西土手刑場跡・壺井・壺井地蔵 (京都市中京区)
The ruins of Nishidote-keijo (execution ground)
西土手刑場跡・壺井・壺井地蔵  西土手刑場跡・壺井・壺井地蔵
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西土手刑場跡の一部とみられるとある墓所


刑場跡とみられる付近を流れている紙屋川、近くに「西土居通」があり、御土居の遺構になっている。



「古蹟 壺井地蔵尊」の石標


「名水 壺井」の石板


壺井、井戸はすでに涸れている。井戸跡の上に地蔵尊が安置されている。


壺井、地蔵尊


壺井、井戸跡は道路面より低い位置にある。


壺井堂(壷井の茶所)


壺井堂



壺井堂、清遊法師の墓
 江戸時代以降、京都の西の死刑場(御仕置場)は西土手刑場(にしどて けいじょう、西ノ京刑場、西土手御仕置場、西郊刑場)とされた。現在の円町付近、紙屋川以西(土手・お土居の西、嵯峨街道二条口近く)にあったとみられている。
 ここでは主に国事犯が処刑されていた。刑場の西には罪人に末期の水を飲ませたという壺井という井泉があった。 
◆歴史年表 平安時代後期、西京は衰微し、西囚獄(右獄、西獄、一条二坊十四町)は残る。
 1159年、平治の乱で、右獄で信西入道が晒首になる。(『平治物語絵巻』)
 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は、京都の町を取り囲む土塁「御土居(おどい)」を築造した。円町付近は「御土居の袖」内に入る。
 江戸時代初期、西土手刑場が開かれた。
 1675年、壺井、壺井地蔵の記述がある。(『太秦村行記』)
 1754年、5人の罪人が六角獄舎より出され、市中引き回しの後、西土手刑場で斬首された。医学者・山脇東洋は京都所司代の許可を得て、六角牢屋敷で、そのうちの一人の死刑囚・嘉右衛門(俗称は屈嘉)の解剖を行っている。
 1770年、西土手刑場で川口信任により解剖が行われた。(『解屍編』)
 1786年、西御土居の外、二条通の北、川の西に「断罪場」(西土手刑場?)」(西ノ京上合町の一部と中御門町の一部?)の記述がある。(『洛中洛外絵図』)
 1797年、西土手刑場で柚木太淳の解剖が行われる。(『解体預言』)
 1798年、西土手刑場で施薬院三雲環善による解剖が行われたとみられる。(『施薬院解男体臓図』)
 1812年、西土手刑場で小森桃塢による解剖が行われたとみられる。(『解観大意』)
 1821年、西土手刑場で小森桃塢による解剖が行われたとみられる。(『解臓図腑』)
 1855年、西土手刑場付近に「御仕置場」の記載がある。(「西京邑田畑惣絵図」)
 1877年、西土手刑場跡から多数の白骨が見つかる。姓名を朱書した瓦片も発見された。これらは、平野国臣(1828-1864)ほか37人の未決囚の遺骨であることが判明し、近くの竹林寺に移葬され供養された。
◆西土手刑場 平安時代、西堀河小路(西堀川小路、現在の西土居通)沿いには、平安京の官設市場の西市、邸宅の西院、厨町、右獄(西獄)などがあった。右獄は、一条二坊十四町、西ノ京北円町付近にあり、南は丸太町通の北、西は西大路通を越えた西、東は紙屋川の西になる。さらに、その西に叙弘知行の私領があった。叙弘は鎌倉時代初期まで右獄の使庁官人として仕えた。
 江戸時代以降の西の刑場は、西土手刑場(西ノ京刑場)に固定された。場所は確定されていないが、現在の中京区西ノ京円町付近、西大路太子道の北にある共同墓地を含む付近一帯、また、西ノ京上合町の一部と中御門町の一部、また、その南の西ノ京上合町の一部と西大路通を挟んだ中御門東町の一部と推定されている。付近は、豊臣秀吉が築造した御土居の外(西)に当たる。当時は死を穢れとして忌み、洛中ではなく洛外にあえて配置された。罪人は六角獄舎より出され、市中引き回しの後、西土手刑場で斬首された。
 市中引き回しの道筋は、六角獄舎より三条通を東へ、油小路通を北へ、一条通を東へ、室町通を南へ、松原辻より西へ、大宮を北へ、三条通を西へ、御土居外を北へ向かい、壺井の井戸まで来て、一杯の水を与えられ西土手刑場に入った。(「京都御役所向大概覚書」)
 幕末の絵地図には刑場付近に、「御仕置場」の記載があるという。(「西京邑田畑惣絵図」、1855)。
 医学者・山脇東洋(1706-1762)は、1754年、 京都所司代の官許を得て、西土手刑場で刑死した六角獄舎の死刑囚・屈嘉の解剖と観察を六角獄舎で行っている。これは、日本最初の人体解屍観臓になった。西土手刑場では、川口信任、柚木太淳、小森桃塢らが解剖を行った。
◆壺井 刑場の西にある壺井町(東西の太子道と南北の春日通<佐井通>が交差する東南角)に「壺井」と呼ばれている井戸跡がある。
 伝承によれば、奈良時代の僧・行基(668-749)は、都での疫病流行の際に、この地に霊水を見つけ、薬を合わせて病人に飲ませたという。
 江戸時代には、名水とされたという。かつて罪人は六角獄舎より市中引き回しを終え、この井戸に立ち寄り、末期の水を飲まされた。その後、西土手刑場に送られ斬首刑が執行されていたという。井水は、現在は涸れている。下水道工事以後、地下水脈が途切れたためという。
 江戸時代前期以前、壺井より地蔵が出土したという。江戸時代の黒川道祐『太秦村行記』(1675年)に記されている。「壺井の地蔵とて、この辺りに井あり。この内より掘り出せりとて、ふるき壺の内に座せり、古へ好事の者、埋みおきけるか」。井戸の中から掘り出された壺の中に、座した地蔵が納められており、「壺井地蔵」と名付けられという。
◆壺井地蔵 壷井に壷井地蔵といわれる小さな地蔵尊が安置されている。蓮華座に結跏趺坐し、膝の上に両手で宝珠を抱えている。半肉彫、花崗岩製、像高30cm。
◆壺井堂 壺井地蔵のさらに西、太子道沿い南に面して壺井堂(壷井の茶所)が建つ。太子道は、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)が建立したという太秦の広隆寺まで通じる参詣の道だった。江戸時代、通りには参詣者を相手にした茶店が建ち並んでいた。現在の堂は、その一軒として江戸時代に建てられたものという。かつては通りの北にあり、辻向いの朱雀第八小学校校舎建設に伴い現在の南に移された。
 堂内に、江戸時代の木造の壺井地蔵が安置されている。地蔵は壺形台座の上に坐す。ただ、壺井で出土した壺内の地蔵とは関係はないという。壺井地蔵は、右手に錫杖、左手に宝珠を捧げ、蓮華座に左足を下げた半跏像をとる。像高2m、寄木造、玉眼嵌入。
 境内に、六十六部供養塔(願主・清遊上人)が立つ。罪人の供養所として立てられたものという。江戸時代、嘉永年間(1848-1854)、六十六部清遊(ろくじゅうろくぶ せいゆう)は、堂に立ち寄り、やがて堂守になり中興した。上人は66の霊場に法華経を納めた修行者という。亡くなる前に、地蔵尊の祭祀と墓前の灯明を託した。
 清遊法師の墓、地蔵尊を祀る祠、石灯籠などが立つ。
◆御土居 この付近の御土居は、現在の紙屋川の東に南北にあり、いまは西土居通になっている。刑場の北付近より東西の通りを西へ入り、南北の春日通(佐井通)を北へ延びていた。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』『京の医史跡探訪』『増補版 京都の医史跡探訪』『京都の地名検証 3』『京都大事典』『洛中洛外』『京都まちかど遺産めぐり』『新版 京のお地蔵さん』


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 壺井 中京区西ノ京北壺井町 
    壺井地蔵 中京区西ノ京北壺井町 

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