解脱寺跡・閼伽井跡・小野山荘・常寿院 (京都市左京区岩倉長谷)
The ruins of Gedatsu-ji Temple
解脱寺跡・閼伽井跡 解脱寺跡・閼伽井跡 
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「解脱寺閼伽井之碑」


「解脱寺閼伽井之碑」、碑文はいまも鮮明に残る。


閼伽井跡、荒廃している。いまもわずかに湧水が続いていた。


周辺の杉林



朗詠谷(御所谷)」の石標、藤原公任は山荘(朗詠谷)に隠棲した。


「聖護院門跡廟所」の石標


朗詠谷近くの湖
飛騨池


朗詠谷近くの瓢箪崩山
 平安時代、左京区岩倉長谷(ながたに)の山中に、解脱寺(げだつじ)という寺院があった。第64代・円融天皇女御・東三条院藤原詮子(せんし)が建立したという。 
 現在、その跡地といわれる里に近い林に、碑と閼伽井跡が残されている。井泉はいまもわずかに湧水が続いている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代中期、992年、比叡山延暦寺で天台座主を巡る山門派、寺門派の争いに際し、勧修権律師、門弟30人余人が解脱寺に移ったともいう。
 999年以前、長保年間(999-1004)、正暦年間(990-994)初期とも、解脱寺は東三条院藤原詮子(962-1001)が建立する。国家鎮護のためとして、御願寺(皇室皇后などの発願による)となる。小堂には、白檀阿弥陀仏、観音、勢至菩薩を安置した。『権記』には、「長多仁(ながたに)に詣づ」と記され、藤原行成、源成信が参詣した。(『扶桑略記』同年条、『権記』)。境内地については長谷東方小松原とも、現在の東方にある瓢箪崩山(532m)に向かう御所谷ともいう。(『山城名勝志』)。天台宗三井寺派であり、聖護院の属寺だった。観修を開山としたという。観修は、法性寺座主職をめぐる円仁派、円珍派門徒の対立により、解脱寺に移り住職となる。30余人が住したという。(『園城寺伝記』)
 1002年、観修(かんしゅう)を導師として常行三昧堂の建立供養が行われた。不断念仏を修する。本尊、諸像が安置される。(『寺門伝記補録』)。また、常行三昧堂で、白檀の阿弥陀三尊像が新造され、『観無量寿経』16巻の書写、3日間の不断念仏が行われた。(『権記』)
 1007年、藤原道長は、長谷の観修僧正と親しく、物を送っている。 (『御堂関白記』)
 1008年、道長は、長谷の観修僧正の病が重いため、別の者を配置する。 (『御堂関白記』)
 1025年、公卿・学者の藤原公任(966-1041)が出家のために長谷に入る。 (『栄花物語』)
 1026年、1024年とも、藤原公任が当寺で出家する。(『扶桑略記』『日本累記』)。その後、衰微する。
 室町時代、1480年、足利義政は、岩倉長谷の解脱寺に参籠し、聖護院僧正道興の御坊に泊まる。御坊の修理が行われる。同年、解脱寺観音が開帳され、義政が御宿坊に滞在し毎日参詣している。(『長興宿禰記』)
 室町時代、永正年間(1504-1521)まで、寺は存在したとみられている。(『解脱寺潅頂指図』、実相寺)。その後、廃寺になる。
 江戸時代、天保年間(1820-1844)まで、寺門派として寺は存在したともいう。
 1840年-1842年、解脱寺の修理が行われた。本尊の遷座が行われ、大護摩を修した際に、園城寺御堂衆2人が加わる。
 1867年、華王院権僧正により「解脱寺閼伽井之」碑が建立される。
◆東三条院 平安時代中期の女性・東三条院(962-1002)。藤原兼家の娘、母は藤原時姫、藤原道長の姉。987年、入内、第64代・円融天皇の女御。980年、懐仁(やすひと)親王(第66代・一条天皇)を産む。一条天皇が即位し皇太后となる。991年、出家。皇太后宮職を廃止、太上天皇に準じ女院号の初めになる東三条院を授けられた。名は詮子(せんし)。
◆観修 平安時代中期の天台宗僧・観修(かんしゅ、945-1008)。京都に生まれる。勢祐、余慶に学ぶ。法性寺座主職をめぐる円仁系、円珍系門徒対立により解脱寺に移る。996年、園城寺長吏、1000年、法務、大僧正、1001年、辞職。藤原道長の帰依により、道長建立の木幡・浄妙寺別当。宋・源清の日本天台の著作の一つ『法華示珠指』下巻の批判をした。諡号は智静。勧修、長谷大僧正、解脱寺僧正とも呼ばれた。解脱寺で亡くなる。
◆藤原公任 平安時代中期の公卿・学者の藤原公任(ふじわら の きんとう、966-1041)。関白・頼忠の嫡男、母は醍醐天皇皇子・代明親王の娘厳子。蔵人頭、参議、1009年、権大納言を歴任。1026年、解脱寺で出家、この地の「小野山荘」(朗詠谷)に隠棲した。藤原道長と親しく、歌合や遊興で和歌を披露した。漢詩にもすぐれた。私選集の『拾遺抄』、勅撰和歌集にも多く入る。四条大納言と称された。有職故実の三大故実書のひとつ『北山抄』10巻を著した。小野山荘で没した。
◆藤原歓子
 平安時代後期の第70代・冷泉天皇皇后・藤原歓子(ふじわら の かんし/よしこ、1021-1102)。藤原教通の三女。母は藤原公任の娘。1047年、入内、1048年、女御、1049年、皇子を出産するが皇子はすぐに亡くなる。1051年頃より、兄・静円の僧坊がある洛北小野に籠居した。1068年、皇后に冊立、天皇には皇太后章子内親王・皇后歓子・中宮寛子と3人の正妃が並ぶことになる。同年天皇が没する。1074年、皇太后、小野の山荘を改め常寿院を建立した。1077年、出家した。1091年、白河上皇は歓子の山荘を訪れたという。(「小野御幸」「雪見御幸」)。1095年、小野堂を供養した。「小野山荘」で亡くなり宇治木幡の宇治陵に埋葬された。小野皇太后とも呼ばれた。琵琶、絵画に長じた。
◆雄仁入道親王 江戸時代後期の皇族・雄仁入道親王(ゆうにんにゅうどう しんのう、1821-1868)。嘉言(よしこと)親王ともいう。伏見宮邦家親王の王子。1831年、聖護院の盈仁(えいにん)入道親王の弟子、第119代・光格天皇の養子。1832年、親王となり得度、山科・曼殊院に入室した。後に聖護院門跡。1868年、還俗した。内国事務総督、海軍総督など歴任した。一時、聖護院宮とも称した。
史跡 現在、長谷町(左京区)の人里に近い杉林の中に、解脱寺の閼伽井跡とみられる小さな井戸と、江戸時代、1864年に聖護院門跡雄仁入道親王により立てられた碑、石積みがある。
 「解脱寺閼伽井之碑」(高280cm×幅120cm×奥行56cm)の碑文には、「華王院権僧正暹煦謹誌」とある。寺、観修の簡単な来歴、観修が境内に閼伽井を掘り、清泉を得たと刻む。親王は観修遺跡の井泉に深い感慨を持ち建立したものという。
 なお、長源寺(左京区岩倉長谷町)に、解脱時の本尊・十一面観音と伝わる仏像が安置されている。ただ、下半身に補修が施されているという。
◆長谷村解脱寺法師 長谷の地は寺門派、聖護院との関わりが深く、法師拾家といわれる家(実際には12家)があったという。
 法師家は天皇が亡くなった際に、泉涌寺の浮橋より御葬所まで、御宝輿の護衛の役を任じられていた。長谷には聖護院に属した10人が解脱寺法師としており、ほかに岩倉・大雲寺に15人、宇治・平等院に5人、延暦寺に60人、園城寺に36人が置かれ、合計126人存在したという。(平安時代、1000年の聖護院宮執事の文書) 「
◆朗詠谷 長谷川沿いを瓢箪崩れ山に向かうと、貯水池「飛騨池」があり、その手前に「朗詠谷(御所谷)」の石標が立てられている。 この地に、藤原公任の山荘(朗詠谷)があり公任が隠棲した。ここで、『和漢朗詠集』を編纂したといわれる。実際には、それ以前に作られたものという。山荘には、子の中納言て定頼(995-1045)もしばしば訪れた。 
 1025年、公任は愛娘を亡くし、1026年、解脱寺で出家している。1041年に公任は山荘で没した。
◆小野山荘・常寿院 平安時代、1074年、皇太后・藤原歓子は、小野郷の小野山荘を改め常寿院を建立した。山荘は祖父・公任より引き継いでいる。場所は、現在の長谷御所谷(朗詠谷)付近という。1077年、歓子は出家し、父・教通より受け継いだ莫大な荘園を常寿院に施入した。
 1091年、大雪の朝、白河上皇(第72代)は、小野に歓子を訪ねる。(「小野御幸」「雪見御幸」)。1102年、歓子の没後、寺は青蓮院末になり、門主が代々に渡り別当を務めた。室町時代、15世紀(1401-1500)に寺は史料より消えている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『洛北岩倉誌』『岩倉長谷町千年の足跡』『京都・山城寺院神社大事典』『平安京散策』『京都大事典』『京都紫式部のまち』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』


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 解脱寺・閼伽井跡 京都市左京区岩倉長谷御殿町東方小松原 
    朗詠谷(御所谷)の石標左京区岩倉長谷

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