観空寺 (観空寺観音堂) (京都市右京区) 
Kanku-ji Temple
観空寺 観空寺
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水田の中を通る参道


本堂


獅子口

 大覚寺の西、田園地帯に観空寺(かんくうじ)は建つ。周辺に「嵯峨観空寺」の地名が複数残されている。
 境内には、小堂・観音堂と地域の衆会所だけがある。 
 真言宗、大覚寺の境外仏堂、本尊は十一面観音。
 洛西三十三所第18番。
歴史年表 平安時代、第52代・嵯峨天皇は、大沢池北に別荘「嵯峨院」を営んだ。833年以降、この地に住む。苑池は観月の名所として知られ、名古曾(なこそ)の滝が組まれていた。
 870年、9世紀(801-900)前半とも、嵯峨天皇の勅願により創建されたという。定額寺となり、嵯峨源氏を檀越とする。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃する。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、第108代・後水尾天皇が復興したという。
 その後、荒廃する。大覚寺の境外仏堂として真言宗寺院となる。
 江戸時代、商家・住友家初代・住友政友(1585-1652)により修復され、現在の寺観を整える。また、当寺観音の加護により別子銅山開発を手掛けたともいう。
◆嵯峨天皇 平安時代初期の第52代・嵯峨天皇(さが てんのう、786-842)。第50代・桓武天皇と皇后藤原乙牟漏の次男。天皇に寵愛され、809年、即位した。同年、平城太上天皇の変(薬子の変)で、藤原薬子が兄仲成と、平城上皇(第51代)権勢復権のため兵を挙げようとしたが鎮圧した。その後、蔵人頭を任じる。戦勝祈願して賀茂斎王を置く。斎院初代は娘・有智子内親王とした。823年、譲位後の上皇御所として冷泉院、朱雀院を設けた。唐風文化を勧め、漢詩文を好み、書は三筆のひとり(空海、橘逸勢)とされた。冷泉院、嵯峨院(没後に大覚寺)で過ごした。没した2日後、政治事件・承和の変が起きた。
◆嵯峨源氏 嵯峨源氏(さがげんじ)は、奈良時代から平安時代の第52代・嵯峨天皇(786-842)の子孫で、賜姓(しせい)源氏の初例となる。天皇には50人もの皇子女が生まれた。815年、このうちの32人に源朝臣を与え臣籍降下させた。
 源氏初代は源信(みなものの まこと)、源常(ときわ)、源弘(ひろむ)、源融(とおる)などで、朝廷で一大勢力となる。ただ、3代目以降は中下級貴族として衰微、地方武士と化した。
◆住友政友 江戸時代の商人・住友政友(すみとも まさとも、1585-1652)。越前国に生まれる。父は柴田勝家に仕えた武士・住友政行。1596年、母、弟と京都に移る。新興の涅槃宗開祖・及意空源に師事、文殊院空禅と称した。1617年、理解者の陽成天皇没後、邪教とされ師と共に佐倉藩配流となる。1618年、天台宗・天海による涅槃宗を天台宗三明院門流として存続させることに反し、1621年、帰京還俗した。員外嘉休と改名、出版業・薬種業の富士屋(仏光寺上柳町)を開き富士屋嘉休とも名乗る。1647年、嵯峨清涼寺子院の地蔵院境内に、雙軒庵を建て隠居する。臨西と号し教化活動を続けた。庵で住友精神の基とされる「文殊院旨意書」を著す。浄土宗永養寺に埋葬された。
 政友は商家・住友家家祖とされている。また、門弟で義兄の銅職人・蘇我理右衛門は住友の業祖としている。南蛮吹きといわれる銅精練(銀銅吹き分け)技術を開発し、住友躍進の契機になった。なお、政友が当寺の観音の霊夢により伊予別子銅山を発見したという。ただ、1690年、田向重右衛門一行が別子銅山を検分し、翌1691年、4代・友芳の時、住友家が銅山開坑を願い出ている。
◆本尊 本尊の十一面観音は奈良時代の行基(668-749)作という。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の寺社505を歩く 下』『洛西探訪』『京都大事典』


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蟇股


手水舎

愛宕山の町石?

石碑

近くに見える五山送り火の鳥居
 観空寺 〒616-8444 京都市右京区嵯峨観空寺久保殿町12 
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