山崎廃寺・山崎院跡・山崎橋 (大山崎町) 
ruins of Yamasaki-haiji Temple
山崎廃寺・山崎院跡・山崎橋 山崎廃寺・山崎院跡・山崎橋 
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石標「山埼院跡」、「崎」でなく「埼」になっている。行基年譜の表記に合わせたものという。



 大山崎町の宝積寺にいたる道筋に「山崎院跡」と刻まれた石標が立つ。奈良時代、この付近に行基が建立した寺院があり、架橋された山崎橋の橋寺としての役割も担っていた。 
◆歴史年表 飛鳥時代、7世紀(601-700)後半、南河内と関わり深いこの地の豪族が、寺院(山崎廃寺)を建立する。屋根には重弁の軒瓦を使用したという。
 奈良時代、725年、行基は山崎を訪れ、淀川に山崎橋を架けた。(『行基年譜』)。対岸の橋本では、久修園院(くじゅうおんいん)の建立が始まる。
 731年、行基は山崎院を建立した。橋の管理、仏教の教えを広める道場だった。山崎の古寺を改修したものであり、行基49院の一つになる。
 784年、架橋の資材調達について阿波国など3国に命じられる。橋は長岡京遷都に伴う物資輸送に使われたとみられている。
 平安時代、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)の時、第52代・嵯峨天皇方は、宇治、山崎の橋に兵を配し固めた。(『日本後記』)
 841年、洪水により橋が流出した。(『続日本後記』)
 842年、伴健岑(とも の こわみね)らの謀反(承和の変)があり、橋は警護される。(『続日本後記』) 
 848年、洪水により河陽橋(山崎橋)が損壊し、6間ほどが残る。(『続日本後記』)
 850年、橋が損壊した。(『文徳実録』)
 883年、夜間に橋が燃えた。(『三代実録』)
 10世紀(901-1000)、すでに橋はなく、船橋が架けられていたともいう。(『日本紀略』)
 918年、橋の南端2間ほどが水没する。(『日本紀略」)
 927年、橋が2間ほどが壊れた。(『日本紀略』『扶桑略記』裏書)
 929年、橋が6間壊れた。(『扶桑略記』)
 935年、紀貫之が京都に帰る途中に、山崎に5泊し橋を見ている。(『土佐日記』)
 1013年、橋が流失しており、第67代・三条天皇は石清水八幡宮行幸に際して、山崎で渡し船を利用した。(『御堂関白記』)
 1017年、橋が流失していたため、藤原道長の石清水詣でに際して船を用いた。雑人の乗る船が転覆した。(『小右記』『御堂関白記』)
 1048年、藤原頼通が橋下を通過した。記録に残る橋の最後の記述になる。(『宇治関白高野山御参詣記』)
 安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)、橋本渡舟場が架橋されたともいう。(『山城名跡巡行誌』)。また、1592年、豊臣秀吉が再架橋し、その後、間もなく廃されたともいう。
 現代、1990年、山城国府跡の発掘調査により、焼成前人名線刻瓦が出土し、山崎院の所在地特定に進展が見られた。
 2002年、大山崎町教育委員会の発掘調査により、現在地で唐草文様が描かれた彩色壁画片が見つかる。
 2004年、大山崎小字白味才で平安時代前期の平窯6基(大山崎瓦窯跡)が発見された。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆山崎院・山崎橋 山崎橋架橋の詳細についてはわかっていない。行基が架橋したとの伝承のある山崎橋は、山崎と対岸の橋本を結び延長3kmあった。橋は、洪水のたびに流出を繰り返した。
 奈良時代、725年に山崎橋が架けられた。橋のすぐ傍に淀川に開かれた山崎津、山崎駅も置かれたとみられている。725年に対岸の橋本には、久修園院(くじゅうおんいん)が創建される。731年に山崎一帯の中心に山崎院が建てられた。
 奈良時代、784年、架橋の資材調達について阿波国など3国に命じている。橋は、長岡京遷都に伴う物資輸送のために必要だったとみられている。
 2002年の大山崎町教育委員会による発掘調査で、彩色された壁画片100点見つかり、その中の12点には唐草文様が確認された。2004年、大山崎小字白味才で平安時代前期の平窯6基(大山崎瓦窯跡)が発見された。弘仁年間(810-824)に生産が始まり、瓦は平安京、嵯峨院、河陽離宮などにも供されていたとみられている。
◆文学 谷崎潤一郎の幻想的な小説『蘆刈(あしかり)』(1932)では、山崎、水無瀬、淀川の中州、橋本などの描写がある。
◆山崎 山崎(やまざき)の地名は、山の前(さき)、山の始まりを意味した。 
 山崎は、山城、摂津、河内の三国の境界にあり、山陽道・西海道、南海道の出入り口にあたる。陰陽師による四角四界の祭が行われた地の一つになる。

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京の橋ものがたり』『京都の地名検証2』『京都の地名検証 2』『日本の名僧』『史跡探訪 京の七口』『京都大事典』『京都おとくに歴史を歩く』


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 山崎院跡 京都府乙訓郡大山崎町大山崎上ノ田 

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