青蓮院 (京都市東山区)
 
Shoren-in Temple 
青蓮院 青蓮院
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「親鸞聖人得度聖地 青蓮院門跡」の石標


御幸門(四脚門)


御幸門を境内から見る。


「史蹟 青蓮院旧仮御所」の石標


大玄関(車寄せ)



長屋門


クスノキ、境内に巨木は5本あり、樹齢は800年。







薬医門


薬医門


薬医門





大玄関北面


療病院址の石標、大玄関の北西隅




枯山水式の庭


寺務所


華頂殿


華頂殿


華頂殿


華頂殿(客殿、白書院)、内部の襖絵は、木村英輝(1942-)筆「蓮-青の幻想」60面。2005年の作品。




華頂殿、相阿弥の庭


華頂殿、手水鉢


相阿弥の庭華頂殿南に広がる。


相阿弥の庭、滝口、洗心滝


相阿弥の庭止め石。池泉は東山の麓にあり、池が流砂により埋まらないため、山を抑える自然石が据えられている。


相阿弥の庭龍心池に石の反り橋、跨龍(またぎりゅう)橋が架かる。


相阿弥の庭池中の中島は巨石が沈めてある。






小御所へ向かう回廊


回廊途中にある「一文字手水鉢」、秀吉寄進で自然石を刳ってある。





小御所西面、近代、1893年に焼失し、その後、兵庫県より移築された。


小御所東面


本堂の北面、右手に熾盛光堂、左に不動堂


本堂(熾盛光堂)、3間4面。


本堂扁額「冨春」


本堂



本堂、厨子内に本尊・曼荼羅図(熾盛光仏頂如来)を安置。種子曼荼羅(掛け軸)。右脇壇に不動明王坐像、二童子像、左に兜跋毘沙門天立像を安置する。御前立は糸魚川産の翡翠原石の宝珠
 東山の華頂山麓にある青蓮院(しょうれんいん/しょうれんにん)は、粟田御所、東山御所とも呼ばれた。山号はなく、青蓮院門跡、十楽院、粟田口御所とも呼ばれている。 
 「天台三門跡」(ほかに三千院、妙法院)のひとつ、「天台宗京都五箇室門跡」(ほかに妙法院・三千院・曼殊院・毘沙門堂)のひとつ。
 天台宗。本尊は本堂・熾盛光(しじょうこう)堂に、熾盛光如来が安置されている。
 かつては、神仏霊場会第115番、京都第35番。
◆歴史年表 平安時代、比叡山東塔南谷(現在の大講堂南の崖下付近)にあった天台三千坊のひとつ、僧侶の住居として使われていた青蓮坊が始まりになる。最澄、円仁、安恵、相応、琳豪、勝豪ら高僧の住居であり、近くに青蓮池があり、青蓮坊と呼ばれた。
 1142年、鳥羽法皇(第74代)が一時滞在する。
 1150年、1144年とも、天台座主第12代・行玄は、小池の名に因み、本坊・青蓮坊を青蓮院と改めたという。行玄は青蓮院の実質的な初代門主となる。行玄が現在地に移したともいう。鳥羽法皇女御の美福門院の御願により御祈願所(御祈願寺)となり、東塔南谷本坊となった。山上本坊とともに京都に殿舎が建てられる。
 1153年、鳥羽法皇の命により、粟田口に里坊・金剛勝院が建立され、三条白川房と呼ばれる。仙洞御所に準じた。
 また、1169年、1153年とも、当初は小白川(里坊・三条白川房、東山区)に新青蓮院が建立されたともいう。
 1177年、2世・覚快親王(鳥羽上皇題皇子)が天台座主になり、青蓮院2代門跡となる。以後、門跡寺院となる。比叡山山麓に御所(里坊)が用意され青蓮院と名付けられた。また、比叡山山上の青蓮坊は青蓮院山上御本坊として室町時代まで存在し、門主の山上勤めの際の住坊として使われた。また、比叡山東塔・無動寺、明王院などの葛川領も青蓮院に属した。
 鎌倉時代、1192年、慈円は天台座主に就き、3世・青蓮院門跡になる。
 1194年、比叡山山上の本坊が焼失している。
 1205年、慈鎮(後の天台座主・慈円)により、後鳥羽上皇(第82代)の最勝四天王院建立に伴い、三条白川から吉水(大谷)(吉水大弁財天付近、祇園東・十楽院の地)に吉水坊が移された。熾盛光堂、鎮守新宮社が建立される。
 1206年、慈円は熾盛光堂で大熾盛光法を修した。この頃、最も栄えたという。
 1208年、慈円により大懺法院が建立された。
 1212年、慈円により比叡山南谷の勝地房跡に房舎が再建される。新青蓮院と名づけられた。
 1216年、焼失している。
 1220年、焼失し、最勝四天王院は取り壊され、三条白川坊に移ったともいう。
 また、1237年、最勝四天王院の西五辻東町(上京区)への移転に伴い、三条白川(現在地)に再び戻され、白川房となる。
 1248年、後鳥羽天皇皇子・道覚親王が6世となる。以後、入道入寺の寺となる。なお、前年に天台座主につく。
 1311年、伏見天皇皇子・尊彦親王が17世・青蓮院門跡の尊円入道親王となる。
 1346年、比叡山の青蓮院本坊は焼失後再建されていたが、この年、東山大谷の青蓮院院家・十楽院(花園天皇廟所・十楽院上陵)に移された。白川房、十楽院が青蓮院に合した。
 室町時代、1392年、3代将軍・足利義満の子・義教は入室した。
 1396年、脇門跡・東南院尊玄が追放された。(『兼宣日記』)
 1403年、義教は義円となり青蓮院門跡に就く。
 1429年、6代将軍・足利義教が、花の御所御会所と御会所泉殿を増築し、青蓮院の石を花の御所に運ばせた。
 1465年、足利義政は青蓮院を訪れ、花頂山で花見をした。(『花頂要略』)
 1468年、1467年とも、応仁・文明の乱(1467-1477)の際に、西軍により焼かれている。
 1526年、鷲尾隆康は、青蓮院の池中で催された茶会に招かれた。(『二水記』)
 安土・桃山時代、1596年、熾盛光如来が作られ、秘仏になる。
 江戸時代、1608年、徳川家康による知恩院拡充に伴い、寺域を接取されている。
 1633年、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築し、御幸門、長屋門とした。
 1639年、1632年とも、知恩院造営に伴い、寺地の一部接取に対して加増が行われた。
 1648年、3代将軍・徳川家光により加増があった。
 1759年、植髪堂が建立される。
 1772年、好文亭が建てられる。
 1788年、天明の大火の際、後桜町上皇(第117代)は一時、仮御所(仙洞御所)として避難し、粟田御所と呼ばれた。その後、上皇は修学院、女院は白川宮に移る。
 1852年、伏見宮邦彦皇子・尊応親王は、門跡となり尊融法親王と改めた。
 1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃される。
 1885年、旧門跡は復称をゆるされた。
 1867年、王政復古の大号令が発せられ、尊融法親王は謹慎になる。
 近代、1868年、第122代・明治天皇の江戸行幸に際して、宸殿に玉座が設けられ、小休所になる。神仏分離令後の廃仏毀釈により、粟田神社の本地仏・薬師如来が撤去になり当院に祀られた。上知令により境内は五分の一(9900坪)に減じた。
 1872年、宸殿大玄関付近に、京都府立療病院(粟田口療病院)、医学校が開かれる。当初はドイツ人ヨンケルが診療、教育に当たる。
 1876年、療病院にオランダ人マンスフェルトが赴任する。
 1877年、療病院にドイツ人ショイベが赴任した。
 1880年、京都府立療病院、医学校が閉じられる。
 1882年、陶工・青木木米が、青蓮院宮の命により、この地で陶磁器を焼いた。
 1893年、大半の伽藍を焼失した。
 現代、1993年、放火により好文亭が焼失する。
 1995年、好文亭が再建される。
 2000年、再び粟田神社の神輿は青蓮院の四脚門を通るようになった。
 2005年、3か月間のみ創建以来初めて本尊・熾盛光如来が開帳される。
 2009年、青不動明王二童子像が開帳される。京都文化協会は、国宝「青不動明王二童子像(青不動)」の高精細複製を制作し奉納する。
◆行玄 平安時代後期の僧・行玄(ぎょうげん/こうげん、1097-1155)。関白・藤原師実の子、母は源師房の娘。寛慶により比叡山に上り、理智坊、三昧院検校、無動寺別当、青蓮坊を経て良祐から灌頂を受ける。1138年、12世・天台座主となり、鳥羽上皇の帰依を受け大僧正になる。法勝寺、尊勝寺、最勝寺などの別当を兼任した。1150年、住房の比叡山青蓮房を美福門院の御願寺とし、青蓮院と改称し1世に就く。粟田口の里坊・三条白川房を再建し、弟子・覚快法親王に譲った。
◆覚快法親王 平安時代後期の天台宗の僧・覚快法親王(かくかい ほうしんのう、1134-1181)。父は第74代・鳥羽天皇。母は美濃局(石清水八幡宮祀官家・田中勝清の実妹)。13歳で比叡山に上り、行玄大僧正に師事して出家、顕教・密教を兼学した。1150年、権律師、1151年、行玄により伝法灌頂を受ける。法印に任じられた。1160年、宮中で日蝕の祈祷を行い効験があったという。1170年、無品親王となり、1177年、延暦寺座主に就任、法性寺座主も兼任した。病いにより、1180年青蓮院に隠退し、翌年亡くなる。
◆慈円 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225、慈鎮)。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。1165年、11歳で延暦寺、その後青蓮院・覚快法親王の下で出家した。1192年、天台座主となり、都合4度務めた。1203年、大僧正となり、第82代・後鳥羽上皇の護持僧となった。史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られ、『新古今和歌集』にも多くの歌が収められている。
 慈円は天台座主でありながら、当時の新興宗教だった浄土宗開祖・法然や、浄土真宗開祖・親鸞に理解を示し、延暦寺の圧力から庇護した。慈円が法然に与えた院内一坊跡に、法然没後、門弟の源智により勢至堂が建立され、これが知恩院の起こりとなった。
 また、親鸞は、1181年、9歳の時に、伯父の日野範綱に伴われ青蓮院を訪れ、慈円のもとで得度した。この時、慈円は、日が暮れかかっていたため、得度式は明日に延ばそうというと、親鸞は「明日ありと 思ふこころの あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という古歌を引いた。慈円は、親鸞の思いの強さに打たれ、その夜のうちに儀式を行ったという。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
 親鸞が得度した場所は、青蓮院の宸殿「親鸞聖人得度の間」として遺されている。境内の植髪堂(うえがみどう)に祀られている親鸞の童形像には、親鸞が当院で得度した際に、剃り落したという髪が植えつけてある。
 没後、院内大谷に墓と影堂が造られ、これが本願寺の始まりとなっている。近代以前は、本願寺法主は当院で得度する慣わしであり、当院の脇門跡として門跡を号することが許されていた。
◆尊円法親王 鎌倉時代の僧・尊円法親王(そんえん ほうしんのう、1298-1356)。第92代・伏見天皇の第6皇子に生まれた。1308年、青連院に入り、1310年、親王宣下を受ける。1311年、法門に入り、尊円と改め17世・青連院門跡に就任した。1314年-1329年、門跡管領を止められる。再び門主となり、1331年、天台座主となる。都合4回の天台座主隣、また四天王寺別当を歴任した。
 書の青蓮院流(尊円流、後の御家流)を創始した。和歌をはじめ世尊寺行房、その弟・行尹に学んだ。小野道風・藤原行成などの上代様の書法に、南宋の張即之を加味した。江戸時代には、御家流(おいえりゅう)になり、公文書の書体に用いられた。
◆義円 南北朝時代-室町時代の僧・義円(ぎえん、1394-1441)。室町幕府第3代将軍・足利義満の子で義教(よしのり)。1403年、青蓮院に入り、1408年、得度して義円と称した。大僧正、准后の宣下を受ける。1419年、天台座主。1428年、義持の急死により、くじにより義円が後嗣となり、1428年、還俗して義宣と名乗り、1429年、6代将軍義教となる。次第に専制の道を進み、最期は大名・赤松満祐により斬殺された。
◆相阿弥 室町時代後期の足利将軍家同朋・相阿弥(そうあみ、?-1525)。祖父・能阿弥、父・芸阿弥を継ぎ、国工相阿と呼ばれた。書画、書画鑑定、詩文、茶の湯、墨蹟、座敷飾、作庭などにも関わったとされている。
◆大森有斐 江戸時代中期の茶人・大森有斐(おおもり ゆうひ、1721-1785)。遠州流の茶の湯を父・大森杖信(じょうしん)に学ぶ。茶道・煎茶道流派の玉川遠州流(玉川流)3代。号は清閑斎。
◆尊融法親王 江戸時代末期-近代の尊融法親王(そんゆう ほうしんのう、1824-1891)。伏見の宮邦家親王第4皇子、朝彦親王、尊応親王と称した。8歳で本能寺に入り、興福寺一乗院門跡、興福寺別当になる。1582年、青蓮院門跡となり尊融と称した。同年天台座主となる。孝明天皇護持僧となり、攘夷派の親王として「今大塔宮」といわれた。1858年-1859年、安政の大獄で相國寺塔頭・桂芳軒で謹慎となる。将軍継嗣問題で慶喜擁立に動いたことによる。天台座主剥奪、青蓮院退隠になり還俗し、粟田宮・中川宮などと称した。西郷隆盛、清水寺成就院・月照と親交があった。公武合体派として1863年、八・一八政変の中心になる。近代以降は久邇宮と改称し、晩年は伊勢神宮祭主になった。
◆院号 青蓮院とは青蓮華(しょうれんげ)に因む。ハスの一種であり、葉が長く広く、あざやかな青白色をしている。仏陀の眼に形容される。
◆仏像・仏画・木像 本堂表の熾盛光堂(しじょうこうどう)内陣に熾盛光如来が安置され、国家繁栄、皇室安寧、天変地異沈静を祈念する。裏堂の不動堂に青不動明王(現在は不動明王童子像複製)を安置し、個の幸福健康を祈る。二つの仏は一体となり世界すべてを守護している。
 本堂・熾盛光堂に、種子(しゅじ)曼荼羅の本尊の絹本著色「熾盛光如来」(200.1㎝×143㎝の掛け軸)が安置されている。本尊として安置するのは日本にはほかに例がない。熾盛光如来は、大日如来の仏頂尊であり、大日如来の頭の中にあり、仏の智慧と光を発する。仏を意味する梵字(種字)「ボロン」を中心にして、その外に八葉蓮弁(金色の一時金輪仏頂、観自在、金剛手、毘倶胝、赤色の仏眼仏母、不思議童子、文殊、救護慧の各菩薩)、さらにその外に八月輪、四隅に四明王(金剛夜叉、降三世、軍荼利、大威徳)が描かれている。背景は青色の顔料・群青で彩色され、虚空(宇宙)を表すという。豊臣秀吉により寄進され、安土・桃山時代、1571年(1596年とも)、絵師・狩野左京(佐久間修理)筆による。
 本尊の熾盛光如来の裏の本堂(不動堂)に「青不動明王」(絹本著色「不動明王二童子像」)(国宝)が祀られている。「日本三不動画」(ほかに三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つに数えられる。比叡山の安然が説いた不動十九観想相中、台密系不動二童子像形式の典型であり、彩色では最古例といわれている。肉身は青黒く彩色されていることから、「青不動」と呼ばれている。平安時代中期(11世紀?)、円心作とされる。巨勢弘高、延円ともいう。4枚の絹布で繋ぐ。この時代の不動明王画像としては最高傑作といわれている。縦203.2cm、横148.5cm。
 不動明王は、熾盛光如来の化身とされ、また大日如来の使者であり、人々の救済のために盤石に座し、揺るぎない不動心と憤怒の姿をしている。五色(青不動、黄不動、赤不動、目白不動、目黒不動)ある不動明王の中でも、青不動は最高位、中心にある。この肉身の青い色は調伏力を表している。当初は朝廷に祀られ、天台高僧により国家安泰、皇室の安寧を祈願されてきたものが、平安時代末期に当院に贈られた。
 不動明王は背後に、紅蓮の火炎光背に包まれている。炎と本身は一体化し、火光となる。炎には、迦楼羅(かるら)という7羽の神鳥の姿がある。不動明王の髪は金泥により巻き毛、頭上に髻(もとどり)の七莎髻(しちしゃけい)、右に弁髪をたらす。右目は地を、左目は天を睨む天地眼になっている。口に見える牙も上下に互い違いに生える。右手の突き立てた三鈷剣には、具利伽羅(くりから)龍が巻きつく。降魔(ごうま)剣は、魔を退散させ、煩悩を断ち切る。龍は、不動明王の変化身の龍王という。掲げた左手の羂索(けんさく)という縄により、悪を練りあげ、煩悩を断ち切れない人々に仏徳を気づかせ救いあげる。
 火炎の迦楼羅(かるら)という鳥は、三毒、①貪、貪欲(とんよく)。②瞋(しん)、瞋恚(しんに)という怒りの心。癡(痴・ち)、③愚癡という無知を喰らう意味がある。御前立は青不動尊の写し。
 本尊右の脇侍・「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」は合掌し、左の「制多迦童子(せいたかどうじ)」は棒を構える様が描かれている。この二童子は、中尊の変身後の姿であるという。描かれた特徴は、9世紀の天台宗の僧・安然(あんねん、841? - 915?)の著した『不動明王の十九観』に基づいているという。
 右脇壇に「薬師如来坐像」、「日光・月光菩薩立像」、「十二神将」、左脇壇厨子内に「歓喜天像」が安置されている。歓喜天像は、象玉人身の男女双身の秘仏で、「聖天さん」と呼ばれている。
 熾盛光堂に、鎌倉時代(南北朝時代とも)の木造彩色・「兜跋毘沙門天立像」(重文)(121.5㎝)を安置する。平安京羅城門楼上(現在は東寺に安置)にあった像を模刻している。木造彩色、漆箔。
 植髪堂には、親鸞得度の際に、真髪を植えたという「童形像」が安置されている。
◆門跡 門跡という名称は時代で変遷している。青蓮院では、1世・行玄の弟子で、鳥羽法皇第7皇子・覚快法親王が2世となり、以後、近代まで歴代門主は、皇族か五摂家子弟に限られていた。これを門跡寺院という。また、主僧のことを門跡という。このように皇親に限定した門跡の用法は、平安時代末期の事であり、それ以前の門跡とは一般名辞だったという。
 当院と法然、親鸞の関係により、近代まで、浄土宗各派の朝廷への願い事は、すべて青蓮院の介添によった。本願寺、その他の門跡号も青蓮院院家(門跡寺院の仏事、世俗の援助)となり、門跡跡に許された。門主は各宗僧への紫衣と三緒袈裟の着用についても承認していた。
 近代までの門主の内訳は、皇子は12人、皇族は13人、摂関家子弟は13人、足利家は1人になる。
◆建築 「御幸門(四脚門)」は、江戸時代の第109代・明正天皇の時(在位1629-1643)、1633年に中和門御殿の門を移したという。切妻造、本瓦葺。
 「長屋門」は後陽成天皇皇后・中和門院の御所旧門を、1633年に移した。1788年の天明の大火でも類焼をまぬがれた。
 「大玄関(車寄せ)」は、軒唐破風、こけら葺。
 
「宸殿」は、かつて、第108代・後水尾天皇中宮・東福門院(徳川和子、1607-1678)の常御所、または後水尾天皇仙洞御所が移築されたものという。近代、1893年に焼失し、1895年に再建された。入母屋造、桟瓦葺。桁行12間、梁行8間。
 「小御所」は、近代、1893年に焼失し、その後、兵庫県より移築された欄間に竹製によるものがある。太い横と縦の竹、斜めの細い竹を組み合わせている。
◆庭園  庭園は、寺が室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)、また近代、1893年にも焼失しているため、その後に修復されている。庭は、四つにより構成されている。
 主庭「泉水庭(せんすいてい)」は、室町時代、1144年に相阿弥(?-1525)の作庭と伝えられる。粟田山を借景とし、山裾を背景とし、龍心池を取り巻く廻遊式庭園になっている。山紅葉が多く植えられた山裾に続く、高く石組された滝口の洗心滝を中心として、半円形に反る切り石二枚の跨龍(またぎりゅう)橋(花崗岩)、池の中央には巨石が沈められ中島としている。滝口向かいの池の対岸には、巨大な礼拝石(青石)が置かれている。石は京都近郊と紀州の青石が集められたという。築山は山裾を利用したもののほかに、池の岬部分にもう一つの築山が造られている。これら築山や大池の構成には、室町時代の作庭の名残があるといわれている。小御所付近には、豊臣秀吉(1536/1537-1598)寄進という自然石の「一文字手水鉢」が据えられている。
 叢華殿の東に、江戸時代の小堀遠州(1579-1647)作という庭がある。別名「霧島の庭」と呼ばれ、5月初旬には樹齢数百年という霧島ツツジの老木が真紅に染まる。また梔子、馬酔木などが植えられている。秋には紅葉が見られる。
 茶室「好文亭」の前庭(露地庭)は、江戸時代の茶人・大森有斐(1721-1785)作庭と伝えられている。豊臣秀吉寄進という六角の「御輿形燈籠」が据えられている。朝鮮出兵に伴い持ち帰られ、寄進されたものという。宝珠に、笠の下がり棟に縦の溝が彫られ、火袋は2面が開けられる。中台は勾欄造、竿は二条中節、基礎は笹目文様が彫られている。
 宸殿前の苔の庭に、右近の橘、左近の桜がある。楠の大木も植えられている。本来は白砂の南庭だったが、現在はスギゴケの庭が広がる。
 なお、近代、「植木屋政殿」、小川治平衛が手入れ、改修に関わった。
◆茶室 茶室「好文亭」は、江戸時代、1772年、34代門主・尊真親王が学問所として建立した。1788年、御所炎上の際には、青蓮院が女帝・後桜町上皇(第117代)の仮御所となり、好文亭は学問所になった。近代以降は、茶室として使われる。1893年の火災前には黒書院と続いていた。1993年に放火により焼失する。1995年に再建される。花鳥図の障壁画は上村淳による。玄関土間などは付加されている。瓦葺軒先銅板葺、かつてはこけら葺。南の縁側4間に柱はなく、東側2間半は、軒桁を桔木で保持する。
 四畳半台目(次の間)、四畳半3室(西の四畳半、北の四畳半、主室東の四畳半)、後に付加された水屋、仏間からなる。西の四畳半は寄付になる。深い庇内の土間は敷瓦を貼る。舞良戸4枚、障子2枚が立てられている。
 北の四畳半はかつて仏間だった。炉が切られている。
 四畳半台目(次の間)は四畳半切炉。主室との間の襖を外して、広い茶室として利用できる。
 主室東の四畳半の床の間は、浅い台目床、落掛は桜皮付、花明窓、床脇(天袋、違棚、地袋)、地板(高さ5寸の蹴込板)、鳥の子の貼壁(山水絵)、天井は竿縁天井、面皮柱に面皮長押、障子は二子桟障子。
 北、東、南に縁を廻す。
 露地は江戸時代の茶人・大森有斐(1721-1785)作庭と伝えられている。苔地に富士形の蹲踞、袈裟形の燈篭などがある。
 茶室「富春亭」がある。
◆書道 書の大家・世尊寺行房に学んだ鎌倉時代の第92代・伏見天皇皇子・尊円法親王により、書道院流、粟田流が起こり、後の御家流のもとになった
◆中川宮
 幕末-明治時代初期の皇族、中川宮、久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、1824-1891)は門跡。
◆十楽院 十楽院(じゅうらくいん)は、東山大谷の青蓮院近く、やや南にあった。天台宗門跡であり、無動寺谷・大乗院、飯室谷・妙香院と並ぶ三院家の一つだった。平安時代末に創建されたという。
 室町時代、1393年、北朝第5代・後円融天皇没後、足利義満は同い年で親交のあった天皇のために、当院の尊道に命じ、普賢延命法を修させている。
 なお、道玄法親王以下、「十楽院」「十楽院宮」と名乗る者が複数存在した。その後、寺は廃絶する。寺跡の東に、山門東陽坊別院東陽坊があった。
◆療病院址の石標 
大玄関の北西隅に「療病院址の石標」がある。
 府立医科大学附属病院の前身として、蘭学医・明石博高(1839-1910)が資金を募って創設した。1871年設立許可を受け、翌年9月、御池木屋町でドイツ人医師らによる診療を開始した。11月、粟田口青蓮院宮旧邸を修築して仮病院とし、診療と医学教育が行われた。1880年、河原町広小路に移転、1924年、京都府立大学附属病院になった。
◆文化財
 奈良時代(749-765)写経の「解深(げんし)密教巻第四」(重文)、平安時代の書写『観音応験記』(重文)、平安時代の「円仁自筆書状」(重文)、平安時代(840)の「円仁入唐請来書目録」(重文)。平安時代(1091)の「八家秘録及諸真言目録」(重文)は入唐八家(最澄、空海など)の請来書物の目録、平安時代(1048)の「皇慶附嘱状」(重文)、平安時代(1048)の「皇慶起請」(重文)、平安時代(1070、1071)書写の『往生要集』、鎌倉時代(1224)「慈円自筆四天王寺聖霊院願文案」(重文)、平安時代後期から室町時代前期に至る叢書「門葉記」(重文)、南北朝時代(1356)の「後光厳院宸翰御消息」(重文)、平安時代の能書家・藤原伊行(1139? - 1175?)の書論「夜鶴庭訓抄」(重文、江戸時代(1813)の第119代・光格天皇の「大灌頂光明真言」(重文)など。
 尊円親王自筆の「拾玉集」は、8代将軍・足利義政が取り上げた。門主・尊應准后が嘆き悲しんだとして代わりの五冊本を贈った。それに尊應が奥書したものは遺されているが、尊円親王の原本は還されることはなく失われた。
 「青蓮院吉水蔵聖教類」(重文)に、平安時代以来の聖教類(天台教学)、1622種が納められている。かつて吉水蔵と呼ばれた聖教蔵に納められていたことからこの名が付いた。
 江戸時代末期、第121代・光明天皇が使用した輿がある。
◆石造物 豊臣秀吉寄進と伝えられる「一文字手水鉢」は、小御所渡廊下にある。聚楽第より移されたという。6尺7寸(2m)。
 茶室「好文亭」の露地庭に「袈裟型燈籠」と「蹲踞」がある。
 
茶室「好文亭」の西北に六角の「神輿型燈籠」が立つ。朝鮮出兵に伴い持ち帰られ、後に寄進されたものという。宝珠に、笠の下がり棟に縦の溝(本瓦葺様)が彫られ、火袋は2面が開けられる。中台は勾欄造、竿は二条中節、基礎は笹目文様が彫られている。
◆障壁画 宸殿内に、金地著色「浜松図」17面(重文)がある。狩野光信の長男・貞信(1597-1623)筆とみられている。金箔に金雲の間に、群青の水辺に常盤の松林が広がっている。優品とされている。
 大玄関に「日月松桜百鶴図」、茶室「好文亭」に上村淳之の襖絵。
 現代の絵師・木村英輝が3種の蓮を描いた「青の幻想」「生命賛歌」「極楽浄土」全60面がある。
◆療病院 近代、1872年、京都府立医大の前身になる木屋町療病院(木屋町二条下ル)が仮屋に開設された。ドイツ人医師・ヨンケルが診療、学生への教育を行う。同年、青蓮院の宸殿大玄関付近に、京都府立療病院(粟田口療病院)、医学校が移され開設された。資金は寄付金と芸娼妓への冥加金が充てられた。当初はヨンケルが診療、教育に当たる。1873年より療病院で54体の解剖も行われている。1876年、オランダ人医師・マンスフェルトが赴任する。1877年、ドイツ人医師・ショイベが赴任した。1880年、京都府立療病院、医学校が閉校になり、1881年、河原町広小路に移転した。
◆桜・クスノキ 青蓮院、華頂山付近は、かつて桜の名所だったという。室町時代、1465年、6代将軍・足利義政は花見に訪れている。歴代将軍も度々訪れたとい。
 境内には、クスノキ(京都市指定天然記念物)の巨木5本が植えられている。築地塀の大土堤には北面に2本、西面に2本、宸殿前庭に1本ある。いずれも樹齢数100年-800年といわれ、幹の途中から大枝を四方に伸ばす。12世紀末に親鸞による手植ともいう。鎌倉時代の作庭の頃に植えられたともいう。実際には、青蓮院の現在地への移転が13世紀以降であり、クスノキが現在の境内地割に沿って生育しており、それ以降に植栽されたとみられる。最長のものは樹高20-26m、幹周り6m。
 境内には、西行が慈円に贈ったという「立田山の楓」(小御所と池を隔てた処)ほか30本の楓があり、紅葉が楽しめる。「宮城野の萩」(華頂殿東南角)がある。萩は夏から秋にかけて二回花をつける。
◆文学 1922年、作家・永井荷風は京都を訪れ、青蓮院の大楠について深く心打たれ記した。「粟田御所の堀外に蛟龍の如く根を張っている彼の驚くべき樟の大木は十年前に見た時と変りがなかった。」(『十年振』)
 芥川龍之介は、当院の庭について「昔の日本の茶人が夢みた、青磁の器のような美しさ」と表現した。室生犀星への手紙で「襖画張つけ等もよろしく夜も小じんまりとしてよろし」(1924年)と勧めている。
◆映画 時代劇映画「続・赤穂城」(監督・萩原遼、1952年、東映)の撮影が行われた。雪の門前に大石内蔵助(片岡千恵蔵)が登場する。
 現代劇映画「華の乱」(監督・深作欣二、1988年、東映京都)では、与謝野晶子(吉永小百合)が波多野秋子(池上季美子)の遺書を燃やす。
 時代劇映画「四十七人の刺客」(監督・市川崑、1994年、東宝など)では柳沢吉保(石坂浩二)の屋敷の門として使われた。
◆花暦 キリシマツツジ・アセビ・サクラ・フジ・サツキ・シャクナゲ(3-5月)、ハギ(9-11月)、紅葉(11月)。
◆華頂山・花頂院 青蓮院の背後に華頂山(かちょうざん、210m)が聳えている。花頂山、花鳥山とも書かれる。東山三十六峰の一つに数えられている。上の台(頂上に将軍塚)、中の台、下の台があり、古くより花の名所として知られた。
 かつて、華頂山北麓に、天台宗寺門派園城寺別院の花頂院(かちょういん)があったという。このため、山名の由来になった。寺院の創建、変遷の詳細は不明という。中世には粟田口華頂町付近にあり、大寺だった。鎌倉時代、1230年に五重塔が焼失し、廃寺になる。
 現在の将軍塚大日堂の本尊・大日如来は花頂院の遺仏ともいわれている。
◆年間行事 修正会(熾盛光法が修される。平安時代、850年に円仁が天変地異・疫病鎮静、鎮護国家、皇室安寧・外敵防御のために修した。平安時代から鎌倉時代にかけて、当院でも修された)(1月1日)、青不動明王初護摩供(1月満月の日)、節分会(2月節分)、夜の特別拝観(3月)、茶室「好文亭」特別拝観(春分の日-5月5日の週末、祝日)、夜の特別拝観(4月初旬-5月初旬)、五山送り日(将軍塚大日堂での送り火鑑賞、回向法要)(8月16日)、地蔵盆(8月下旬)、熾盛光如来大法要(10月第2日曜日)、粟田神社神輿祭青蓮院参詣儀式(10月体育の日)、茶室「好文亭」特別拝観(11月1日-30日)、夜の特別拝観(11月初旬-12月初旬)、除夜の鐘(12月31日)。
 青不動明王護摩供(毎月28日)。月護摩(満月の日)。


*一般的な拝観の順路に従って案内しています。一部の建物内は撮影禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼 京都 30 青蓮院』『京の古都から 27 青蓮院』『庭を読み解く』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『足利義満と京都』 『増補版 京都の医史跡探訪』『新選組と幕末の京都』『日本の名僧』『京都大事典』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都 神社と寺院の森』『週刊 京都を歩く 23 知恩院周辺』『週刊 古寺名刹巡礼の旅 東山ふもと道』

 
   関連・周辺植髪堂      関連・周辺将軍塚大日堂      関連・周辺尊勝院〔青蓮院〕     関連・周辺金蔵寺跡〔青蓮院〕(東山区)      関連・周辺知恩院      関連・周辺崇泰院      周辺八坂神社      関連成就院〔清水寺〕      関連本願寺北山別院      関連花の御所(室町第)      関連延暦寺・東塔(大津市)      関連延暦寺・西塔(大津市)      関連延暦寺・横川(大津市)      関連延暦寺・無動寺谷(大津市)         

宸殿の東面

宸殿南面

宸殿(お得度の間)、天皇、歴代門主の尊牌を祀る。親鸞も慈鎮によりこの間で得度した。近代以前は、門主の天台座主任命の際にはここで宣明使により宣命を受けていた。

宸殿西面

宸殿


宸殿


宸殿、障壁画「浜松図」

大玄関

大玄関、江戸時代末期、第121代・孝明天皇御常用の板輿、久邇宮家寄進による。

大玄関

宸殿、庭園

宸殿前には左近の桜、右近の橘が植えてある。

左近の桜

左近の桜

左近の桜

右近の橘

右近の橘

霧島の庭、小堀遠州作庭ともいう。

叢頂殿

霧島の庭


霧島の庭


霧島の庭、キリシマツツジ、花期は5月初旬



楓の巨木

神輿型燈籠

茶室「好文亭」

茶室「好文亭」

茶室「好文亭」、露地庭

茶室「好文亭」、露地庭、袈裟型燈籠と蹲踞

茶室「好文亭」、南にある大森有斐作庭という庭

日吉社、日吉社は、慈円が信仰し、勧請した十禅師社、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、江戸時代、1605年に再興された。日吉山王は天台宗の守護神として祀られている。もとは、建物をおおう鞘堂があったという。この付近の粟田口は、東海道の道筋にあたり、東国へ向かう旅人は、十禅神社に旅の安全を祈願して旅立ったという。

日吉社

稲荷社(左)、秋葉社。

右より恭仁子女王御胞衣、珖子女王御胞衣、賀彦王御胞衣、發子女王御胞衣、家彦王御胞衣、徳彦王御胞衣。
いずれも江戸時代末期から近代の皇族・久邇宮朝彦親王(1824 - 1891)の子、朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子。朝彦親王第1王女は発子女王、第2王女は子女王、第1王子は賀彦王、第3王女は恭仁子女王で伊勢神宮大宮司二条弼基に降嫁。第2王子は家彦王(1920 - )、第3王子は徳彦王(1922-2007)。

竹林


オオクス

鐘楼

鐘楼

鐘楼

親鸞聖人童形像、親鸞得度の姿、車寄せの前にある。親鸞が得度した際に、この付近に馬をつないだといい、その古松があったという。昭和の初めころ大坂の信徒により寄進された。

植髪堂(うえがみどう)

陶工、青木木米碑、「粟田陶隠?木米記念碑」、植髪堂と薬医門の間にある。青木木米(あおき もくべい、1767-1833)は江戸時代の絵師、京焼の陶工。

粟田神社の祭礼(10月)の時、四脚門を通る神輿、もとは、後陽成天皇の女御・中和門院の旧殿から移築されたという。

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 青蓮院 〒605-0035 京都市東山区粟田口三条坊町69-1  075-561-2345  9:00-17:00
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