法伝寺 (京都市伏見区)
Hoden-ji Temple
法伝寺 法伝寺 
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山門、鬼瓦


「浄土宗 瑞華山 法傳寺」の石標
 鴨川下流東岸、千本通(旧鳥羽街道)に面して法伝(傳)寺(ほうでんじ)がある。鳥羽離宮の遺仏、また、鳥羽伏見の戦いの東軍戦没者供養碑、関連資料などが残されている。
 院号は薬師院、山号は瑞華山という。
 浄土宗、本尊は薬師如来坐像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。   
 奈良時代、僧・行基(668-749)が開基したともいう。当初は真言宗だったともいう。
 南北朝時代、1360年、浄土宗に改宗したという。
 近代、1868年、1月3-5日、周辺で鳥羽伏見の戦いの激しい戦闘があった。
 1897年、「戊辰東軍戦死之碑」が境内に立てられた。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆本尊 薬師堂の本尊、木造薬師如来坐像(京都市指定・登録文化財)は、平安時代前期作といわれている。裳先に旋転文がある。衣に朱、肉身に漆箔を施している。頭部は低い肉髻、広い面幅、穏やかな目鼻立ち、体部には厚み、膝張。行基作ともいい、鳥羽殿にあった遺仏ともいう。
◆鳥羽・伏見の戦い 近代、1868年1月3日-5日、鳥羽では鳥羽・伏見の戦いの激しい戦闘が繰り広げられた。この戦いで敗れた東軍(幕府軍、会津軍)戦死者を供養する石碑「戊辰東軍戦死之碑」が山門北に立つ。東軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども所蔵する。
 法伝寺の北東にある悲願寺共同墓地(伏見区下鳥羽柳長町)内には、 「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑が立てられている。鳥羽・伏見の戦い後、戦死した将兵の遺骸はそのまま放置されていた。戦乱で家を焼かれた下鳥羽の人々は、それでもこれら引き取り手のない骸を火葬のうえ埋葬したという。1984年、旧悲願寺境内にあった石標を現在地の墓地内に移し改葬されている。
 悲願寺は奈良時代の行基(668-749)の開基によるという。1973年、境内の一部の公園化にともない、1984年、東隣の現在地に地蔵堂、六地蔵祠、墓碑、遺骨を移転し、落慶が催された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『週刊 京都を歩く 41』『新選組と幕末の京都』『日本の名僧』


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本堂

本堂、扁額「瑞華山」

「戦死骨埋骨東儿悲願寺墓地」の石標

「戊辰東軍戦死之碑  大宰府宮小路康文書」の碑

クスノキ

宝塔の墓石

【参照】「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑

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法伝寺 〒612-8477 京都市伏見区下鳥羽中三町61   075-611-5713 
    悲願寺共同墓地  京都市伏見区下鳥羽柳長町

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