玉鳳院〔妙心寺〕 (京都市北区) 
Gyokuho-in Temple
玉鳳院 玉鳳院 
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左の玉鳳院禅宮(方丈)、開山堂(微笑庵)。








庫裏


庫裏の扁額「玉鳳院」



庫裏


庫裏、大瓶束


鐘楼


開山慧玄が、伊深(岐阜県美濃加茂市)に居た頃、田畑を耕す際に慣れ親しんだ牛が、入洛に際して慧玄が伊深を離れる時に涙を流し後を追ったという。この逸話に基づき、1959年、滋賀県安土町で見つかったという「牛石」が境内に奉納された。


方丈






向唐門


向唐門


開山堂(微笑庵)


「妙心寺型(玉鳳院型)」石塔


平唐門


平唐門、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の際の鏃痕がある
 妙心寺境内南東に位置する玉鳳院(ぎょくほういん)は、妙心寺発祥の地であり、山内で最も神聖な場所とされている。玉鳳禅宮とも呼ばれている。 
 臨済宗妙心寺派大本山妙心寺塔頭。
◆歴史年表 
鎌倉時代、この地に、第95代・花園天皇(1297-1348)の離宮(仁和寺花園御所)が営まれていた。
 1335年(1336年、妙心寺では1337年、1338年とも)、妙心寺が開創される。
 1337年、宗峰妙超は山号寺号を正法山妙心寺と命名する。その後亡くなる。
 1342年、開山・関山慧玄が入寺した。花園法皇の起居する禅宮御殿として、山内最古の塔頭・玉鳳院が建てられた。法皇は仁和寺花園御所を寄進する。
 1348年、花園法皇が亡くなり、その塔所となる。
 1351年、一時、妙心寺を出ていた関山慧玄が山内に戻る。
 1352年、花園法皇は「往年の宸翰」をしたため亡くなる。
 1360年、関山慧玄が亡くなり、玉鳳院内の微笑庵に葬られた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により玉鳳院は焼失する。
 1537年、現在の開山堂が東福寺より山内に移築された。
 1538年、開山堂が造立される。
 安土・桃山時代、1591年、3歳で夭逝した棄丸の葬儀が妙心寺で行われる。
 江戸時代、1610年、勅使門が新造された。平唐門が現在地に移されている。
 1656年、現在の方丈が建てられた。玉鳳院改築される。
 現代、1957年、開山堂の半解体修理が行われ、墨書、棟札などが見つかる。
◆関山慧玄 鎌倉時代-室町時代の臨済宗の僧・関山慧玄(かんざん えげん、1277?-1360)。国師号は本有円成ほか複数。信濃・高梨氏に生まれた。叔父・月谷に従う。1307年、鎌倉・建長寺で東伝士啓により受戒、建長寺・南浦紹明(大応国師)に師事し、恵眼の僧名を授けられた。その後、大徳寺の宗峰妙超(大灯国師)門弟となり、1329年、関山の号を受け、慧玄と改め、1330年、印可を得た。美濃国に退き、草庵に隠棲する。1337年、病となった妙超は、第95代・花園天皇の求めに応じ、後継に慧玄を推挙した。慧玄は固辞するが、やがて応じ妙心寺開山として迎えられた。
 最期は、旅に出るといい、旅装束姿で風水泉近くの大樹(松)にもたれた。弟子の授翁宗弼(そうひつ)に不立文字(ふりゅうもんじ)、教外(きょうげ)別伝の「応燈関一流」の禅の由来を諭し、立ったまま亡くなったという。禅の言葉に「坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)」があり、前者は坐禅をしたまま亡くなること、後者の立亡とは立ったまま涅槃に入ることをいう。生涯にわたり語録も頂相(肖像)も残すことを許さなかった。遺骸は艮(北東)隅に葬られ、微笑塔が建てられた。後に微笑庵と称し、開山堂となった。
◆花園天皇 鎌倉時代の第95代・花園天皇(はなぞの てんのう、1297-1348)。萩原法皇。第92代・伏見天皇の第3皇子。母は藤原季子(顕親門院)。第93代・後伏見天皇の異母弟。兄・後伏見天皇の猶子となり、1301年、皇太子、1308年、大覚寺統の第94代・後二条天皇の後に12歳で即位する。父、兄が院政をしいた。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立案(文保の和談)に従い、1318年、大覚寺統の第96代・後醍醐天皇に譲位した。伏見上皇とともに持明院殿に住した。退位後は光厳天皇の養育を行う。信心深く、1335年、円観により出家、遍行と称した。宗峰妙超、関山慧玄に帰依し、大徳寺を祈願所とした。花園の萩原殿(妙心寺・玉鳳院の旧地)に居した。学問を好み、宗学を修め、和歌は京極派の一人、『風雅和歌集』を自撰した。日記に重要な史料『花園天皇宸記』。墓は十楽院上陵(東山区)にある。
 妙心寺境内に玉鳳院を建て、毎日参禅したという。宗峰妙超に、興禅大燈(だいとう)国師の号を与えた。1337年、萩原殿を寄進し、関山慧玄を開山として妙心寺を開建した。1347年、妙心寺造営を願う「往年の宸翰」を関山慧玄に贈る。
◆豊臣鶴松 安土・桃山時代の豊臣鶴松(とよとみ つるまつ、1589-1591)。棄丸。父・豊臣秀吉と母・淀殿の長男として淀城で生まれた。秀吉は、生後4カ月で鶴松を大坂城に入れ、後継者に指名した。だが、1591年、発病し、3歳で亡くなる。秀吉は、東山に菩提寺の祥雲(禅)寺を建立する。棄丸の後見役・石河光重の兄が、妙心寺養徳院に住したことから、1591年、その葬儀が妙心寺で行われている。
◆南化玄興 安土桃山時代-江戸時代初期の臨済宗の僧・南化玄興(なんか げんこう、1538-1604)。美濃に生れた。妙心寺58世。諡号は定慧円明国師。邦叔宗禎、快川紹喜に師事し法を継いだ。美濃・瑞竜寺、尾張・妙興寺、豊臣秀吉の命により祥雲(禅)寺に住した。後陽成天皇などの崇敬をうけた。妙心寺内に、開基・一柳直末の大通院、稲葉貞通の智勝院、脇坂安治の隣華院が創建され各開山となる。
◆海山元珠 安土・桃山時代-江戸時代の僧・海山元珠(かいざん げんじゅ、生没年未詳)。詳細不明。南化玄興の弟子。祥雲禅寺の2世住持。弟子に鉄牛(1567-1615)。1614年、方広寺梵鐘銘事件の際に、五山僧の中でただ一人、徳川家康の言い掛りに対し、「愚にもつかない誤り」と発言した。1615年、豊臣家滅亡後、家康による豊国社、祥雲寺の破却が行われる。海山は、師・南化玄興とともに棄丸の木像を背負い、妙心寺に戻った。自坊「亀仙庵」に祥雲寺の祥雲を逆さにして雲祥院と変え、家康に無言の抵抗を続けたという。 
◆建築 西より、庫裏、方丈(玉鳳禅宮)、渡廊、開山堂(微笑庵、みしょうあん)(重文)が一直線上に建つ。渡廊の北に祥雲院殿霊屋(おたまや、棄君堂)が建つ。
 南北朝時代、1342年、花園上皇の起居する禅宮御殿として、山内最古の塔頭、玉鳳院が建てられた。法皇と関山はこの院内で問答を行い、禅の教えを深めたという。後に上皇の塔所になり、上皇法体像を安置した。だが、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により玉鳳院は焼失する。
 現在の「方丈」(重文)は、江戸時代、1656年に再建された。単層、入母屋造、檜皮葺、寝殿風(東・西・南の広縁外に落縁と高欄付、南・東に階段付)、桁行18.7m、梁行10.8m。内部は、西北に下間一の間、西南に下間二の間、正面南の室中、その北の仏間、その奥に拝所・昭堂、東北に上間(上段の間)の一の間、上間の二の間がある。上間一の間は、拈花室(ねんげしつ)とも称される。正面の「玉鳳禅宮」の扁額は、第102代・後花園天皇の宸筆による。中央奥の昭堂に、花園法皇の法体姿の木像が安置されている。前方下段の東側には、徳川家康、徳川家の位牌、西側に豊臣秀吉、織田信長、織田信忠、武田信玄などの位牌が安置されている。
 方丈東の「開山堂」(重文) は、「微笑庵(みしょうあん)」とも称され、山内でも最も神聖な場所とされている。南正面に扁額が掛る。東福寺より室町時代、1537年に移築され、1538年に造立された。創建はそれ以前の室町時代のものとみられ、山内現存最古の建物になっている。江戸時代、1793年に、内部の一部が改変されている。桁行3間、梁間4間。入母屋造、本瓦葺、一重禅宗様(花狭間唐戸、粽と礎盤の柱、出組の詰組、扇垂木、火頭窓、懸魚、虹梁大瓶束など)。天井は鏡天井、拝所の天井は格天井、小仏壇天井に円山応挙(1733-1795)の鳳凰の絵が描かれている。二手先詰組、床は四半敷の敷瓦。拝所、昭堂付近は、後世、江戸時代に改変されている。堂内には室町時代以来、常夜灯と常香盤が絶えることがないという。正面、拝所の奥の昭堂に、開山・関山慧玄の尊像が安置されている。
 「祥雲院殿霊屋(おたまや)」は、方丈と開山堂を繋ぐ渡廊の北に位置している。1591年棄丸(鶴松)没後、秀吉が石川伊賀守に命じて建立された。棄丸の法名は「祥雲院殿玉巌公神童」。禅宗様建築(3m四方)で南面している。礎盤付円柱、正面花狭間に両開桟唐戸、床は四半瓦敷、鏡天井。桁行1間、梁行1間、一重入母屋造、妻入、こけら葺。棄丸(鶴松)の彩色木像が安置されている。
 開山堂南前に南面して南北朝時代の「平唐門」 (重文)がある。四脚門で唐破風(一木彫成)が左右(東西)に付いている。檜皮葺。破風板、懸魚、桁隠し、梁、冠木、蟇股などは創建当初のものという。腕木端に桁なく茅負を直接支持する。控柱がなく不安定なため、後補により北側に支柱が付けられた。梁上に輪垂木、その上に木舞。室町時代、1409年、北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇により御所の南門が移された。移築後の当初は勅使門として使い、江戸時代、1610年に現在地に移された。かつては西面していた。応仁・文明の乱(1467-1477)でも焼失を免れた唯一の建物という。門の柱、板に戦乱の際の鏃跡が複数残されている。現存最古の平唐門の例になる。
 方丈南前に、唐破風屋根が前後(南北)に付く「向唐門」がある。江戸時代、寛文年間(1661-1673)建立という。大坂の淀屋辰五郎の寄進によるという。
 「経蔵」(重文)は、江戸時代、1673年に創建された。桁行1間、梁間1間、一重裳階付、二重屋根本瓦葺。 
 境内西にある「鐘楼」の銅鐘は、江戸時代、1610年に鋳造された。
◆仏像・木像 開山堂の拝所奥の昭堂(亨堂)に、開山・「無相大師(関山慧玄)」を安置する。
 方丈の奥、昭堂に、「花園法皇の法体姿の木像」が安置されている。
 祥雲院殿霊屋(おたまや)に、「棄丸(鶴松)の彩色木像」が安置されている。江戸時代、1615年の豊臣家滅亡後、祥雲(禅)寺は、智積院日誉に下げ渡された。祥雲寺住職の海山は、師・南化玄興とともに棄丸の木像(遺骨とも)を自ら背負い、妙心寺に戻ったという。山内の亀仙庵を雲祥院と改め、家康に無言の抵抗を続けたという。
◆文化財 方丈の襖絵は、伝・狩野益信(洞雲、1625-1694)筆の金地着色「秋草図」。また、伝・狩野安信(永信、1614-1685)筆の「麒麟図」「花鳥図」「竜虎図」「山水図」「牡丹図」。ほかに作者不詳の「桐鳳凰図」がある。
 棄丸愛用玩具 (重文) の「木造玩具船、「守り刀、「小型武具」などがある。
◆庭園 庭園(国の史跡、名勝)(130坪)は、「南庭」、「鶏足嶺(けいそくれい、山岳の庭)」、「風水泉の庭」と3つの庭があり、いずれも江戸時代初期に作庭された。その後、江戸時代、1656年に手が加えられたとみられている。ただ、安土・桃山時代の様式をいまも残している。
 「南庭」は、方丈と開山堂の南に広がる白砂敷の枯山水式庭園になる。江戸時代の『都林泉名勝図会 巻四』(1799)にも記され、現在とほぼ変わらない。白砂に切石の敷石道(延段)が直線的に置かれている。
 庭面には、長形に盛り上げた低い白砂の砂壇が南北に列をなしている。また、南と西の三つの門と伽藍間を、東西南北に直線、鉤状に繋ぐ切石の延段が配置された幾何学的な構図になっている。切石で区切られた面には、横と縦の砂紋が描かれている。高塀近くに植えられた五葉松の幹下は波紋、黒松の幹下は、菊水が砂紋で描かれる。東端の開山堂前に、「妙心寺型(玉鳳院型)」という独特の石塔が2基立ち、その間に延段が門まで延びている。その東端に蘇鉄の植栽がある。
 「風水泉」の庭は、方丈と開山堂とを結ぶ渡廊の北側にある。四方を建物で囲まれた苔地の中庭になっており、蓬来式と須弥山様式とを併せた枯山水庭園になる。江戸時代、1656年に一部改修されている。
 庭の北に安土・桃山時代初期の豪快な石組、滝組、蓬莱石の石が組まれ、中央の巨石を中心として円状に石が据えられている。苔地に据えられた自然石の飛石は、玉鳳院形手水鉢と井戸「風水泉」の間より、北東の祥雲院殿霊屋に続く。飛石は時に二石が並べられ、右に緩やかな曲線を描く。須弥山を表すものともいう。奥の石組の間に植栽がある。
 開山・無相大師(関山慧玄)は庭の南端に当時生えていた松の傍らで立ったまま亡くなったという逸話がある。現在ある手前の井戸「風水泉」付近という。ただ、井桁は後世に造られた。井戸は風水、墓標の意味も合わせるという。庭の手前左に据えられている玉鳳院形手水鉢は円筒形で、基礎は蓮葉に刻まれている。棗(なつめ)型手水鉢になる。
 開山堂の東に、高い築山が築かれている。山には景石群を配した石組、苔地に植栽の庭になっている。江戸時代の作庭による。庭面を上から見ると3本の鶏の足形に見えるという。
 築山は、古代インドマガダ国の仏跡の鶏足山(ククタパダ山)にみたて「鶏足嶺(けいそくれい)」といわれる。鶏足山には、釈迦弟子の迦葉が入寂した鶏足洞がある。
◆石塔 堂前に「妙心寺型」という石塔が2基立つ。四角の基礎に六角の棹が大きく膨らんでいる。火袋は四角、笠には大ぶりの蓮単弁が刻まれている。近世(安土・桃山時代-江戸時代)作という。
◆拈華微笑 微笑庵(みしょうあん)の微笑とは、拈華微笑(ねんげみしょう)の故事に由来している。互いに言葉を使わずに通じ、理解しあう境地、感覚、以心伝心をいう。
 釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で弟子たちに仏法を説いた。釈迦は、黙って大梵天王から受けたという金波羅華(こんぱらげ、金色の蓮花)を捻って微笑んだ。それに対してただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけが破顔微笑した。
 摩訶釈迦は悟りの意味について言葉で表現することは不可能であることを示した。迦葉はそのことを理解した。釈迦は、摩訶釈迦だけに仏法の真理を授けたという。
 釈迦は「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微笑の法門あり、いま摩訶迦葉に付属す」と語った。この言葉に因み、宗峰妙超が妙心寺の山号を「正法山」、寺号は「妙心寺」とした。さらに、逸話中の梵天を花園法皇とし、花園離宮を金波羅華の一枝、摩訶迦葉は関山慧玄、自らを釈尊に譬えたという。
 この「妙心」とは、喜怒哀楽の波に揺り動かされない、根源的本質的な心であるといわれている。
◆墓 開山堂の東北隅築山の下に、武田信玄(1521-1573)、武田三武将の信玄4男・武田勝頼(1546-1582)、勝頼の子・武田信勝(1567-1582)、武田信繁の次男で信玄の甥の武田信豊(1549-1582)の4基の五輪石塔が並んで立つ。
 信玄は、1573年、上洛の途中、遠江の三方ヶ原で徳川軍を破った後に信州伊那で病死した。信玄は関山派に篤く帰依していたことから、妙心寺に分骨され、供養塔が建てられたという。
 後の1582年4月、織田政権に追われた武田氏第20代当主・武田勝頼らは、天目山(木賊山、とくさやま)麓で自害し甲斐武田氏は滅亡した。勝頼、信豊らの首級は長谷川宗仁により京都に送られ、一条通の辻に晒された。武田家と関わりある妙心寺の南化和尚がその首を譲り受け、信玄供養塔の隣に葬ったという。なお、甲斐の法泉寺第3世・快岳禅師がこの首を譲り受け、甲斐に戻ったともいう。また、歯髪をもらい請け、法泉寺に葬ったともいう。
 北隣に、甲斐武田氏を滅亡させた織田信長の墓が並んで立つ。武田勝頼らの没後直後、1582年7月、本能寺の変で自害した織田信長(1534-1582)、その嫡男・織田信忠(1557-1582)の五輪塔2基がある。玉鳳院は、信長の乳母・養徳院(1515-1608)の菩提寺だったともいう。信長の墓は京都ではほかに、阿弥陀寺、大雲院、大徳寺総見院にある。
◆年間行事 開山忌(毎歳忌)(12月11日-12日)、月例開山忌(毎月11日、12日)。
 12月11日には、法堂に開山尊像が祀られ、宿忌といわれる法会が執り行われる。12日は、開山堂で献粥の法会が行われる。参加者は、道具衣、九条袈裟、頭に烏帽子の姿で出仕する。その後、大方丈に移し、虚堂禅師、大応国師、大燈国師の尊像が祀られた中で、八つ頭という16人の僧により精進料理が相伴、供される。


*普段は一般には非公開。
*「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*建物、建物内部、庭園は撮影禁止。
*参考文献 『よくわかる 妙心寺 禅のこころ』『拝観の手引』『旧版 古寺巡礼京都 妙心寺』『京都古社寺辞典』『妙心寺史』『妙心寺 650年の歩み』『古寺巡礼京都 妙心寺』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『庭を読み解く』『事典 日本の名僧』『京都秘蔵の庭』

 
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 玉鳳院  〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町1  075-461-5226 

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