堀河院跡・道元の堀河第跡 (京都市中京区)
The ruins of the residence of Horikawa-in
堀河院跡・道元の堀河第跡 堀河院跡・道元の堀河第跡
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「堀河天皇里内裏址」の碑、京都国際ホテルの西北


「福井藩邸跡」の石標、京都国際ホテルの西


「橋本左内寓居跡」の石標、京都国際ホテルの西北


「松永昌三 講習堂址」の石標、京都全日空ホテル駐車場南



地蔵尊、京都全日空ホテル駐車場北


梶井宮家の門京都国際ホテル敷地北東


京都全日空ホテル駐車場北東の石組、堀河院の庭園遺構?


【参照】平安時代堀河院の復元図、京都アスニー
 二条城、堀川の東にある京都国際ホテル、京都全日空ホテルの敷地には、平安時代から近代に至る複数の史跡が点在し、さまざまな歴史が交錯している。
 平安時代、一帯には堀河院など上流貴族の邸宅が建ち並んでいたという。
◆歴史年表 平安時代、この地には、太政大臣・藤原基経(831-891)の邸宅(二条南、堀川東)があった。殿は堀川に面したことから堀河院(堀河殿)と呼ばれた。公的な邸宅として用いられる。 
 堀河院は基経の子、左大臣・仲平(875-945)、また、その娘に継がれる。
 976年、関白・藤原兼通の時、改修された。内裏焼亡に際して、兼通の娘・藤原こう(女+皇)子を中宮とした第64代・円融天皇は里内裏とした。天皇は1年間ほどこの地に過ごし、今内裏(いまだいり)と呼ばれた。
 兼通の子・左大臣の藤原顕光(あさみつ、944-1021)に継がれる。その娘・元子(第66代・一条天皇女御)も住んだ。
 第72代・白河天皇(在位1053-1129)の里内裏になる。2度、里内裏に用いられる。
 1032年、関白・藤原頼通(992-1074)が所有する。その後、右大臣・藤原頼宗(993-1065)を経て、関白・藤原師実(1042-1101)の時、第73代・堀河天皇(在位1087-1107)の里内裏になる。その後、藤原師実(もろざね)、師通(もろみち)、忠実(ただざね)に伝領される。
 1086年、善仁親王(堀河天皇、母は藤原師実の養女・中宮賢子)は受禅(禅譲)する。
 1087年、堀河天皇はこの地で践祚(せんそ、皇位に就く)する。
 1094年、焼失した。
 1099年頃、藤原忠実よりり堀河天皇中宮・篤子内親王に献上される。
 1104年、再建された。堀河天皇は堀河院に還幸する。
 1107年、堀河天皇はこの地の中殿で亡くなる。同年、第74代・鳥羽天皇が即位した。
 鳥羽天皇(在位1107-1123)の里内裏になる。 
 1120年、保安年間(1120-1124)とも、焼失したともいう。
 1177年、太郎焼亡により焼失したという。
 鎌倉時代初期、摂政左大臣で歌人・藤原(九条)良経(1169-1206)の邸宅となる。
 1205年、良経が源通具に邸を譲り、自らは中御門京極殿に移る。通具は日本曹洞宗開祖・道元の養父であり、道元はこの堀河第で育ったとみられる。なお、1212年、道元は13歳の時に出家している。
 江戸時代、俳人・国学者の松永昌三(1592-1657)の学舎・講習堂がこの地に開かれる。学舎は近代初めまで存在した。
 江戸時代後期、この地に福井藩藩邸が置かれた。「京大絵図」(1831)にも描かれている。
 1852年2月から4月、橋本左内は江戸より京都に入り、福井藩邸内に居住していた。
 現代、1951年、三井家の「北家」の敷地が藤田観光所有となる。現在は京都国際ホテルが所有している。
 1961年、京都国際ホテルが開業する。
 1983年-1985年、堀河院九町で発掘調査が行われる。
 1986年、京都全日空ホテルが開業する。
 1989年、記念碑「堀河天皇里内裏址」が京都国際ホテル正面玄関に立てられる。
 1993年、堀河院の発掘調査が行われる。
 2006年、堀河院の発掘調査が行われる。
 2007年、京都市立音楽高校(京都全日空ホテル南)移設に伴い、旧城巽中学校跡地で京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われた。堀河院の庭園の池跡が2つ見つかる。
 2013年、堀河院の井戸跡から出土した鎌倉時代初期(1200年前後)の土師器小皿(1983年出土)に、ひらがなの「いろは歌」中43文字(4文字欠損)が確認された。ひらがな全文が書かれた史料としては最古になる。
藤原基経 平安時代前期の公卿・藤原基経(ふじわら の もとつね、836-891、堀川太政大臣)。長良と藤原総継の娘乙春の3男に生まれる。叔父・藤原良房の養子となり、その後継者となる。参議、中納言、右大臣、第57代・陽成天皇の摂政、太政大臣と登り、第58代・光孝天皇の事実上の人臣(臣下)最初の関白となる。887年、第59代・宇多天皇即位の際に、基経を関白に任じた勅書に対して不満のため、政務を怠業、天皇を譲歩させ勅書を改めた阿衡(あこう)事件を起こした。邸宅の堀河院、閑院(かんいん)を所有していた。
◆堀河天皇 平安時代後期の第73代・堀河天皇(ほりかわ てんのう、1107-1079)。諱は善仁(たるひと)。父は第72代・白河天皇、母は右大臣源顕房の娘・賢子。1086年、父・白河天皇の譲位により、立太子と同時に即位。父・白河上皇が院政を行う。1089年、元服。在位のまま病により亡くなる。関白・藤原師通、藤原通俊、大江匡房らに補佐され、後世に「末代の賢王」と称賛された。
 堀河院を好み、内裏ではなく在位中の大半をこの地で過ごした。和歌を好み、堀河院歌壇が形成される。笛、笙、神楽を嗜み宮中で管弦の会を催した。
◆讃岐典侍 平安時代後期の女官・歌人・讃岐典侍(さぬき の てんじ、1079?-?)。藤原長子。父は藤原道綱の孫・顕綱。1100年、第73代・堀河天皇に仕え、1101年、典侍となる。1107年、堀河天皇没後、白河院(第72代)からの要請で第74代・鳥羽天皇にも出仕した。1109年頃、女流文学『讃岐典侍日記』上下巻を記した。堀河天皇の発病から亡くなるまでの看護、宮中のようす、没後の思慕などが記述されている。1118年、堀河院の霊と称して妖言を奏すようになる。1119年、出仕停止。
◆源通具 鎌倉時代の公卿・歌人の源通具(みなもと の みちとも、1171-1227)。源通親の次男、母は平教盛の娘。1201年、参議。のち正二位、大納言。父とともに後鳥羽院歌壇で活躍し、1201年、和歌所寄人、「新古今和歌集」撰者となった。「新古今和歌集」以下の勅撰集に入る。道元は子とも、異母弟でその養父ともいう。堀川大納言とよばれた。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
 当ホテル内に道元の歌碑「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」が立つ。
◆松永昌三 安土・桃山時代-江戸時代の俳人・国学者の松永昌三(まつなが しょうぞう、1592-1657)。父は歌人、俳人の松永貞徳。儒学者・藤原惺窩に学ぶ。儒教・仏教・道教、詩文に秀でた。この地に講習堂、ほかに春秋館、尺五堂などの塾も開く。
◆橋本左内 江戸時代後期の武士・医師の橋本左内(はしもと さない、1834-1859)。藩医の橋本長綱の長男。越前福井藩士。緒方洪庵に学び、藩医となる。1854年、江戸に出て政治家・学者の藤田東湖らを知る。藩主・松平慶永の侍講兼内用掛となる。開国貿易論を提唱、将軍継嗣に一橋慶喜を擁立した。安政の大獄(1858-1859)で継嗣問題への介入を理由に小塚原刑場で斬首となった。享年26歳。
 1852年2月から4月、江戸より京都に入り福井藩邸内に居住した。桃井亮太郎、桃井伊織との偽名で藩邸に詰めていた。
◆堀河院 平安時代に営まれた大邸宅の堀河院(堀河殿)は、平安京左京三条二坊九町-十町にあった。二条通南と堀川通東の東西120m、南北250mの地域に存在した。関白・藤原基経(836-891)が造営し、東堀川に面して正門の西門が開いていたため堀河院と呼ばれた。
 里内裏の頃、中央の寝殿の南に南庭、さらに南池が広がっていた。東に東透廊があり、南の池端まで伸びて東釣殿に繋がっていた。ほかに母屋、北対屋、西北対屋、西侍廊、西随身所、北に中門、東中門、西中門などがあった。行事のために本邸を使い、宴会はこの地で行われた。院内には美しい苑池(南池)があったという。宴の際に、公卿の牛車が堀川の東に並び、牛は二条堀川の橋欄干に繋がれていたという。
 基経没後、子の左大臣・仲平、その娘、さらに関白・藤原兼通の所有と移る。円融上皇の里内裏としても使われた。兼通の子・顕光が引き継ぐ。堀河天皇の里内裏となり最盛期を迎える。「讃岐典侍日記」(1109?)には、近親の女房が見た天皇が描かれている。鎌倉時代、摂政左大臣で歌人・藤原良経、さらに、道元の養父・源通具の堀河第と変遷した。(角田文衛博士の碑文)
 2007年の京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査によると、堀河院は1町(120m四方)全域が庭園になっていた。
 1983年-1984年、敷地の北半分、九町の発掘調査では、平安時代後期の苑池、遣水遺構、滝石組が見つかってる。苑池(東西33m、南北15m、深さ0.5-0.6m)は、北東から南西にあった。北東に滝組(高さ1m)があった。滝組は、全日空ホテル敷地内に復元され、遣水の景石群が形を変えて保存されている。
 2006年-2007年に敷地の南半分の十町で発掘された苑池(東西18m、南北15m、深さ0.8m)は、11世紀中期-後期になる。景石があり、池底の礎石は釣殿のものと推定されている。現在、堀川音楽学校敷地内に復元されている。
 十町の北西部の池は、12世紀前半まで存在した。三日月形の池(南北26m、東西15m、深さ0.8m)には、南岸に粘土がに張られ出島もあった。
◆福井藩邸 江戸時代後期、福井藩邸は現在の京都国際ホテル一帯(油小路二条下る西側)に存在した。福井藩(越前藩)は、安土・桃山時代、1600年、徳川家康の二男・結城秀康(1574-1607)が封ぜられたのに始まる。親藩、御家門の雄藩だった。京都の藩邸には留守居役が詰めた。 幕末に14代・松平慶永(1828-1890)が藩主となり、幕府政治の改革と、公武合体運動を進めた。
◆遺跡 京都国際ホテル内の、江戸時代の三井家「北家」の敷地跡に、かつての庭、土塀の一部が残されている。表書院、裏座敷などは円通寺の前に移されたという。仏間は真如堂へ移築されたという。梶井宮家の門(河原町今出川北西)を現在地に移築したという。
◆歌碑 道元の歌碑「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」が京都国際ホテルの日本庭園内に立てられている。道元の詞書は「本来の面目を詠ず」とある。道元の和歌を集めた室町時代中期の「傘松道詠(しょうさんどうえい)」中の一首より。
 歌碑は宮城県産伊達冠石の三本の石柱を組合わせている。揮毫は書家・石川九楊(1945-)による。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡 28 京都 Ⅱ』『京都市文化財ブックス28集 平安京』『京都大事典』『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『日本の名僧』『平安京散策』、京都国際ホテルのサイト


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