高陽院跡 (京都市中京区)
The ruins of the residence of Kayanoin
高陽院跡 高陽院跡 
  Home   Home

説明板、マンション「高陽院」


現在はマンション「高陽院」が建つ。


京都市の説明板、石田大成社ビル


高陽院の敷地は赤い実線内になる。池は中央付近より南西にかけてあった。中央付近の東西の通りは丸太町通、左端の南北の通りは堀川通になる。現在地(石田大成社ビル)は、赤い塗り潰しの部分になる。説明板より。

高陽院の庭園遺構、石田大成社本社ビル。説明板より。

平安時代、1024年、高陽院に第68代・後一条天皇、東宮(後の第69代・後朱雀天皇)の行幸があり、競馬が催された。天皇は上部左に裾だけが描かれている。東宮は赤い装束を身に着けている。手前の黒い装束の公卿らは、簀子縁に座して裾を庭側に垂らしている。苑池には橋が架けられている。(「駒競行幸絵巻」)、説明板より。

高陽院の建物、池に迫り出した釣殿部分。(「駒競行幸絵巻」)、説明板より。


再現された高陽院の庭園の一部。出土した景石を用いたという。(石田大成社本社ビル屋上)。説明板より。


【参照】平安時代の高陽院の復元図、京都アスニー
 丸太町通堀川東、北側にあるマンション一角に、「高陽院跡(かやのいんあと)」と書かれた小さな金属板が設けられている。
 平安時代、この地には、第50代・桓武天皇第7皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅があった。以後、鎌倉時代まで公卿、天皇の里内裏として機能した。
◆歴史年表 平安時代、9世紀(801-900)、平安京左京二条二坊十町(中御門南、堀川東)に、第50代・桓武天皇の皇子・賀陽親王(794-871)の邸宅があった。
 871年、賀陽親王の没後、源定(みなもと の さだむ)が移住した。
 905年、焼失した。
 1021年、1019年とも、摂政・藤原頼通は、敷地を4町に広げ、寝殿造の建物を造営する。藤原実資は「天下の嘆く所」とその豪華絢爛ぶりを非難した。(『小右記』)。その後、頼通の子・師実、曽孫・忠実が伝領する。
 1022年、競馬(くらべうま)が催され、藤原道長が訪れた。
 1024年、第68代・後一条天皇、東宮(後の第69代・後朱雀天皇)の行幸がある。競馬が催された。(『駒競行幸絵巻』)
 第70代・後冷泉天皇(在位1045-1068)以来、5代の天皇の里内裏になる。「累代の皇居」と呼ばれる。
 第74代・鳥羽天皇皇后・藤原泰子(1095-1156)が住したことから、高陽院の女院号が与えられる。
 1039年、焼失する。
 1054年、焼失した。
 1080年、焼失する。
 1112年、焼失する。
 平安時代後期-鎌倉時代、後鳥羽上皇(1180-1239)は御所とし、院政の拠点になる。
 鎌倉時代、2町(十五町、十六町)に縮小される。
 13世紀(1201-1300)、衰退した。
 1221年、承久の乱に先立つ鎌倉幕府打倒の謀議が、院内で行われた。
 1223年、放火により焼失した。以後、再建されなかった。
 現代、1981年、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われ、庭園池跡の北岸が確認される。以後、数次にわたる調査が行われた。
 1988年、石田大成社本社ビル建設に際して、庭園遺構の一部が発見された。
 1997年、発掘調査が行われる。
 2005年、遺跡跡地の一部にマンションが建てられる。
◆賀陽親王 平安時代前期の皇族・賀陽親王(かや しんのう、794-871)。第50代・桓武天皇、多治比長野娘・真宗の子。822年、刑部卿、治部卿、中務卿などを歴任。855年、東大寺大仏の修造、861年、東大寺大仏修理落成供養会を監修した。京極寺(東京極大路東、三条北)を建立する。
◆藤原頼通 平安時代の公卿・藤原頼通(ふじわら の よりみち、992-1074)。父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘・倫子。13歳で春日祭使に選ばれた。1017年、第68代・後一条天皇の摂政を父・道長から譲られる。以後、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の摂関となる。妻(具平親王の娘隆姫)との間に女児は恵まれず、天皇外祖父として権勢をふるえなかった。1052年、宇治の別荘を寺院に改め平等院と名付けた。1068年、関白職を弟・教道に譲り、平等院に隠棲する。1072年、出家する。宇治殿、宇治大相国とも呼ばれる。荘園・高陽院を経営した。
◆高陽院 平安時代後期の鳥羽上皇女院・高陽院(かや の いん、1095-1156)。父は藤原忠実、母は源師子(しし)。1133年、入内した。1134年、皇后となり名を泰子(たいし)に改めた。上皇が皇后をたてた初例になる。1139年、高陽院の号を受ける。1141年、出家した。皇女・叡子内親王を養女にした。父・忠実から高陽院領を伝領する。高陽院内で亡くなり、洛東・福勝院護摩堂に埋葬された。 
◆邸宅の高陽院 平安時代の桓武天皇皇子・賀陽(かや)親王の邸宅は、北は中御門大路、西は堀川小路、東は西洞院大路、南は大炊御門(おおいみかど)大路に囲まれていた。南北2町(250m四方)の広さを有していた。
 1021年に、藤原頼通が完成させ、敷地は4町(左京二条二坊九町、十町、十五町、十六町)に拡大された。ほかの貴族邸宅の4倍の広さがあった。建物は寝殿造であり、四周に2つの池が掘られた。中島に釣殿が建てられていた。正門の西門は楼門であり、御堂、文堂が池に面してあった。敷地の東半分に馬場、馬場殿があり、南よりに築山(西山、東山)があった。『栄花物語』、藤原実資『小右記』、「駒競行幸絵巻」にも豪邸、豪華絢爛ぶりが記されている。
 その後、頼通は宇治・平等院に移る。平等院の起源は高陽院にあったともいう。高陽院は、後冷泉天皇以来、5代の天皇、上皇らの里内裏、院御所として使われた。里内裏としては、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇、第71代・後三条天皇、第72代・白河天皇、第73代・堀河天皇、第74代・鳥羽天皇に利用された。
 鎌倉時代、1223年に焼失、その後は再建されなかった。
 1981年、池泉跡の北岸が確認されている。自然石を敷き詰めた州浜、景石が出土している。少なくとも南北約140mの広大な池だったとみられている。その後、南岸の州浜も確認された。池には、奏楽を乗せた舟の「竜頭鷁首(りゅうとうげきす)り」を浮かべた。池は4回改変されている。その度に次第に縮小したという。平安京跡で発掘された庭園の池としては最大規模になる。1988年の敷地北東部の発掘調査により、池底が50-60㎝と高いため、苑池は2つ配されていたとみられる。池の汀は玉石を敷き、複雑な形をしていた。
 池より金粉蒔絵硯が発見された。なお、遺構は保存されなかった。石田大成社ビル屋上に、発掘された形跡を用いて庭園の一部(枯山水式)が復元されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 京都市の説明板、『日本の古代遺跡28京都Ⅱ』『平安の都』『古代を考える 平安の都』『京都市文化財ブックス28集 平安京』


   関連・周辺       周辺堀河院・道元の堀河第       関連宇治平等院(宇治市)        関連鳥羽離宮跡(安楽寿院)       関連京極寺       
平安京オーバレイマップ
 高陽院跡 京都市中京区丸太町通堀川東入る北側 
   Home      Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光