末慶寺 (京都市下京区) 
Matsukei-ji Temple
末慶寺 末慶寺 
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門脇に立つ「烈女畠山勇子の墓」の石標




本堂
 五条大宮北西の末慶寺(まつけいじ)は、ロシア皇太子が警護の警察官に傷つけられた大津事件に関わる。事件後に自殺した烈女とされた畠山勇子の墓がある。 
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。 
◆歴史年表 創建変遷の詳細は不明。
 かつて、五条新町通山崎町(下京区新町通松原下ル富永町付近)にあったという。
 江戸時代、1634年頃まで、隣接していた南蛮寺の西洞院キリシタン寺破却に伴い、下京区冨小路通六条下ルに移される。
 1641年、枳殻邸建設に伴い現在地に移転となる。
 近代、1891年、大津事件で自死した畠山勇子が住持・和田準然により境内に葬られる。
 1895年、文筆家・ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が勇子の墓参に訪れる。
 1907年、ポルトガルの外交官・モラエスは勇子の墓参に訪れた。
◆畠山勇子 近代の女性・畠山勇子(1865-1891)。安房国鴨川に生まれた。父は治兵衛。生家は資産家だった。神職に漢学を習い、歴史、政治に興味を持つ。父は志士を支援し家運傾く。1882年、17歳で若松吉蔵に嫁いだ。1888年23歳で離婚し、勤王の侠商・伯父の榎本六兵衛を頼り上京した。お針子として身を立てる。万里小路家、横浜の実業家原六郎家を経て、日本橋区室町の魚屋の下女となる。1891年、大津事件後、衣類を質に入れて旅費を得、5月20日、皇太子一行が静養していた京都へ向かう。本願寺、清水寺、知恩院などを参詣の後、夕刻、京都府庁の門前で白布を敷いた。両足を小帯で括り、剃刀で腹と喉を切り自殺した。ロシア政府、日本政府、親族への遺書10通が残されていた。天皇の立場を慮り、自らの死によりロシアに詫びようとしたという。27歳。
 京都に身寄りなく、引き取り手のない遺体は、末慶寺住持・和田準然により境内に葬られた。
◆大津事件 近代、1891年5月11日、訪日中のロシアのニコライ皇太子(1894-1917、のちの皇帝ニコライ2世)は、琵琶湖遊覧の帰りに、大津町で警衛中の滋賀県巡査・津田三蔵(1855-1891)にサーベルで斬りつけられる。皇太子は命に別条はなく、頭部に負傷する。犯行動機は諸説あり不明。5月13日、第112代・明治天皇は京都の常盤ホテルに宿泊静養していた皇太子を見舞う。5月19日、皇太子は天皇に見送られ神戸港より帰国の途につく。
 日本政府は裁判で、被告を皇族に関する刑法規定を準用し、死刑とするように要請した。だが、裁判官・児島惟謙(1837‐1908)は、通常謀殺未遂の罪を適用するように担当裁判官を説いた。1891年津田は死刑ではなく無期徒刑を判決される。北海道釧路集治監に収容されるが、同年、肺炎により病獄死した。
 ニコライ2世は、ボリシェヴィキ十月革命後、1917年7月17日、ウラル地方エカテリンブルクのイパチェフ館地下室で、一家7人、使用人とともに銃殺処刑されている。
◆ハーン 近代の英語教師・文学者・文芸評論家のラフカディオ・ハーン(1850-1904)。ギリシャに生まれる。両親の離婚、育ての親・大叔母の破産、父の死、自身の左眼失明後、1869年、渡米、23歳で新聞記者となる。1890年、来日し、松江の師範学校と中学校の英語教師となる。1891年松江藩士の娘小泉セツと結婚した。熊本五高に移る。その後、国内各所を旅行している。1894年、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞「神戸クロニクル」の記者となる。1896年、帰化し小泉八雲と名乗る。 東京帝大の英文学講師、1904年、より早稲田大学の創立者・大隈重信に招かれ教授に就く。
 1895年、ハーンは末慶寺を訪ね、畠山勇子の遺品などを見ている。大津事件の津田巡査について、愛国心によるものと評した。勇子について『東の国から』、『仏の畠の落穂集』にも記している。
◆モラエス 近代の軍人・外交官・文筆家のヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)。ポルトガルに生まれた。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官、1889年、来日した。1893年、マカオ港務局副司令、外交官となる。1899年、日本のポルトガル領事館在神戸副領事、1912年、総領事となる。1902年から1913年まで、新聞「コメルシオ・ド・ポルト」に日本紹介記事を寄稿する。1900年より、神戸で芸者おヨネと暮らした。1912年、ヨネ没後、1913年、職を辞し、ヨネの故郷・徳島市に移住、斉藤コハル(ヨネの妹)と暮らした。
 モラエスは、ハーンとの接触はなかったが敬愛していた。1907年、ハーンの跡を追うように畠山勇子の墓参に末慶寺を訪れる。雑誌『セロンイス』(1907)、後に原稿を纏めた著書『日本夜話』(1926)に書く。勇子については「大和だましい」の発露と見ていた。住職との間に書簡を交わしている。
◆文化財 畠山勇子の遺品は、帯、お守り、財布、黄楊櫛(2具)、簪(かんざし)、鉛筆、写真、自刃に使った血染めの剃刀(現在は錆びている)、臍の緒、遺書を書いた残りの和紙、手紙、葉書、冊子などが残されている。
 ハーンが寺に贈った自著『仏の畠の落穂集』、モラエスが寄稿した雑誌『セロンイス』(1907)、モラエスが住持に宛てた書簡9通(1907-1913)、ただし日本人に代筆させたものが残る。
◆墓 本堂裏に、府下有志により建立された畠山勇子の墓がある。青石の自然石で高さは3m、幅3mほどある。表に「烈女畠山勇子之墓」、裏に「有憂国事来訴京都府庁自断喉死二十七」と刻まれている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『洛中洛外』、「東京外国語大学論集第46号 京都, 末慶寺所蔵 W・de MoraeS書簡について」『おんなの史跡を歩く』


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