深泥池 (京都市北区)
Midorogaike Pond
深泥池 深泥池 
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深泥池




ジュンサイ




「深泥池生物群集」の碑





「名を聞けば かげだに見えじ 深泥池 すむ水鳥の あるぞあやしき」和泉式部



白いカキツバタ、5月下旬


秋の日、池の除草を行うボランティア








ヒメコウホネ


白いカキツバタ


周囲の里山、アカマツ、アベマキ、コナラ、コバノミツバツツジ、ミヤマウメモドキ、ハンノキなどの森


池を周回する森の小道
 深泥池(みぞろがいけ/みどろがいけ)は、京都市内の北部、住宅地の中にある。三方をケシ山、高山、西山など標高百数十m程度の低山で囲まれている。池の中央に浮島があり、南に開水域がある。
 池の底に、泥が深く積み重なっていることからこの名がついた。池は、氷河期から続く貴重な湿原池になっている。北方寒冷地と南方温暖地の動植物、菌類植生が混在しており、「天然の古墳」といわれている。
◆歴史年表 いまから10数万年前、池は形成された。
 古墳時代、北にある御菩薩坂に、円墳の本山古墳群、ケシ山古墳群がある。
 飛鳥時代以来、北の山に、須恵器、瓦などの窯跡も見つかっている。
 この地は、古くより上賀茂神社の領地になっていた。
 古代(奈良時代-平安時代)、用水のために築造されたという。 (『愛宕村志』)
 平安時代、829年、菅原道真の編した「丙辰天皇幸泥濘池、羅猟水禽池」とある。第53代・淳和天皇が幸し水鳥を狩猟した。文献初出になる。(『類聚国史』)
 1018年、「美度呂池」と記されている。(『小右記』)
 1157年、深泥池の旧鞍馬街道沿いには、京の六地蔵の一つ御菩薩池(みどろいけ)地蔵が祀られていた。
 1178年、「美土呂坂」とあり、池に因む名とみられる。(『山槐記』)
 1180年頃、「御菩薩池(みどろいけ)」と記されている。(『梁塵秘抄』)
 1186年、後白河法皇(第77代)は街道を辿り桧峠(深泥坂)へ向かった。
 室町時代、1428年、足利義教の不吉な夢に池より虹立ち、口に入れたという。(『建内記』)
 1469年、「美曽呂池」と記されている。 (『親長卿記』)
 1490年、鞍馬詣に際して、三曾露池の北の六菩薩堂(地蔵堂)で輿を卸したと記されている。(『蔭凉軒日録』)
 室町時代後期、この地への入植が始まる。関所「美曾呂池関」も設けられていた。
 安土・桃山時代、「洛中洛外図」(上杉本)などにも記されている。
 1582年、仏菩提池の自生している河骨(こうほね)について記されている。(『言継卿記』)
 江戸時代、1676年、六地蔵詣で美曽呂池地蔵について記されている。 (『日次紀事』)
 1754年、「御菩薩池」と記されている。(『山城名跡巡行誌』)
 近代、1889年、深泥池村が成立した。
 1927年、深泥池植物群落として国の天然記念物に指定された。
 現代、1965年以来、市民団体「深泥池を美しくする会」の保護活動が続けられている。
 1970年代、外来種のナガバオモダカ、コカナダモ、キショウブ、アメリカセンダングサなどが池に侵入した。
 1988年、動植物菌類すべての生物を含んだ深泥池生物群集に拡大変更になる。
 1990年、池沿いでの道路拡張計画が明らかになり論議を呼ぶ。
 1997年、京都市が池を買い上げた。
 1998年以来、外来魚の調査捕獲をする「深泥池水生動物研究会」の活動が続いている。
◆池の概要 池は約10数万年前に形成された。1万年前より湿地になる。数千年前、鴨川の氾濫により、自然堤防が形成される。1500年前、人工の堤が築かれ、用水池としても利用された。
 池の周囲は1.5㎞、長径は450m、短径は250m、面積は9万7841.2㎡、海抜は75mある。現在の水深は2.3mで泥土層になる。池の東に高山(標高176.6m)、南に西山(標高133m)などがある。池に流入、流出する河川はなく、雨水、地下水により水は補充されている。水は酸性で冷たく、栄養分に乏しい。冬期、降雨により満水になると、南より流れ出ている。
 池の周囲、最下底部には堅いチャートの岩盤があり、擂鉢状になっている。ここに、ミズゴケなどが分解せずに堆積した泥炭層の堆積物がある。最深部は10数万年前のもので、深さは17.4m近くあるとみられている。
 深部には2万年前の谷跡があり、この上の周囲に埋没した低位段丘が見られる。さらにこの上に、各年代の火山灰(2.6万年前-6300年前)、鴨川扇状地の堆積物が層を成している。その最上部に水深2m以内の池があり、浮島が浮かんでいる。浮島には各所に「穴」が開いているという。
 池の周囲には山麓より流入した混合層(角い石、粘土)が見られる。さらに、周囲の一部には、人工的な埋立、盛土、堤工事なども行われている。
◆池の伝承・物語 深泥池(みどろいけ)とは、本来は「泥水の深い池」を意味した。水(みず)、泥(とろ/どろ)であり、水の澱む処、湿田も意味した。
 池の異名の御菩薩池についての由来は諸説ある。①かつて池中より地蔵菩薩が出現し、六地蔵の一つになる。以来、御菩薩池と呼ばれたともいう。 (『洛陽十二社霊験記』『山城名跡志』)。②奈良時代の僧・行基(668-749)がこの地で修法をした時、池上に弥勒菩薩が出現したという。このため、池は「御菩薩池」、「仏菩薩池」とも称された。(『京羽二重』『出来斎京土産』)。③賀茂東南に地蔵堂があり、安置されていた弥勒菩薩の弥勒を誤り御菩薩池になったともいう。(『扶桑京華志』)。
 「美曾呂池」、「三曾露池」、「泥濘池」、「美度呂池」、「美美度呂池」、「御泥池」などとも記された。
 鞍馬の毘沙門天が、この地を荒らす鬼神を退散させたという伝承もある。「美曽路池」の端、方丈穴に棲んでいた。(「壒嚢鈔(あいのうしょう)」)。
 平安時代後期の『今昔物語集』十九「鴨雌見雄死所来出家人語」には、貧しい生侍の夫が、産後の妻のために「美々度呂池(美度呂池)」で鴨猟をする話がある。夫は番の鴨の雄を弓で射た。日が暮れ、夫は家路に着いて、翌朝に調理しようと寝入る。夜半、死んだはずの鴨が動いているような気がして夫は目覚めた。火を灯すと、掛けられた死んだ雄の近くに雌の鴨がおり、寄り添い羽ばたいていた。雌は射られた雄を偲び、自らの命を惜しまずに夫の跡を追ってきた。夫に仏道心が起こり、寝ていた妻を起こして番の鴨の様子を見させた。夫婦は、夜が明けても鴨を食べることはなかったという。その後、夫は愛宕山で出家したという。
 謡曲「鉄輪(かなわ)」にも「通ひなれたる道の末、夜も糺のかはらぬは、思に沈む御泥池、生けるかひなき憂き身の、消えんほどとや草深き、市原野辺の露分けて、月遅き夜の鞍馬川、橋を過ぐれば程もなく、貴船の宮に着きにけり。」とある。夜の貴船詣にも、この池脇の道が使われていた。
 中世の『ささやき竹』には、資産家の左衛門尉が、鞍馬多聞天に祈願して美しい娘を授かる話がある。娘が14歳になった時、良縁のために鞍馬の西光坊僧正が呼ばれ祈祷させた。だが、僧正は娘の美しさに心奪われ、拐し密かに娘を長櫃に入れて鞍馬に送ろうと謀る。櫃を運ぶ人足と監督の男3人は、途中の「みどろいけ」付近で泥酔してしまう。鞍馬詣の帰りに偶然に通りかかった二条の関白殿は、一味と出遭う。櫃の中に人の気配がしたため、娘を救い出した。関白殿は櫃の中に、娘に代わり野飼いの牛を入れた。鞍馬まで運ばれた櫃からは、牛が飛び出して大騒ぎになった。この伝承は、変化を付けていくつかの類話が残されている。
 室町時代の『建内記』によれば、足利義教に不吉な夢があった。深泥池より虹が立ち、義教はそれを口に入れたという。占いによると、義教は短命に終わり、100日内に兵乱があるという。泰山府君を行うなど騒ぎになったという。
 江戸時代の『雍州府志』には、池畔で禁裏の車を牽くための牛が飼われていたことを記している。
 江戸時代の『山城名所寺社物語』では、池上で弓を射る者があり、力を試した。その後は、三十三間堂に場所を移したという。
 江戸時代の『京師巡覧集』では、池穴に棲む鬼神の藍婆、惣主が都へ乱入しようとした。毘沙門天が現れ、豆を炒り鬼の目を打ち、鯉を焼き串刺しにして門前に刺し災難を逃れた。これが節分の夜の慣習になったという。
◆文学 平安時代中期、「名を聞けば影だに見えじみどろ池」と詠まれた。 (『和泉式部続集』) 
 池の畔に貴船、鞍馬に向かう道が通じている。平安時代末期の『梁塵秘抄』巻2にも、「いずれか貴船へ参る道、賀茂川 、みのさと(箕里)、御菩薩池(みどろいけ)、御菩薩坂、畑板(はたいだ)、篠坂や一二の橋、山河さらさら岩枕(いはまくら) 」とある。
◆六地蔵巡り 平安時代、1157年、深泥池の旧鞍馬街道沿いには、京の六地蔵の一つ「御菩薩池地蔵」が安置されていた。謀反により平清盛に処された西光法師(?-1177)が建立した地蔵堂の一つであるという。菩薩は、近代、1868年の神仏分離令により、鞍馬口の上善寺に遷された。この地が、上賀茂神社の領地だったことによる。いまも「深泥池地蔵(鞍馬口地蔵)」として安置されている。その後、地蔵を失ったこの地で疫病が流行り、再び2代目の地蔵尊が地蔵堂に安置された。
 六地蔵巡りは8月22日、23日の両日に、洛外6寺の地蔵尊を巡る。六地蔵とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」の六道に迷い苦しむ衆生のために発願されたものという。
 由来、場所については諸説あり、変遷も見られる。平安時代初期、小野篁(802-853)は、冥土で生身の地蔵菩薩に出逢い、その教えにより蘇生した。852年、篁は、木幡山の桜の大木より6体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したとされる。(『都名所図会』)
 1157年、保元年間(1156-1159)、都で疫病が流行した際に、第77代・後白河天皇は、都の出入り口に6体の地蔵尊を祀るように平清盛に命じた。西光法師(?-1177)が、京洛の街道口6か所(七道の辻とも)毎に、地蔵菩薩を造ったという。卒塔婆の上に道場を建て、像を安置し「廻り地蔵」と名付けて供養した。地蔵尊に、疫病退散、都往来の路上安全、福来結縁の祈願が行われ、法師は廻地蔵と名付けたという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」。『六地蔵縁起』、大善寺、 江戸時代、1665年)。
 地蔵尊が置かれた場所は、四ノ宮河原(東海道、三条口)、小幡の里(伏見街道、五条橋口)、造道(つくりみち、鳥羽街道、東寺口)、西七条(西国街道、丹波口)、蓮台野(丹波街道、長坂口)、深泥池(みぞろいけ、鞍馬街道、鞍馬口)、西坂本(敦賀街道、大原口)だったという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」)
 室町時代、七道の辻は、西院、壬生、八田(やだ)、屋根葺、清和院、正親町(おおぎまち)、西洞院に置かれた。
 江戸時代、6所にそれぞれ六角円堂を建て、地蔵菩薩を安置したという。場所は、四ノ宮河原、六地蔵の里、上鳥羽、御菩薩(みぞろ、深泥池)、桂の里、常盤院になる。寛永年間(1661-1673)、ほぼ現在の六地蔵巡り、6か寺になる。
 昭和期(1926-1989)初期、六地蔵会が発足し、現在の六色の札(お幡)が生まれた。参詣者は、各寺の六色の札を玄関に吊るし、1年間の疫病退散、家内安全、福徳招来の護符にする。初盆には水塔婆供養し、3年間巡拝すると六道の苦を免れるとされた。
 現在は、1番-大善寺(伏見六地蔵、奈良街道)。2番-浄禅寺(鳥羽地蔵、西国街道・上鳥羽)。3番-地蔵寺(桂地蔵、丹波街道)。4番-源光寺(常盤地蔵、周山街道)。5番-上善寺(鞍馬口地蔵、若狭街道・鞍馬口通)。6番-徳林庵(山科地蔵、東海道・四ノ宮)になる。いずれも旧街道口に当る。
 かつて六地蔵巡りでは、地蔵尊を背負い、六斎念仏、賽の河原地蔵和讃などを唱えながら廻ったという。大善寺の地蔵尊は6所に安置された地蔵尊の根本像になり、寺号も六地蔵と呼ばれるようになる。なお、智恵光院(上京区)地蔵堂に安置されている丈六の六臂(ろっぴ)地蔵像は、京都の六地蔵尊すべてを巡礼するのと同じ功徳があるといわれている。
◆池の歴史・植生・生態 温帯でありながら高層湿原の植物がみられる。ハリミズゴケやオオミズゴケの遺体が堆積して形成された浮島が、池の3分の1を占める。浮島はメタンガスの発生により夏期は浮上し、冬期には沈降する。浮島にはヌマガヤ、イヌノハナヒゲ属、モウセンゴケなども見られる。
 浮島・浮島の北側に広がる浮島外縁帯には、さまざまな植物が自生する。リス氷期からの生き残りの貴重な植物種、北方系の最南限植生のホロムイソウ(属は一種のみ)は、1973年に宮本水文により発見された。アカヤバネゴケ、ケスジヤバネゴケなどが見られる。ウルム氷河期の生き残りのミツガシワの大群落(開花期4月)、白色のカキツバタ(開花期5月)、ハナショウブ、ラン科の紅紫色のトキソウ(開花期5月)、青紫色のサワギキョウ(開花期9月)、ジュンサイ、ヒメコウホネ(開花期6-8月)、ヒシなどの水生植物、モウセンゴケ、タヌキモなどの食虫植物、南限貴種のミヤマウメモドキなどがある。浮葉植物のガガブタは絶滅した。
 外来種として1970年代にはナガバオモダカ、コカナダモ、キショウブ、アメリカセンダングサなども侵入した。
 トンボ62種、クモ200種、ウルム氷期の生き残り北方系のミズグモ・ハナダカマガリモンヒメハナアブ、ネクイハムシ、アメンボ、ハッチョウトンボなどのさまざまな昆虫、魚類6種、野鳥160種も見られ、関西有数の探鳥池としても知られる。プランクトンの種類も多い。
 周辺の山に、アセビ、コバノミツバツツジ、アクシバ、イワナシ、ミヤマウメモドキなどが見られる。
◆保護活動 1927年に、深泥池植物群落として国の天然記念物に指定された。1988年、動植物菌類すべての生物を含んだ深泥池生物群集に拡大変更になっている。なお、1990年、池沿いでの道路拡張計画が明らかになり論議を呼んだ。1997年に京都市が池を買い上げている。
 深泥池は、水生生物(ミズグモ、水生植物等)が群生し、カモ等の水鳥の飛来するとして京都府の「京都の自然200選」に選定された。
 池の水は、湧水と雨水によって保たれてきた。現在、水を供給する集水域が減少しつつある。生活廃水、水道水の流入、道路建設、外来種混入などにより、池の生態系に変化が生じ、すでに絶滅した種もある。このため、池の環境保全、生物の保護、調査活動などが続けられている。
 1965年以来、市民団体「深泥池を美しくする会」の地道な活動も続く。1998年に、外来魚の調査捕獲をする「深泥池水生動物研究会」(その後、「深泥池水生植物研究会」と合流し「深泥池水生生物研究会」に改称)の活動も続いている。
◆ジュンサイ 京料理に使われるジュンサイは、平安時代には「ぬなは」「奴奈波、ぬなわ」と呼ばれ、すでに食用にされていた。江戸時代には、大沢池、広沢池、伏見池(巨椋池)で収穫された。近世以降、深泥池も産地として知られる。北大路魯山人(1883-1959)が「飛び切りである」と深泥池産を絶賛したことから全国に知られるようになる。
 二本の丸太を池に浮かべ、その上にたらいを載せた「筏」に蓑笠の人が入って、3mほどの柄の先の鎌で収穫した。その後、池の水の富栄養化により、1965年頃に中止されている。
◆河骨 池では河骨(こうぼね)も産した。スイレン科で黄色い花が咲く。根茎が白く、骨のように見えるためこの名がついた。根茎の「川骨(せんこつ)」は漢方薬として、止血剤、浄血剤、強壮剤として使われたという。  
◆御菩薩池焼 周辺に、京焼の初めとされる「御菩薩池焼」も行われていたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『国の天然記念物 深泥池 大都市の中に』『京都深泥池 氷期からの自然』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都府の歴史散歩 上』『京都大事典』『洛東探訪』『京都市の地名』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』『古代地名を歩くⅡ』『週刊 京都を歩く 42 上賀茂・岩倉』『京のしあわせめぐり55』


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