聖護院門跡長谷廟所 (京都市左京区長谷)
Shogoimmonzeki-byosho(The mausoleum)
聖護院門跡長谷廟所 聖護院門跡長谷廟所 
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「護院門跡長谷廟所」の石標






増誉の墓


「聖護院御門跡墓地」の石標





 岩倉長谷の飛騨池の北、森の中に聖護院門跡長谷廟所(しょうごいんもんぜき びょうしょ)がある。聖護院御廟とも呼ばれている。かつて付近に聖護院が一時移り、後に聖護院門跡の山荘が営まれた。 
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、岩倉長谷の普門院跡地に常光院(常住院とも)が創建されたという。(岩倉長谷の伝承)
 寛平年間(889-898)、常光院は現在地(左京区聖護院中町15)に移され、聖護院と改めたともいう。(岩倉長谷の伝承)
 永延年間(987-989)?、岩倉長谷に普門院が創建されたともいう。
 998年、比叡山延暦寺での天台座主を巡る争論で、寺門派智證派が岩倉の大雲寺に移る。その一部、慶祚阿闍梨の門徒は岩倉長谷の普門寺に入ったという。  
 寛治年間(1087-1094)、三井寺・増誉僧正が中興し、聖護院と改め、岡崎聖護院町に移るともいう。旧地は、門跡別荘として残され「長谷坊」「長谷御所」と呼ばれたともいう。
 覚忠(1118-1177)が岩倉長谷に宿坊を開く。
 室町時代、1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)の東西軍により聖護院(現在地、左京区聖護院中町15付近)、諸教寺が焼かれる。聖護院は愛宕郡岩倉村長谷に移され、この地で再興される。(『碧山日録』)
 1480年、足利義政は、岩倉長谷の解脱寺に参籠し、聖護院僧正道興の御坊に泊まる。御坊の修理が行われている。同年、解脱寺観音が開帳され、義政が再び御宿坊に滞在し毎日参詣した。(『長興宿禰記』)
 1481年、義政は、夫人・日野富子と不仲になり、心身を癒し出家しようとして岩倉長谷の御坊に1年間入室した。この頃、御坊の整備が行われる。(『中院通秀卿記』『大乗院寺社雑事記『)。義政は、連歌、猿楽、早苗御田植、御鞠会などを度々催した。(『長興宿禰記』『後法興院記』)
 1482年、義政は東山浄土寺殿跡に御所を建て、岩倉長谷より移る。(『東寺執行日記』)
 1487年、盗賊の放火により岩倉長谷の殿舎は焼失した。門主・准皇后は東国巡礼により留守にしていた。(『大乗院寺社雑事記』)
 安土・桃山時代、豊臣秀吉は、聖護院を上京区烏丸上立売御所八幡町に移す。(『寛永年間平安城東西南北町並之図』)。以後、岩倉長谷の殿舎は聖護院門跡の山荘になる。(『隔蓑記』)
 江戸時代、1647年、後水尾院(第108代)は、東福門院とともに長谷聖護院御殿(長谷御茶屋)に御幸する。新たな山荘の候補地を求めるためだった。以後、1675年まで、後水尾院、東福門院、明正上皇(第109代)らは長谷御幸を度々行う。
 近代、大正期(1912-1926)初期、聖護院門跡長谷廟所は長谷上之町入口広場近く、田の中の盛土上にあったという。その後、現在地の西、林の中に遷された。
 現代、2013年、廟所は現在地に遷された。
◆増誉 平安時代後期の天台宗の僧・増誉(ぞうよ、1032-1116)。権大納言・藤原 経輔の子。6歳の時、園城寺の乗延に師事、行円の下で得度で出家した。大峰山、 葛城山で修業を積む。1074年、権少僧都、第72代・白河天皇の護持僧、 第73代・堀河天皇の護持僧、1090年、白河上皇の熊野詣の先達を勤め、熊野三山検校となる。1094年、四天王寺の別当職、1096年、権僧正、1098年、広隆寺別当職、1100年、園城寺の長吏、1102年、正僧正、法成寺執印に補任されている。1105年、天台座主となるものの山門派の反対で翌日辞退した。大僧正。尊勝寺などの13寺の別当も兼ねた。
 聖護院開基の増誉は、修験道を開いた役行者の法灯を継いだとされる。墓は、長谷の御所谷の林の中にあった。
◆覚忠 平安時代後期の天台宗僧・覚忠(かくちゅう、1118-1177) 。京都生まれ。公卿・藤原忠通の子。近江・園城寺の増智に師事。後白河上皇(第77代)の出家に際して戒師をつとめた。1162年、天台座主、のち園城寺長吏。1164年、大僧正。歌人としても知られ「千載和歌集」などの勅撰集に12首入る。
◆普門寺 創建の詳細、変遷は不明。平安時代、永延年間(987-989)の創建ともいう。長谷小松原、御殿町付近(大門、八塩岡<赤山>の小松原山林)付近にあり、後の長谷聖護院山荘跡地を一部に含んでいたという。
 平安時代、998年、比叡山延暦寺での天台座主を巡る争論で、寺門派智證派が岩倉の大雲寺に移り、その一部の慶祚阿闍梨の門徒は普門寺に入ったという。
 時代は異なるものの普門寺(常光院)跡、解脱寺跡、長谷御殿跡は近接していた。一部重複しながら、現在残る閼伽水を中心にして東に解脱寺、南に普門寺(常光院)、西に長谷御殿が位置していたとみられている。現在の聖護院門跡長谷廟所は閼伽水の北東になる。
◆聖護院・長谷御殿 長谷の伝承によると、長谷の普門院の跡地に常光院が建てられたともいう。平安時代、寛平年間(889-898)、現在地(左京区聖護院中町15)に移し、聖護院と改めたともいう。
 長谷の地には、覚忠(1118-1177)の開いた宿坊跡があったという。室町時代、1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)の東西軍により聖護院、諸教寺が焼かれ、聖護院はこの地、愛宕郡岩倉村長谷に移され再興された。1487年、盗賊の放火により岩倉長谷の殿舎は焼失している。安土・桃山時代、豊臣秀吉は、聖護院を上京区烏丸上立売御所八幡町に移した。その後、長谷の殿舎は聖護院門跡別荘になり「長谷坊」、「長谷御殿」と称された。
 江戸時代、1647年の「長谷御茶屋指図」には、長谷御茶屋が記されており、長谷御殿、聖護院御殿の記述とみられる。小規模ながら「中の茶屋」「北の茶屋」「上の茶屋」が数町ずつ離れて建てられていた。後水尾院、東福門院、三の宮、明正上皇らは度々御幸を行っている。
◆年間行事 増誉命日の墓参(8月12日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛北岩倉誌』『岩倉長谷町千年の足跡』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』


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廟所へ向う山道の途中にある飛騨池
江戸時代、1826年築造

地名に残る「御所谷」
聖護院門跡長谷廟所 京都市左京区岩倉    
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