東北院 (京都市左京区) 
Tohoku-in Temple
東北院  東北院
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「軒端の梅」


「軒端の梅」


 東北院(とうほくいん)は真如堂の北西にある。寺地は幾度か移転しているが、境内には平安時代中期の歌人・和泉式部の手植えと伝えられる梅の木がある。山号は雲水山という。
 時宗、本尊は弁財天。 
 かつて、京二十九ヶ所弁財天回り第3番。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、782年、第50代・桓武天皇は、鎮護国家の守護神について問い、伝教大師は大弁財天であるとした。そのため勅により大弁財天を彫刻し、禁裏の北東(艮)に祀ったという。(寺伝)
 1030年、第66代・一条天皇中宮・上東門院彰子の発願により、父・藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)内に建立された三昧堂(ざんまいどう、常行堂)を前身とする。堂内には金色の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像、また竜頭菩薩、妙法蓮華経1000部、12体の神像が安置されていた。(『扶桑略記』)。法城寺北東(一条末路南京極大路東、上京区)に位置したことから、東北院と呼ばれた。文殊堂、千手堂、多くの堂舎、池畔には滝殿が建てられた。当初は天台宗だった。同年、道長は天台座主・慶命を開山とし、雲水山東北御所法成寺の勅称、寺領を贈られ創建された。大弁財天を遷座し安置したという。(寺伝)
 1032年、落慶供養が行われている。
 1040年、内裏炎上の際には仮御所となる。(寺伝)
 1050年、第70代・後冷泉天皇が行幸し、母儀仙院(藤原嬉子?)を訪れた。(『百練(錬)抄』)
 1058年、法成寺の火災により類焼する。
 1059年、法成寺北の泉石地に再建され、後冷泉天皇が行幸したともいう。
 1062年、法成寺北の泉石地を卜して再興ともいう。(『百練(錬)抄』)
 1064年、内裏炎上に伴い仮御所になる。(寺伝)。後冷泉天皇が行幸する。この頃、上京区北之辺町付近にあり、桜、梅の名所としても知られていた。(『散木奇歌集』)
 1171年、護摩堂、不断経所などを残して焼失する。仏像、経典は西北院に遷される。また、焼失し、東京極今出川の地に移るともいう。(寺伝)。九条兼実は大いに嘆く。
 1172年、再建され、落慶になる。丈六の阿弥陀像が安置された。
 鎌倉時代、1214年、九重の人々による連歌、職人歌会が催される。
 1231年、全国、京都の飢餓により餓死者の遺骸が運び込まれ、腐臭に満ちたという。(『明月記』)
 1305年、東北院領は34か所にのぼった。
 室町時代、千手堂のみを残して荒廃する。その後、院号のみが残された。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により炎上し、荒廃する。
 1559年、時宗の一遍の遺弟・弥阿弥陀仏が復興し、天台宗より時宗に改宗したともいう。
 1570年、兵火により焼失する。その後、第106代・正親町天皇(在位1557-1586)、第107代・後陽成天皇(在位1586- 1611)の綸旨により勧化し再建される。(寺伝)
 天正年間(1573-1593)、豊臣秀吉は寺領6石を与えた。
 江戸時代、1684年、時宗になるともいう。(寺伝)
 1692年、蘆山寺辺(上京区北之辺町、寺町通今出川下る東側)にあり、荒廃した。類焼する。(寺伝)
 1693年、寺町の火災による真如堂移転に伴い、その北東の地(現在地)に移転したともいう。「四軒寺(よんけんでら)」の迎称寺、大興寺、極楽寺も共に移る。時宗の藤沢・遊行寺末になるともいう。また、江戸時代中期、真如堂北西の現在地に移るともいう。
 1770年、現在の建物である安津宮御所を移したという。(寺伝)
◆上東門院 平安時代後期の第66代・一条天皇中宮・上東門院(じょうとう もんいん、988-1074)。藤原道長と源倫子の子。彰子と称した。999年、入内、1000年、中宮。道長の一帝二后への介入により中宮定子(1001年死去)とともに史上初の皇后並立となる。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)を出産。1009年、藤原伊周らによる中宮と親王が呪詛される事件が起こる。敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を出産した。1011年、一条上皇が死亡し、1012年、皇太后になった。1018年、後一条天皇元服により太皇太后となり後見をする。1022年、仁和寺に観音院を建立、1026年、出家し上東門院と号した。1037年、前年に亡くなった後一条天皇の火葬所に菩提樹院を建立した。1039年、法成寺で剃髪、受戒した。
◆和泉式部 平安時代の歌人・和泉式部(いずみ しきぶ、978/974?-1014?)。父は越前守・大江雅致、母は越中守・平保衡の娘。美貌と歌才に恵まれ、第63代・冷泉天皇の皇后・昌子に女房として仕える。20歳頃、官人・橘道貞と結婚、999年、夫が和泉守となり、娘で歌人・小式部内侍を産む。夫の任国、父の官名により「和泉式部」と呼ばれた。冷泉天皇の第3皇子・弾正宮為尊親王の寵愛を受けた。1002年、為尊親王が亡くなる。24、25歳で、夫の心離れから別居し、親から勘当された。1003年、為尊親王の同母弟・帥宮(そちのみや)敦道親王に寵愛される。その邸に迎えられ、正妃・北の方は屋敷を去る。敦道親王との間の子・永覚、1007年、敦道親王も相次いで喪う。寛弘末年(1008-1011)、一条天皇の中宮彰子に女房として出仕する。藤原道長の計らいにより、33歳頃、丹後の守・公家・藤原保昌と再婚した。1025年、娘・小式部内侍を喪う。1036年、夫も喪う。後、出家、専意と称した。東北院内の小御堂に住し、朝夕に本尊・阿弥陀如来を詣でたという。
 『拾遺集』に多数入集、敦道親王との恋を記した『和泉式部日記』、和歌『和泉式部集』などがある。中古三十六歌仙の一人。
◆仏像・木像 本堂安置の本尊に、最澄(767-822)作といわれる弁財天(70㎝)が安置されている。脇侍に毘沙門天、摩迦羅天がある。
 藤原道長像がある。
◆法成寺
 平安時代、1020年、藤原道長は浄土信仰に傾倒し、奈良東大寺を模して阿弥陀堂の建築を始め、2年後に堂舎が完成した。その場所は、平安京の東京極通(寺町通)を挟んで、道長の土御門第(上東門第、 京極第)の東に位置した。当初の寺域は2町四方(218m)だったが、後に東西2町、南北3町(327m)に拡大された。北は広小路通、東は鴨川西、西は京都御所東、南は荒神口通南を占める大寺院だった。
 金堂、薬師堂、釈迦堂、五重塔など多くの伽藍が建てられていた。平安京外の東一帯に位置したため北東院と呼ばれた。境内東の鴨川から伽藍を望む姿は、宇治川から見る平等院の原型になったといわれている。1058年、大火により焼失する。その後、子・頼通(992-1074)、孫・師実(1042-1101)により再興される。1185年の大地震により被災する。鎌倉時代、1219年に全焼しその後廃絶した。
◆門跡 2代より27代まで門跡寺院となるという。
◆軒端の梅 平安時代中期の歌人・和泉式部(978-?)手植えの後継木ともいう梅の木がある。式部は、晩年に東北院内の一角の小御堂に住したという。
 室町時代には紅梅の梅があったという。室町時代の世阿弥(1363? -1443)作の謡曲「東北(とうぼく)」(古名は「東北院」)に謡われた「軒端の梅(のきばのうめ)」ともいう。また、鶯宿梅ともいう。
 東国よりの旅の僧が東北院を訪れると、境内に梅の花が咲いていた。梅の由来を尋ねると、和泉式部の手植えの梅という。僧は感じ入り、法華経を唱え供養した。朧月夜の闇より和泉式部の霊が現れた。霊は東北院での昔日の思い出を語り始める。歌によって得た仏道を語り、やがて霊は消えた。僧が夢から目覚めると、辺りには仄かに梅の残り香のみがあったという。
◆文化財 本堂に江戸時代の後西院(第111代、1638-1685)宸筆という「東北院」の扁額がある。
 製作年代不詳の藤原道長像は、衣冠束帯姿をしている。
◆歌 紫式部に詞書「東北院の渡殿を見てよみ侍りける」として、「影見ても憂きわが涙落ち添ひてかごとがましき滝の音かな」(『続後撰集』、巻16、雑歌上)がある。
◆雲井水 境内の池泉を「雲井水(くもみずのい、雲井ノ水)」という。弁財天守護の水であり、悪鬼邪魅の災いを祓うという。寺地は移転を繰り返し、弁財天の御加護により各所で湧水したという。
 なお、当院の旧地、廬山寺(ろざんじ、上京区)境内には、古井戸「雲井ノ水」がある。
◆墓 藤原道長、和泉式部の供養塔という宝篋印塔が立つ。
◆年間行事 節分会(艮のお礼を発行する。)(2月3日)。


*普段は非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都府の歴史散歩 中』『京都歴史案内』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』


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平安時代、1057年頃の法成寺の復元予想図、東北院は右上隅にある。
 東北院 〒606-8414  京都市左京区吉田神楽岡町 
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