三条東殿跡・平治の乱勃発地 (京都市中京区)
The ruins of the residence of Sanjo-higashidono(Palace)
三条東殿跡・平治の乱勃発地 三条東殿跡・平治の乱勃発地 
50音索引  Home  50音索引  Home

「三条東殿遺址」の碑、新風館北側


【参照】平安時代の三条東殿の復元図、京都アスニー

平治の乱の主な登場人物
朝廷 上皇院政派
(後白河派)
天皇親政派
(二条派)
平氏 源氏
後白河上皇

二条天皇

美福門院
藤原信頼

源義朝
藤原経宗

藤原惟方
平清盛

平重盛

平頼盛
源義朝

源義平

源頼政
(平氏方)
 烏丸通から三条通東入ル北側脇に「三条東殿遺址(さんじょうひがしどの いせき)」の碑が立てられている。この地は、平治の乱の勃発地になっている。
 この付近は、平安時代、平安京の平安左京三条三坊十三町に当たり、白河法皇の院御所が存在した。
◆歴史年表 平安時代、11世紀(1001-1100)初頭、この地には伊豫守・藤原済家(1143-1187)の邸宅があった。
 子孫の宮内卿・藤原家通(1056-1116)に伝えられる。
 1125年、白河法皇(第72代)は殿舎を造営し、院の御所とした。
 1129年、法皇没後 鳥羽上皇(第74代)は院の御所とし、后・待賢門院と共に住した。
 1132年、鳥羽上皇の院御所は焼亡する。
 12世紀(1101-1200)中期、後白河法皇(第77代、1127-1192)の院御所となる。
 1159年、12月9日、平治の乱で、源義朝の軍は三条東殿を襲撃、後白河法皇を連れ出し幽閉した。院御所は焼失する。(『平治物語絵詞』)
◆藤原済家 平安時代の貴族・藤原済家(ふじわら の なりとき、生没年不詳)。信時の子。藤原北家・山蔭流。伊豫守、1009年、陸奥守。1284年、叙従三位。1294年、出家。正三位・非参議。
◆藤原家通 平安時代末期-鎌倉時代初期の貴族・藤原家通(ふじわら の いえみち、1143-1187)。大納言・藤原重通と大納言源師頼の娘の子。実父は中納言・藤原忠基、母は重通の家女房藤原有広の娘。六角中納言と号した。左兵衛佐、左少将、右中将、蔵人頭、1166年、参議、右兵衛督・左兵衛督を兼ね、1183年、権中納言、右衛門督、使庁別当、左衛門督を兼任。日記『角金記』がある。
◆後白河天皇  平安時代後期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。第74代・鳥羽天皇の第4皇子に生まれた。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により即位する。1156年、保元の乱、1159年、平治の乱後、源平対立の中で王力を維持した。1158年、第78代・二条天皇に譲位し、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代の歴代天皇に対して30年に渡り院政をしく。1169年、出家する。1170年、東大寺で改めて受戒した。 1179年、平清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身となる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。1183年、法住寺合戦では、木曾義仲が法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇は幽閉されている。『梁塵秘抄口伝集』(1169)を撰した。没後、法住寺法華堂に葬られる。
◆三条東殿 三条東殿は、現在の三条烏丸の東北に位置し、方40丈(120m)の広さを占めていた。「東三条内裏」、「三条東洞院御所」、「三条東御所」とも呼ばれた。
 伊豫守・藤原済家の邸宅は、子孫の宮内卿・藤原家通、さらに、白河法皇、鳥羽上皇の御所、皇子・後白河法皇の院の御所となった。1159年に平治の乱の舞台のひとつになる。
◆平治の乱 平安時代後期、1156年の保元の乱後、勝利した後白河天皇は退位し院政を敷く。側近・信西(藤原通憲)は権勢をふるう。引き続く、1159年の平治の乱では、信西と藤原信頼の確執に、源平の平清盛と源義朝の対立も絡んだ。
 1159年、12月4日、平清盛は一族郎党とともに熊野詣に出かけている。この隙に、信西に不満を持つ公卿の上皇院政派(後白河派)、天皇親政派(二条派)は結託した。藤原信頼、二条天皇外戚・藤原経宗、二条天皇側近・藤原惟方らによる。
 12月9日深夜、反信西派の源義朝の軍500は、院御所の三条東殿を夜襲した。後白河上皇、上西門院(上皇同母姉)は内裏に連行され、一本御書所で軟禁されたという。院御所には火が放たれた。大江家仲、平康忠、官人、女房も犠牲になる。火焔に攻められた多数の官女は井戸に身投げしたという。信西と一門は、三条東殿より辛くも山城国田原に逃れたものの自害した。その首は掘り起こされ、京都に戻され獄門に晒された。
 12月14日、藤原信頼は実権を握り、宮中で自ら除目(諸官職を任命する 朝廷儀式)を行う。源義朝は播摩守、その子・源頼朝は右兵衛佐に任じる。12月17日、平清盛は紀伊の武士の応援を得て六波羅に戻る。藤原信頼を油断させるために、降伏の名簿(みょうぶ)を差し出した。12月25日、丑の刻(午前2時)、平清盛と密かに通じた藤原経宗、藤原惟方は二条天皇を六波羅に逃す。後白河上皇は仁和寺に逃れる。12月26日、平重盛の500騎、平頼盛は内裏の東側より攻める。平重盛は、源義平の17騎と陽明門で戦う。平頼盛は、源義明と郁芳門で戦う。さらに、平氏の別動隊200騎が北上し、西より内裏を攻めて制圧した。
 源義朝、子・義平は、やむなく平清盛の六波羅邸を攻めるためにわずか20騎で五条坊門小路を東行する。六波羅邸より平清盛も向かい、平氏方に寝返った頼政が、鴨川六条河原の西岸で源義朝らを迎え討つ。鴨川の両岸で初の源平合戦が繰り広げられた。源義朝軍は敗れ、東国に敗走する。藤原信頼は六条河原の合戦より仁和寺に逃れ、後白河上皇に命乞いするが斬首された。 
 12月29日、二条天皇は八条の養母・美福門院の邸に移る。1160年、1月3日、源義朝は東国に逃れる途中の尾張で自害した。1月6日、後白河上皇は、八条堀川の藤原顕長邸に移る。藤原経宗、藤原惟方による後白河上皇への愚弄があったとされ、両人は清盛に捕らえられ内裏の上皇の前で拷問を受けた。2月21日、藤原経宗、藤原惟方は解官される。3月11日、藤原経宗は阿波に配流、藤原惟方は長門に配流になる。源頼朝は伊豆に配流される。
 6月20日、平清盛は公卿に昇る。8月11日、平清盛は参議に昇る。この時、平治の乱に関わった上皇院政派(後白河派)、天皇親政派(二条派)の公卿すべてが一掃されていた。源氏は敗北し、平氏の政権が成立する。後白河上皇と提携した平清盛にとって権勢と栄華の序章になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考資料 古代学協会の碑文、『京都大事典』『京都時代MAP 平安京編』


   関連・周辺       周辺曇華院跡・通玄寺跡(高倉宮跡、初音の森)       周辺三条烏丸御所跡       関連       
平安京オーバレイマップ
 三条東殿遺跡 京都市中京区姉小路烏丸東入ル南側
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光