安祥院 (日限地蔵) (京都市東山区)
Ansho-in Temple
安祥院 (日限地蔵)  安祥院 (日限地蔵) 
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山門


山門


「日限地蔵尊」の石標


「梅田雲濱先生墓 當院内」の石標



本堂、扁額



地蔵堂


庫裏



ヤマサクラ




地蔵堂


毘沙門天が祀られている。

 東山・五条坂の急斜面に安祥院(あんしょういん)が建つ。江戸時代に社会事業を行った木食(もくじき)正禅養阿が中興した。江戸時代の尊攘派志士・梅田雲浜の墓もある。 
 「日限(ひぎり)地蔵さん」、「日限ぎりさん」とも呼ばれている。正式には東山木食寺という。
 浄土宗鎮西派、本堂に本尊の阿弥陀如来像が安置されている。
 地蔵堂の日限地蔵は、六阿弥陀めぐり(巡拝)の第4番札所。京の通称寺霊場28番、日限地蔵。
 所願成就、病気平癒、安産の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、942年、945年とも、第61代・朱雀天皇の勅願により、天台座主・尊意僧正が乙訓郡大藪郷(南区久世大藪町)に大薮山仁王護国院を創建したことに始まるという。源義基が檀越となる。以後、鎮護国家の道場に定められた。
 その後、荒廃する。
 鎌倉時代、文永年間(1264-1275)、勢観高弟・蓮寂により再興される。寺号を安祥院に改めた。法然を中興の祖とし、勢観を2世とし隆盛となる。浄土宗の知恩寺末となり、専修念仏道場になる。
 南北朝時代(1336-1392)、兵火より焼失したともいう。
 その後、衰微する。廃絶したともいう。
 江戸時代、1725年、木食正禅養阿が入寺し、清水寺成就院より現在地に永代借地権を得る。大藪郷村の廃寺、安祥院を再建した。(「安祥院文書」)
 1727年、落成となる。(「安祥院文書」)
 1787年、4宗兼学となり、霊元法皇(第112代)の勅願所、また、後西院(第111代)の称牌を安置すると記されている。(『拾遺都名所図会』同年刊)
 近代、1873年、浄土宗無本寺より浄土宗鎮西派に改宗する。知恩院末になる。
 現代、2004年、境内のヤマザクラが京都市の保存樹に指定された。
◆尊意 平安時代中期の天台僧・尊意(そんい、866/876-940)。京都に生まれた。876年、11歳で洛東の吉田寺で地獄絵を見て仏道を志し、栂尾寺・賢一に学ぶ。879年、比叡山に登り、17歳で剃髪した。887年、登壇受戒して12年籠山、 増全、玄昭に台密を学び、円珍に菩薩戒を受けた。第60代・醍醐天皇、第61代・朱雀天皇の護持僧になる。926年、第13世座主となり14年間在任した。霊験あり、多くの逸話が残されている。旱魃、疾病流行に祈願し、930年、菅原道真の御霊による清涼殿落雷の際には天皇を加持した。935年、平将門の乱に大威徳法を修した。
◆源義基 平安時代末の武将・源義基(みなもと の よしもと、?-1180)。源義家6男・義時の3男。河内源氏の武将。下総権守、武蔵権守を歴任。1180年、以仁王の令旨を受けて立つ。平清盛により鳥羽で討たれた。子・義兼は、石川源氏の棟梁として源平合戦を戦う。
◆蓮寂 鎌倉時代の浄土宗の僧・蓮寂(れんじゃく、1205-1281)。蓮寂房信慧(しんえ)ともいう。大納言・藤原兼良の子、高野太政大臣・兼房の孫。知恩寺開基・勢観房源智を嗣ぎ、賀茂・功徳院を継いだ。 知恩寺3世。文永年間(1264-1274)、源智の道友弁長弟子・良忠と東山・赤築地(あかつじ)で両流を校合し、源智の門流は別流を立てないことにした。
◆養阿 江戸時代の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。木食正禅、木食養阿などとも称した。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃の善光寺、美濃の国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)、1720年とも、狸谷不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興し、勧進により1738年、日ノ岡峠、1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。安祥院で即身仏になり墓塔に納められた。
◆梅田雲浜 江戸時代後期の尊攘派志士・梅田雲浜(うめだ うんぴん、1815-1859)。父は矢部義比、母は武川又兵衛の娘。若狭小浜藩藩士。16歳で江戸の儒者・山口普山に学ぶ。闇斎の提唱した朱子学・崎門学を修めた。1843年、京都の小浜藩塾・望楠軒(木屋町二条)に通う。望楠軒講主となる。一時、高雄に移る。1852年、海防に関する建言により藩主・酒井忠義は士籍剥奪、浪人となる。葉山馬頭観音堂の堂守となる。長州藩物産御用掛となり、烏丸御池上ルに邸宅を建てた。1853年、ペリー来航後、1858年、京都で梁川星巌と条約不可、一橋慶喜擁立、井伊直弼排斥を青蓮院宮に説く。1854年、妻・信子が亡くなる。1855年、子・繁太郎が相次いで亡くなる。1858年、「反逆の四天王」とされ、幕政批判により安政の大獄で逮捕第一号になる。烏丸御池上ルの家で捕縛され、江戸の小倉藩邸で拷問死した。
 安祥院に遺髪が納められた。江戸・海禅寺にも墓がある。
◆梅田信子 江戸時代後期の女性・梅田信子(うめだ しんこ、1827-1855)。大津の学者・上原立斎の長女に生まれた。1846年、18歳で梅田雲浜と結婚し、当初は木屋町二条に住んだ。1852年、夫が浪人となり、貧しい家計を手内職で支えた。着物を質に入れ志士に酒を振舞ったという。「樵りおきし軒のつま木も焚きはてて、拾う木の葉のつもる間ぞなき」と詠む。高雄、一乗村、寺町一条下ルと移る。1854年、結核と栄養失調に倒れ、翌年二人の子を残して亡くなる。和歌、書道、絵画、琴に優れた。安祥院に夫の遺髪とともに葬られた。29歳。
◆大高忠兵衛 江戸時代後期の尊攘派・大高忠兵衛(おおたか ちゅうべえ、1823-1864)。播磨国に生まれた。大高又次郎に甲冑製作を学び、養子となる。1848年、梅田雲浜の招きで京都で甲冑商を開き、諸藩の尊攘派の連絡役をした。池田屋事件で同志の甲冑準備中に新撰組により捕縛、六角獄舎で獄死した。
◆本尊・石造仏 本堂の「阿弥陀如来」は京都六阿弥陀の1つ。木食養阿の作という。像高2m。
 石造の「木食不動明王像」が墓塔近くに安置されている。養阿が幕府の圧力により当寺に移った際に、また、霊夢のお告げにより当寺に遷されたものという
◆日限地蔵 地蔵堂に丈六、「日限(ひぎり)地蔵」が安置されている。地蔵菩薩像は、養阿が、江戸時代、1730年に造仏したものという。像高2.6m。金銅製。
 江戸時代、1728年、霊元法皇(第112代)に仕える女官が病により亡くなる。養阿が供養した。養阿が地蔵堂建立を願い、法皇は鏡、白銀などを下賜した。これらを鋳入し造仏された。日を限って(限定して)祈願すると所願成就するとされ、この名がある。無病息災、開運、厄除け、安産などの霊験あり、近代以降に信仰を集めた。当地蔵は六阿弥陀めぐりの第4番札所になっている。
◆文化財 養阿の遺品、養阿自筆の大日三尊光明真言碑が立つ。
 養阿は勧進により道路の修築工事、石橋の架設などの社会事業を行った。境内には日ノ岡峠道に敷設されていたという車石、西京極の旧天神川に架けた佃橋の橋桁石が置かれている。
◆六阿弥陀巡拝 六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したものという。まず、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい蓮華の朱印を受け、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺の順で回り、誓願寺で結願する。功徳日とされる1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日、春秋彼岸に3年3カ月巡拝する。無病息災、家運隆盛、所願成就を得ることができるという。
 札所は、1番・真如堂(真正極楽寺、左京区)の阿弥陀如来、2番・永観堂禅林寺(左京区)の阿弥陀如来、3番・清水寺(東山区)の阿弥陀堂の阿弥陀如来、4番は当寺の阿弥陀如来、5番・安養寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来、6番・誓願寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来。
◆ヤマザクラ 山門を入るとヤマザクラの巨木がある。2004年、京都市の保存樹木に指定された。樹齢100年以上という。日本の野生代表種のヤマザクラと本種は伊豆大島にあったオオシマザクラの自然交配種によるヤマザクラの近縁種で貴重種という。枝や幹から出た根の不定根により再生した。
◆墓 当寺で即身成仏した中興開山・養阿の墓塔、幕末の尊攘派の梅田雲浜の墓がある。元服の際に剃り落した前髪を埋葬したという。
 大高忠兵衛、種痘医・赤沢一堂の墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都の寺社505を歩く 上』「拾遺都名所図会」『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京の福神めぐり』『京都のご利益手帖』


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毘沙門天

豊川だ(口+モ)枳尼天社

だ枳尼天社

だ枳尼天社

大弁財天社

養阿自筆の大日三尊光明真言碑

車石、養阿が日ノ岡峠道に敷設したもの。これは片方のみで、実際には石が二列に並べられており、この溝の上を荷を積んだ牛車が通った。道は一方通行で、午前と午後に分けて往来した。

養阿が架橋した橋の一つ、西京極の佃橋(旧天神川)に使われた橋桁石という。

五重石塔

養阿の墓塔、宝篋印塔が立ち、方形の敷石がある。真言系の墓の様式という。

養阿の墓塔、即身成仏した養阿はこの自然石の下に葬られたとみられている。石の下に石盤の蓋らしきものが見え、ここより下ろされたともいう。

梅田雲浜の墓

大高忠兵衛の墓

ヤマザクラ、市保存樹、樹齢100年以上

【参照】境内近くの辻に立つ「茶わん坂」の道標

【参照】「渋谷街道(渋谷越)」の石標、五条橋口(六条坊門末)より清閑寺山、阿弥陀ヶ峰の谷を通り山科に抜ける。現在の五条通(国道1号線)とほぼ同じ道に重なる。かつては急坂の難所だった。
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