南蛮寺跡 (京都市中京区) 
ruins of Nanban-dera Temple(Christian church)
南蛮寺跡 南蛮寺跡 
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「此付近 南蛮寺跡」の石標、中京区蛸薬師通室町西入北側


南蛮寺聖堂の礎石(柱の土台石)、同志社大学今出川キャンパス図書館前に屋外展示されている。


南蛮寺聖堂の礎石(柱の土台石


南蛮寺遺石




【参照】妙心寺塔頭・春光院に残されている鐘、説明板より。
 旧南蛮寺の遺物ともいわれる。このヨーロッパ様の鐘には安土・桃山時代、1577年と、イエズス会紋章の十字架に"IHS"(Iesus Hominum Salvator、「人類の救世主イエス」の頭文字)が鋳刻されている。
 中京区の姥柳町(うばやなぎちょう)には、かつて南蛮寺(なんばんでら/なんばんじ)が建てられていた。16世紀、宣教師が日本の紹介をしており、その名はすでにヨーロッパには知られていたという。 
 姥柳町のビルの谷間にいまは石標が立ち、この北側一帯に南蛮寺があったことをわずかに示している。近年、付近の発掘調査が行われ、ミサを描いた硯が発見された。
◆歴史年表 室町時代、1543年、京都最初の南蛮寺(切利支丹寺・伴天連寺)が建立される。中京区、蛸薬師通室町西入北側にあり、当時の年号から「永禄寺」といわれたともいう。その後、南蛮寺と呼ばれる。異説もある。
 1551年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは山口より京都に入る。11日間滞在する。
 永禄から元亀年間(1558-1573)、南蛮寺の礼拝堂は荒廃していたという。
 1559年、1560年とも、京都でのキリスト教布教が本格化した。室町幕府の許可を受けたヴィレラによる。四条新町西革棚町(現在の郭巨山町付近)のあばら家に居を構えたともいう。
 1560年、六角通室町西の民家を会堂としたともいう。
 1561年、ヴィレラは姥柳町で僧侶の持ち家を購入し、礼拝堂とした。
 1565年、姥柳町の礼拝堂がこの年まで使われる。以後、荒廃する。ポルトガル人貿易商・医師・ルイス・デ・アルメイダが京都を訪れる。当時、医師ケリコリ、ヤリイスが寺での診察を行っていたという。(初期南蛮寺、永禄南蛮寺)
 1569年、永禄寺を建立した。
 1575年、オルガンティノ、フロイスらは四条坊門(中京区姥柳町)に新聖堂建立を計画する。(『日本史』)。夏に工事が始まる。
 1576年頃、織田信長が四条坊門四町四方の土地を寄進したともいう。確定されていない。(『南蛮寺興廃記』『長崎実録大成』)。オルガンティノは最初のミサを行う。高山右近、その父・高山図書(ずしょ)、一族をはじめ信徒が集まる。(『日本史』)
 1577年、1576年とも、京都南蛮寺(サンタ・マリア御昇天の寺、珊太満利亜御上人の寺、伴天連寺)が完成する。当時の織田信長はキリシタンを保護しており、聖堂見物に訪れる。また、町民、僧らが南蛮寺建設に反対し、京都所司代・村井貞勝に訴えている。(「耶蘇会士日本通信」、同年条)。献堂式のミサも行われた。
 1578年、織田信長父子が見物する。
 1588年、1587年とも、豊臣秀吉による伴天連追放令により南蛮寺は破却されたという。その後、再建されなかった。
 1600年-1602年、下京区四条堀川付近に、フランシスコ会系の教会が建てられ、修道院、病院なども併設した。
 現代、1973年、同志社大学文学部文科学科考古学研究室により、タキカ株式会社社屋建替えに伴い、南蛮寺跡の姥柳町遺跡での調査が行われた。出土した硯より司祭などの線画が見つかる。礎石遺構は、土地所有者(タキカ株式会社)より寄贈を受け同志社大学構内に移された。
◆オルガンティノ 安土・桃山時代のイタリア人カトリック宣教師のグネッキ・ ソルディ・オルガンティノ(1533-1609)。イタリアのカストに生まれた。イエズス会に入会し、ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教鞭をとる。 1570年、来日し、天草志岐、1577年、京都の布教責任者となる。1577年頃、南蛮寺を完成した。1580年、織田信長に願い、与えられた安土の土地にセミ ナリヨを建て院長に就く。1583年、高槻に新たなセミナリヨを設置した。1587年、秀吉によるキリシタン禁教令が出され南蛮寺は破却される。一時、小西行 長の領地・小豆島に逃れた。1588年、九州に移る。1591年、天正遣欧少年使節帰国にともない、随伴し秀吉に拝謁した。前田玄以のとりなしにより京都に戻る。1597年、日本二十六聖人の殉教した犠牲者の耳たぶを大坂奉行より受け取る。長崎に移り亡くなる。
◆高山右近 室町時代-江戸時代のキリシタン大名・高山右近(たかやま うこん、1552-1615)。摂津国生まれ。父は高山友照(図書、洗礼名ダリオ)、母は洗礼名マリアの嫡男。1564年、12歳で洗礼を受け、洗礼名はユスト。1568年、高山父子は和田惟政に仕えた。1571年、白井河原の戦いで惟政が討死する。1573年、子・惟長と高山父子は対立し、父子は荒木村重の支配下に入り、高槻城主になる。1576年、領内でオルガンティーノ神父を招き復活祭が祝われた。1577年、一年間に4000人の領民が洗礼を受けた。1578年、荒木の信長への謀反により、当初、右近は荒木への忠誠を示した。妹、長男を人質に出す。信長は右近に降伏を要求し、高槻城は無血開城した。信長は右近に再び高槻城主を命じた。1581年、巡察師・ヴァリニャーノを高槻に迎え、復活祭が行なわれた。1582年、本能寺の変で信長が倒れ、山崎の戦いで先鋒を務める。 1584年、小牧・長久手の戦い、1585年、四国征伐などにも加わる。安土のセミナリオを高槻に移し、大坂に教会を建てる。秀吉側近・牧村政治など多くが入信し、小西行長は幼児洗礼を受けた。1585年、明石に転封、明石教会を建設した。1587年、秀吉はバテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫る。右近は拒否し、領土を剥奪、追放され、淡路島、小豆島、1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に移る。「南坊」と称し茶道、宣教を行う。1612年、幕府はキリシタン禁教令を発布、1614年、右近の国外追放令が出された。一家は京都、坂本を経て、大坂より船で、内藤如安らと長崎よりマニラに渡る。右近は、到着後40日ほどで熱病により没した。千利休の七高弟(利休七哲)の一人。63歳。
 マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られた。マニラの日比友好公園に像が立つ。2015年、バチカン(ローマ法王庁)は「福者」に認定した。
◆内藤如安 安土・桃山時代のキリシタン武将・内藤如安(ないとう じょあん、?-1626)。飛?守、徳安。父は松永甚介、母は丹波八木城主内藤氏の娘。内藤忠俊という。1565年、京都で受洗しジョアン(如安)と称する。足利義昭に仕え、織田信長に敵対した。1587年、伴天連追放令では、信仰を守り所領を捨てる。キリシタン大名・小西行長の家臣。1592年、文禄の役、1597年、慶長の役に出陣する。行長の命令で明国への講和使節に選ばれ、1594年-1595年、北京で講和交渉した。1600年、関ヶ原の戦で行長処刑後、一時、加藤清正の下にあった。高山右近の援助で加賀前田利長に仕えた。1614年、キリシタン禁教令により、改宗を拒み、右近、妹・内藤ジュリアらとともにマニラに追放になり没した。
◆遺構・南蛮鐘 1973年、同志社大学文学部・森浩一教授、同志社大学文学部文科学科考古学研究室により、姥柳町遺跡での調査が行われた。この際に、聖堂の礎石(柱の土台石)、司祭や待者とみられる人物が刻まれた線刻画の硯(同志社大学歴史資料館所蔵)などが発見されている。
 遺構は平安時代から室町時代のものと、南蛮寺の遺構が出土した。南蛮寺関連としては、①聖堂の礎石(柱の土台石)、②礫囲いの炉跡、③敷石の一部、④捨て穴などが見つかった。多くの陶器・陶器片(美濃、瀬戸、唐津、絵志野など)に混じり、司祭や待者とみられる人物が刻まれた線刻画の硯が発見されている。粘板岩の長方形(長さ12㎝、幅6.9-7㎝)で一部欠落していた。線画は硯の裏面に刻まれていた。絵は、会堂でのミサの風景を描写したものとみられている。二人の人物画があり、右には司祭らしい人が頭にミトラ(冠)を被り、祭服をまとっている。外国人のようで大きな鼻をしており、眼鏡もかけている。中央上に少し小く描かれた侍者らしき人物がおり、右手に長い柄の先に容器状のものを持つ。その下には木の枝と葉があり、「枝の日曜日」という儀式を表したものと推定されている。これは、キリスト教の移動祝日で、復活祭の一週間前の日曜日、聖週間の初日になる。線刻はキリスト教儀式を熟知した日本人により描かれたとみられている。
 南蛮寺遺構から中門、庫裏が推定された。発掘地の隣接地である未発掘の北と東部に天主堂もあったと推定されている。発掘地より出土した大礎石(方形の一辺110㎝・厚さ30㎝、径150㎝・厚さ30㎝)も天主堂に使われていた可能性があるという。ただ、石は後世に動かされていた。
◆南蛮寺の絵 安土・桃山時代、16世紀後半の狩野宗秀(1551‐1601)筆の扇面図、紙本金地著色「都の南蛮寺図(洛中洛外図扇面 南蛮寺図)」(上弦50.6㎝、下弦21.2㎝、幅19.7cm)には、金地の扇面中央上に、3層の姥柳町の南蛮寺らしきものが描かれている。
 宗秀は永徳の弟で、信長や秀吉の画事も務めた。宗秀は京都で亡くなったとみられ、南蛮寺を実際に見た可能性が高い。また、宗秀子の「元秀」の印があった。絵は京名所扇面画帖61枚の一つであり、寺を描いたものはこの1例のみだった。
 木造碧色の瓦葺、3層楼閣風の聖堂とみられる建物は、最上層が入母屋造、初層、2層は寄棟造、2層の周囲には廊下と手すりが付く。推定の建物面積20坪(60㎡、33畳)であり、3階建全体で100畳敷だったとみられる。一階は、脇廊が付く教会堂だった。
 絵には、階上から3人の人物が下を覗き込む様子が描かれている。庭にも南蛮風の黒服の人物など9人があり、庭の隅に棕櫚のような樹木も描かれている。門前には店があり、南蛮帽子を売っている。通りには騎乗した武士、供の者などの往来が描写されている。
◆南蛮寺の鐘 現在、妙心寺塔頭・春光院に残されている鐘は、旧南蛮寺の遺物ともいわれる。ヨーロッパ様の鐘には安土・桃山時代、1577年と記され、イエズス会紋章の"IHS"(Iesus Hominum Salvator、「人類の救世主イエス」の頭文字)が鋳刻されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『姥柳町遺跡(南蛮寺跡)調査概報(同志社大学文学部考古学調査記録2)』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『京都大事典』『障壁画の見方』『増補版 京の医史跡探訪』『京都府の歴史散歩 上』『京都 歴史案内』『あなたの知らない京都府の歴史』『文化財と遺跡を歩く 京都歴史散策ガイドブック』『週刊 日本の美をめぐる 21 都の賑わい洛中洛外図』


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 南蛮寺跡 京都市中京区姥柳町202,蛸薬師通室町西入北側 

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