永養寺 (京都市下京区)
Eiyo-ji Temple
永養寺 永養寺 
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 寺町通高辻上る東側に永養寺(えいようじ)がある。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、円仁(794-864)は、平安京で流行していた疱瘡(天然痘)を疾病を鎮めるために、本尊の阿弥陀如来像を造立したという。(寺伝)。
 平重盛((1138-1179)が本尊・阿弥陀如来像を護持仏にした。
 室町時代、1479年、足利義尚は、寺地を保証した。
 1482年、鎌倉光明寺8世・観誉(かんよ)により中興される。当初は、永養寺町(下京区)の北側にあった。 (「永養寺文書」)
 1570年、荒廃する。(『坊目誌』)
 1579年、織田信長の命により、京都所司代官・村井貞勝は、再興下知状を出す。境内地は、永養寺町、東の本柳水(ほんりゅうすい)町西頬(つち)、北の木賊山(とくさやま)町南、太子山(たいしやま)町東頬にあった。(「永養寺文書」)。多くの塔頭があり、あたかも病舎のようだったという。(寺伝)
 1585年、羽柴秀吉の命により、永養寺町(下京区)より、京極高辻の東の現在地に移る。(『坊目誌』)
 江戸時代、1788年、天明の大火により類焼する。
◆円仁 平安時代の天台宗の僧・円仁(えんにん、794-864)。慈覚大師。下野国に生まれた。豪族・壬生氏の子。第3世・天台座主、日本初の大師号を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。9歳で大慈寺の広智に学び、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、その最期まで14年間仕えた。814年、天台宗の年分度者になる。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行い、多くの寺を開いた。一時心身衰え、829年、横川に隠棲している。苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て回復し、『法華経』書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。836年、837年と渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使と して渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山を巡礼(68日間、1300km)し、大華厳寺で文殊信仰、国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。1500kmを歩き、長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰った。新羅声明を天台声明として取り入れ、その祖となる。848年、横川中堂(根本観音堂)を建立する。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。
◆仏像 本尊の「阿弥陀如来像」は、平安時代の円仁(794-864)作によるという。平安京に疱瘡(天然痘)が流行し、鴨川の河原が遺体で溢れた。円仁はこれらの疾病を鎮めるために造立したという。(寺伝)。735年-1036年、疱瘡は、ほぼ30年毎に大流行を繰り返していた。後に、平重盛(1138-1179)が「疱瘡守護如来」として護持仏にした。その後、当寺に遷された。
◆永養寺町 現在地の西にある永養寺町(下京区)は、当寺の旧地であり、地名の由来になった。江戸時代、1637年、「ゑようし町」 とある。 (『洛中絵図』)
◆天明の大火 江戸時代、1788年、1月30日早朝、鴨川の東岸、団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火し、火は宮川筋に南下、さらに折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸にも飛び火した。
 この天明の大火(団栗焼け)の火の手は、洛中の寺町通高辻の永養寺を類焼させ、さらに、北と南、西へも延焼した。火災は30日(太陰暦のため31日はない)から、2月1日、2日の2昼夜にわたって燃え続けた。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都の地名検証 3』


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map  永養寺 〒600-8033 京都市下京区恵美須之町520,寺町通高辻上る東側   075-351-1676
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