機について、紫式部は夫・藤原宣孝と死別した侘しさに耐えかね、物語世界に没頭する。やがて自ら物語を紡いだとされる。 紫式部の石山寺での起筆について、『源氏物語』の注釈書『河海抄』(南北朝時代、1367年成立)の言及が最も古い。寺伝によれば、平安時代後期、1004年、また寛仁年間(964-1035)、旧8月、上東門院は、物語好きの選子内親王のために、紫式部に新たな物語を書き下ろすように促した。このため、紫式部は石山寺に7日間参籠する。旧8月15日、金勝山よりさし昇る中秋の名月下、琵琶湖に映る満月を眺め、物語の構想が浮かび、筆の趣くままに『源氏物語』を綴ったという。(『石山寺縁起絵巻』、巻4第1段)。 「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊恋しく」と書きしるした。これが、『源氏物語』の第12帖「須磨」巻、第13帖「明石」巻の2編だったという。光源氏は、恋の遍歴のあげく須磨に退去し、十五夜の月のもとで都の管弦遊びを回想する。なお、紫式部はこの時、「大般若経」6巻(現存)を書いて奉納したという。これらは、貴人の石山観音信仰に由来するという。(『河海抄』『石山寺縁起絵巻』4巻第1段)。 『紫式部日記』『紫式部集』にこれら執筆に関する記載はない。紫式部の石山寺参詣の可能性は否定されていないが、『源氏物語』の執筆については確定していない。紫式部は、石山寺で物語の着想を得て、執筆は大祖父・藤原兼輔の邸宅(廬山寺)で行ったともいう。 近年では、『源氏物語』の執筆依頼は藤原道長によるともされる。当時は紙が高価なため、長編物語に必要な大量の高価な紙を用意できたのは、道長など限られた人物だったとされる。 鎌倉時代末-室町時代初頭に、紫式部は観音の化身との信仰・伝承が生まれた。観音とは石山寺本尊の如意輪観音に特定され、石山寺が『源氏物語』に結び付き、聖地化された。起筆の伝説も生んだともいう。 謡曲『源氏供養』では、安居院(あぐい)法印が石山の観音に参詣する。途中、里女が現れ、成仏できないと供養を頼む。法印が石山寺に詣でて回向すると、里女(紫式部の亡霊)が現れた。自分は、寺に籠り悲願を込めて『源氏物語』を書いた。だが、虚言により綴り、光源氏に供養をしなかった罪により、未だに成仏できないと嘆く。式部の頼みにより聖覚は寺で供養を行った。夜更けに、亡霊が再び現れ、礼の舞いを舞う。 石山寺本堂には、紫式部が執筆した部屋とされる「紫式部の間(源氏の間)」(4畳)が残されている。愛用したという硯もある。源氏の間は、かつて貴人の参籠の間として用いられていた。 ◆文学 ◈歌に詠まれている。「石山のたうの前に侍りけるさくらの木にかきつけ侍りける」「うしろめたいかでかへらむ山ざくらあかぬにほひを風にまかせて」(『拾遺集』)、「つまこふる声ぞかなしき別れては鹿はいかなる心地かはせし」(『赤染衛門集』)など数多い。 ◈平安時代中期、天暦年間(947-957)に成立した『大和物語』にも登場する。第59代・宇多天皇は、度々石山寺に参詣していたという。 ◈数多くの文人が参詣している。平安時代、歌人・藤原道綱母(兼家の妻)(936?-995)は、970年7月(旧暦)に、夫の正妻・時姫、愛人・近江などの女性関係に悩み石山寺を参詣した。朝に都を一人で発ち、逢坂の関を越えて打出浜から船で湖岸沿いを進み、夕方に寺に到着した。「夜になりて湯など物して、御堂にのぼる。身のあるようを仏に申すにも、涙にむせぶとていひもやられず」。叶わない子宝を仏に祈願し、一夜泣き明かす。観音堂に籠ると観音の夢告があり、自らの情念を断とうとする。(『蜻蛉日記』(970年の条)。8月、夫・藤原兼家も参詣し関係は修復する。 ◈平安時代の学者・歌人の源順(みなもと-の-したごう、911-983)は、『万葉集』の訓方(古点)に苦慮し、梨壺ら5人と参籠する。途中、馬方の会話から「左右」の字を「まで」と読むことを着想し解いたという。 ◈平安時代の作家・歌人・清少納言(966?-1025?)の『枕草子』208段に、「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とある。 ◈平安時代の和泉式部(978?-?)は『和泉式部日記』(15段)で、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とある。和泉式部は為尊親王と交際し、その没後1年の、平安時代後期、1003年、弟の敦道親王と恋愛関係になる。親王が和泉式部を召人として邸に住まわせたことから、正妃・藤原済時の娘の怒りを買った。 ◈平安時代の菅原孝標女(1008-1059)の『更級日記』にも記されている。平安時代後期、1001年11月、木枯らしの吹く中、「後の世までのことを思はむ」として石山寺に向かう。逢坂山で「あふ坂の関の山吹く風は昔聞きしに変はらさりけり」と詠んだ。その夕刻、寺に着き、3日間の参籠をしている。1003年にも再訪し、夜に、「谷川の流れは雨と聞ゆれと ほかよりはるる有明の月」と詠んだ。 ◈室町時代後期、1555年8月、紫式部、また『源氏物語』を偲び、公卿・歌人の三条西公条(1455-1537)は大覚寺義俊(1504-1567)、宗養(1526-1563)、紹巴(1525-1602)らを伴い石山寺を参詣した。倉坊を宿所にし、千句連歌(石山千句)を詠む。第一百韻公条の発句「諸人の年の花つむ若菜かな」。 ◈鎌倉時代の鴨長明(1155-1216)は、日野より輿により山越し、石山寺、岩間寺に参籠したという。(『無名抄』『方丈記』) ◈室町時代の一休宗純(1394-1481)は、師・謙翁を喪い、石山寺に7日間参籠した。琵琶湖に投身自殺はかり、母の使者に助けられた。(『東海一休和尚年譜』) ◈江戸時代前期に、月見亭の隣にある芭蕉庵に、俳諧師・松尾芭蕉(1644-1694)は度々仮住いしたという。 1690年4月1日にも石山寺に詣でている。前書きに「瀬田に泊りて、暁、石山寺に詣、かの源氏の間を見て」とある。境内多宝塔下に句碑が立つ。「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」とある。碑は、江戸時代後期、1849年に立てられた。円筒形、高さ1.36m。 「石山の 石にたばしる あられかな」の句碑は、門前町に立つ。 ◈平安時代-江戸時代の歌人、漢詩人、文人などが参詣に訪れた。歌人の東三条院、藤原行成、藤原実方、藤原長能、藤原公任、藤原為家、近衛政家、三条西実隆、三条西公条、伊勢大輔、頓阿、尊海、細川幽斎、連歌の二条良基、周阿、侍公、宗養、紹巴、漢詩人の藤原敦光、藤原茂家、藤原茂明、藤原周光、釈蓮禅、三条西公条、大覚寺性深、江心承薫、林羅山、沢庵、松永貞徳、石川丈山などになる。 ◈能の「源氏供養・悪源太」は石山が舞台になる。 ◈歌枕の「伊加加崎/伊加賀崎(いかがさき)」は、石山寺付近の瀬田川沿いという。「我はただ風にのみこそまかせたれ伊加加崎には人の行くらむ」(『和泉式部続集』)がある。ただ、大阪府伊加賀ともいう。 ◆密蔵院・藤村 茶丈「密蔵院」は、かつて現在の表境内、東大寺門東付近にあった。現在は、参道の西の突き当り付近に移築されている。紫式部、島崎藤村ゆかりの建物になる。 近代、1893年に、20歳の島崎藤村(1872-1943)は、教え子・佐藤輔子との恋愛に悩む。輔子にはすでに許嫁がいた。藤村は明治女学校の教職を去り、キリスト教を棄教する。関西へ旅の途中、石山寺の茶丈・密蔵院(現在の表境内、東大寺門東付近)に2カ月間滞在した。 「そもそも石山寺といふは名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を閉して今はその名のみをとどめたる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名月に浮べたる源氏の間には僅にそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたたき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。」(『文學界7号』島崎藤村「茶丈記」)』(1893)。 藤村は後に長編小説『春』(1908)に輔子をモデルにして書いた。また、境内には紀行文『石山寺にハムレットを納むるの辞』(1893)の一節からとった文学碑が立つ。「湖にうかぶ詩神よ心あらば 落ち行く鐘のこなたに聴けや 千年の冬の夜ごとに石山の 寺よりひびく読経の声こえ」。 ◆諸堂 小祠「那須与一地蔵尊」は、本堂へ通じる石段下にある。地蔵尊は、境内の参道の整備中に、本堂正面下あたりから発見された。那須の与一が石山の地で療養中に信仰したという。 ◆史跡など ◈「比良明神影向石(ようごうせき)」は志納所近くにある。良弁は聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受け、石山の地を訪れた。比良明神は石上に坐し釣りをしていた。老翁は、この地がお告げの地であり、観音の霊地であることを示したという。(『石山寺縁起絵巻』) ◈「くぐり岩」は、穴をくぐると願い事がかなうという。 ◈「子安産の腰掛石」は、高床式の経蔵の束(つか)の間にある。束は、露出した硅灰石の岩盤に立つ。その束を抱くようにして岩盤に座ると安産になるという。 ◈「子育て観音」は、子育ての悩みにご利益あるという。 「紫式部像」は、源氏苑の一角にある。銅像。 ◈「天智天皇の石切場」は、本堂下方にある。硅灰石の15か所の採石痕がある。近年、切り出された石が、天智天皇(在位: 668-672)の頃、飛鳥・川原寺(かわらでら)中金堂の礎石に使用されていることが明らかになった。 ◈「龍穴」は、境内西北、八大竜王社が祀られている周辺の池(龍穴の池)をいう。風水では、気は龍脈を巡り地上に溢れる地を龍穴と呼んだ。こうした露出した活断層面に、社などが祀られた。龍穴は繁栄する地とされた。 伝承がある。平安時代、僧・歴海が畔の大石(尻懸石)の上で、降雨の孔雀経の転読供養をした。龍王の段で池中の白龍、青龍など龍王が出現し、周りに侍った。草庵に帰る際には、龍王たちは暦海を背負い、草庵では親近給仕し、奴僕のように振る舞った。(『石山寺縁起絵巻』巻2第6段)。 歴海は淳祐の法流、真頼に始まる人師方(にんしがた)の僧で、淳祐の3代目の弟子に当たる。岩は龍穴の池の畔にいまもある。この地で祈雨法を修すると、陰雲たちまち起こるという。 ◈「尻掛石」は、龍穴の池の畔にある。平安時代の僧・歴海がこの石に座り八大龍諸王を供養したところ、諸龍が喜び歴海を終生敬い守護したという。 ◈「西国三十三所観音(石仏)」は、無憂園沿いの山道にあり、観音霊場の観音像が札所順に配されいる。 ◈「源義平かくれ谷」は、八大龍王社の西にある。 源義平(1141-1160)は、平安時代末期の武将になる。源義朝の長子、頼朝の兄で悪源太と呼ばれた。平安時代後期、1155年に叔父・義賢(源義仲の父)を殺害した。1159年に平治の乱で父に従い参戦、六波羅の戦で敗退、東国に逃れた。1160年に平清盛を討とうとして難波経房に捕らえられ、六条河原で処刑された。 この近くに悪源太供養塔という五輪塔があるという。 ◈「金龍龍王」は、拾翠園の池泉に祀られている。江戸時代中期に現れたという。大日如来の化身であり、当寺院の守神、厄除招福の信仰を集める。 ◆石碑・句碑 ◈「青鬼の小唄の歌碑」が石山寺表境内にある。「降魔のすがたと なりたもう 朗澄律師の 青鬼は 悪心くじき 福徳を あたえ給うも ありがたや」とある。石山寺50世座主・光遍和尚による中興の朗澄を讃えた詩になる。 ◈「霊仙三蔵碑」が無憂園に立つ。1980年に建立された。霊仙(りょうせん、759?-827?)は、奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧であり、日本で唯一の三蔵法師になった。近江国、また阿波国に生まれたという。興福寺に学び、平安時代前期、804年に第18次遣唐使として最澄・空海・橘逸勢らと渡る。長安で学び、811年に「三蔵法師」の号を与えられる。だが、仏教秘伝流出を危惧する勢力により、帰国を禁じられた。反仏教害を恐れて五台山に移る。825年に僧・貞素に託し仏舎利、経典を日本に送る。帰国することなく客死する。霊境寺で毒殺されたともいう。840年に霊境寺に立ち寄った円仁は、霊仙の最期を聞いたとされる。その遺物や大元帥法秘伝などを日本に持ち帰ったともいう。 中国・唐の般若訳『大乗本生心地観経』8巻は、かつて、般若三蔵(玄奘、602-664)一人による翻訳と考えられていた。石山寺に所蔵される同書の巻頭に「日本国沙門霊仙筆受並訳語」とあり、霊仙三蔵も翻訳に携わったことが判明した。 ◈「朗澄の碑」が東大門の北の、朗澄大徳遊鬼境(朗澄大徳ゆかりの庭園)内に立つ。池泉があり『石山寺縁起絵巻』に描かれた朗澄の鬼姿が石碑に刻まれている。現代、1999年に立てられた。僧・朗澄(1131-1209)は、没後、石山寺経蔵の一切経、聖教を守護し、万民の降魔招福の鬼と化したという。 石山流の師・文泉坊朗澄は生前に語った。死後に鬼の姿になり多くの畜生類を連れ聖教を護り、法に従わない者を改めさせるとした。没後、朗澄の霊が現れ不思議なことが続く。弟子・行宴は、師の居場所を探し祈ると、夢に西の山の峰、松の梢にその姿が現れた。その場所に行くと、虚空に声がして定印を結び両眼にあてて見よという。その通りにすると、金色の鬼が四方を圧し、厳しい表情だった。松樹の上に鬼と化した師・朗澄が現れていたという。(『石山寺縁起絵巻』、6巻第2段) ◈芭蕉句碑、「石山の石にたばしる霰(あられ)かな」と刻まれている。江戸時代前期、1690年の冬の日に石山寺を訪れた際に詠まれた。硅灰石の上に霰が激しく降り注ぐ景色を詠んだ。 ◈芭蕉の句碑、「曙はまだむらさきにほととぎす」は、芭蕉の自著『芭蕉自画賛句』(石山寺所蔵)と同内容の文字を刻む。碑文から、江戸時代後期、1849年に信州・松岡斎梅朗によって建立された。高さ1.7m、円柱。 ◈島崎藤村の詩碑が石山寺表境内にある。「湖にうかぶ詩神よ 心あらば 落ちゆく鐘のこなたに 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経の こえ」と刻まれている。 この地にかつて茶丈密蔵院があった。藤村は2カ月滞在した。現在は石山寺山内に移築されている。 ◆池 池は奈良時代、天平年間(729-749)のものという。くぐり石は、大理石というが、硅灰石が露岩している。大きな洞がある。 ◆水車 江戸時代に、境外200m程の所あった小川に設置されていた水車小屋が移設されている。米の脱穀用の動力に使われていた。近年まで、これを足で踏んで、高所に水を上げていたという。 ◆近江八景 「近江八景」は、琵琶湖岸周辺の景勝地であり、中国の洞庭湖の瀟湘 (しょうしょう)八景に因んでいる。 室町時代後期、1500 年に、関白近衛政家・尚通父子が選定したという。石山寺の「石山秋月」とは、瀟湘八景の「洞庭秋月」に呼応している。石山寺から望む秋の月、月明かりを映した琵琶湖の情景をいう。 ほかに、三井晩鐘、粟津晴嵐、瀬(勢) 田夕照、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪、矢橋帰帆があった。安藤広重の名所絵図「近江八景」など数多く描かれた。 近代、1949年に選定された新しい「琵琶湖八景」は、夕陽(瀬田石山の清流)、煙雨(比叡の樹林)、涼風(雄松崎の白汀)、暁霧(海津大崎の岩礁)、新雪(賤ヶ岳の大観)、月明(彦根の古城)、春色(安土八幡の水郷)、深緑(竹生島の沈影)になった。 ◆塚 「鴨祐為県主詠艸草塚」は、子育観音への道の傍らにある。 梨木祐為(なしのき-すけため、1740-1801は、江戸時代中期-後期の歌人で神職だった。鴨祐之の孫になる。下鴨神社の神職の家に生まれた。鴨祐為とも称した。冷泉為村に和歌を学ぶ。1日に千首をつくる早吟で知られた。生涯十万首を詠んだという。『源氏物語』の愛好家であり、『源氏物語巻名和歌』には巻名を織り込んで詠んだ。 ◆石山貝塚 境内の山門東一帯、瀬田川西畔、大津市石山寺辺町に縄文時代早期(BC7000年)の「石山貝塚遺跡」(市指定史跡)がある。付近一帯には縄文人の居住区があったとみられている。「しじみ貝塚碑」が立つ。 貝塚の規模は東西約20m、南北約50m、深さは深いところで2mの貝層が堆積していた。淡水産貝塚では国内最大、アジアでも最大級の規模になる。近代、1941年以降に調査が行われ、現代、1950年、1951年に成果を上げた。発掘調査方法は、土器の出土層による形式変化・土器編年であり、その後の発掘調査の基礎資料になった。 貝はほぼ淡水産で、琵琶湖特産のセタシジミが全体の78%を占め、ほかにナガタニシなど10数種類、コイ、フナ、スッポン、キジ、イノシシなど哺乳類の骨も見つかっている。海水産のウツボ、イシダイ類などもあり、海辺との交易も行われていた。埋葬された人骨(成人男子2体、女子2体、小児1体)もあり、子どもの首には海水産のヤカドツノカイ(細長い角状で断面が八角形)で造った玉がかけられていた。 ほかに、住居跡、石器、骨角器、縄文土器が出土した。 ◆西国三十三番札所巡礼 石山寺は現在、西国三十三箇所観音霊場の第13番札所になっている。 ◆西国観音霊場三十三所 当寺は、「西国観音霊場三十三所」の第13番札所になっている。第1番の和歌山・青岸渡寺より、第33番の岐阜・華厳寺までを巡る近畿2府4県(1000km)の巡礼になる。 長谷寺を開いた飛鳥時代の徳道(とくどう、656-?)は、病により仮死し、冥途で閻魔に出あった。閻魔は地獄に堕ちる者が多いとして、観音菩薩の慈悲を説き、33の霊場を参ると功徳を得られるとした。 観音菩薩は浄土に往生せず、現世で苦しむ人々を救済するために、聖観音、十一面観音、千手観音など33(無限)の姿に身を変えるとされる。徳道は、閻魔より33の宝印、起請文を授かり現世に戻る。徳道は兵庫・中山寺に宝印を納めたという。 巡礼は、奈良時代に始まる。その後、途絶したともいう。平安時代、花山法皇(第65代、968-1008)は、徳道の納めた宝印を掘り起こし、巡礼を再興したという。また、平安時代後期(12世紀)に再興されともいう。平安時代後期には天皇、公家が巡礼し、鎌倉時代-室町時代には、庶民にも広まった。江戸時代に最も盛んになる。周辺の伊勢神宮参り、熊野詣、善光寺参りとも結びついた。「三十三度行者」と呼ばれるのは、33所を33回も巡礼した人を意味した。御朱印、千社札の始まりにもなった。 当初、石山寺には22番札所が置かれた。その後、23番(『寺門高僧記』)、室町時代(15世紀)には現行の13番(『撮壌集』)になった。 ◆樹木 ◈「千年杉」は、ご神木の大木であり、草創期以来のものという。 ◈「良弁の杖桜」は、硅灰石の手前の右側にある。八重の山桜で、良弁の杖が根付いて育ったという。 ◈「三禁鈷の松」は瀬田川河畔にある。平安時代前期、811年、空海は42歳の厄年に3カ月間、石山寺に修行したという。空海ゆかりの松ということで三鈷の松といわれた。江戸時代の「東海道名所図会」(1797)にも描かれているという。 ◆花暦 石山寺は花の寺ともいわれている。 寒椿(1月)、梅林「薫の苑」の梅・蝋梅・水仙(2月)、雪柳・彼岸桜(3月)、桜(山桜、枝垂れ桜、染井吉野)・ツツジ(ミツバツツジ、キリシマツツジ)・椿・木蓮(4月)、参道両脇の樹齢200年の霧島つつじ・本堂下のシャガ群生(4月下旬-5月上旬)、藤・山吹・射干・牡丹(5月)、無憂園の花菖蒲・山ツツジ(6月)、百合(笹百合、鉄砲百合)(7月)、百日紅・金糸梅(8月)、夾竹桃(9月)、萩・金木犀・秋明菊(10月)、紅葉・紫式部(11月)、山茶花(12月)。 ◆鏡餅 迎春準備(12月30日)では、境内でついた餅を本尊などに供える。鏡餅は石山寺独特のものであり、釈迦の遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)の形を模している。本尊、脇侍用は餅(直径15cm)20個とみかん20個を交互に5段重ねる。その上に餅5個、橙、昆布、手前に串柿を飾る。 本堂以外の諸堂の鏡餅は、餅2段の上に昆布、串柿、みかんを載せる。 ◆年間行事 香水加持法要(0時から開門される。)(1月1日)、初詣・修正会大祈祷厳修)(1月1日-3日)、初内供(1月2日)、初開山(1月16日)、初観音・初牛玉さん(1月18日)、初弘法(1月21日)、初不動・護摩祈祷(不動明王の御宝前で護摩焚きがある。)(1月28日)、節分星祭り・護摩祈祷(2月3日)、常楽会(2月15日)、石山寺梅つくし(400本の梅花開花と盆梅展が催される。)(2月中旬-3月中旬)、大森社・初午(「大森稲荷初午祭」は、稲の神、田の神である鎮守の 大森稲荷大明神に豊作と商売繁盛を祈る。子ども神輿が練り新宮神社へ向かう。)(2月第4土曜日)、春季彼岸会先祖供養(開白・中日・結願)(3月彼岸)、春季「石山寺と紫式部」展 (3月18日-6月30日)、弘法大師御忌法要(正御影供の法要が御影堂で行われる。)(4月21日)、滋賀県大津の古刹石山寺・三井寺 あお若葉の競演(4月下旬-5月下旬)、石山祭り・三十八所権現社大祭(古来の神々-天智天皇を偲ぶ。大人神輿と子ども神輿が境内巡行する。)(5月5日)、お花祭り(釈迦の誕生を祝う。)(5月8日)、青鬼祭(朗澄は没後聖教を守るために鬼形となったという。青鬼が境内を練る。杉葉で作られた青鬼像前で、法要が行われる。)(5月第3日曜日)、琵琶湖祭(8月1日)、千日会法要・毘沙門おどり・石山寺花火大会(一日の参詣が千日の功徳を持つという。)(8月9日)、孟蘭盆会(8月13日-8月16日)、世界平和祈願法要(法要、鐘撞き。)(8月15日)、送り火法要(8月16日)、毘沙門会法要(8月26日)、秋季「石山寺と紫式部」展(9月1日-11月30日)、秋月祭(2000個の灯火が境内を彩る。「石山の秋月」の鑑賞。)(9月中秋の名月)、秋季彼岸会(9月大彼岸一週間)、あたら夜もみじ ライトアップ(11月中旬-11月下旬)、三十八社以下鎮守お火焚き(12月1日)、仏名会(12月6日-12月8日)、大森社お火焚き(12月8日)、大掃除(12月13日)、終観音(12月18日)、終弘法(12月21日)、正月用餅つき(12月26日)、終不動(12月28日)、迎春準備(12月30日)、大晦日・除夜の鐘(元旦の午前2時から先着108人が撞く。)(12月31日)。 牛玉さん(門前市)(毎月18日)、写経会(毎月第2日曜日) *年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。 *一部の建物内部の撮影禁止。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『古寺巡礼近江2 石山寺』、『石山寺の信仰と歴史』、『石山寺と近江の古寺』、『近江・若狭・越前寺院神社大事典』、『日本の絵巻 16 石山寺縁起』、『寺社建築の鑑賞基礎知識』、『事典 日本の名僧』、『スペンサーコレクション蔵 日本絵巻物抄 付 石山寺像』、『源氏物語の近江を歩く』、『おんなの史跡を歩く』、『社寺』、『京を彩った女たち』、『京都傑作美仏大全』、『京都の地名検証 3』 、『京都・湖南の芭蕉』、ウェブサイト「石山寺」、ウェブサイト「びわ湖大津歴史百科」、ウェブサイト「産經新聞 2021年3月21日付」、ウェブサイト「産經新聞2024年9月7日」ウェブサイト「恵比寿映画祭」 ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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