本光寺 (京都市下京区)
 
Honko-ji Temple
本光寺 本光寺 
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山門は油小路通に面している。


「伊東甲子太郎外数名殉難之地」石標


【参照】付近の住所板に「油小路通、油小路町」とある。

【参照】油小路七条の辻、寺の北になる。ここに伊東の遺体が放置され、その後、引き取りに来た仲間の御陵衛士と新撰組の間で激しい斬り合いになった。御陵衛士4人の遺骸は数日間放置された。新撰組がさらに仲間を誘き寄せるためだったという。その後、遺体は引き取られ光縁寺(下京区)に葬られた。
 油小路通に面している本光寺(ほんこうじ)は、山号を実相山という。 
 幕末、門前で凄惨な粛清事件が起きた。新撰組による暗殺事件とその後、御陵衛士(高台寺党)との間での斬り合いが行われた。
 日蓮宗、本尊は題目宝塔釈迦多宝仏像。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 江戸時代、1681年、日尭の開基によるという。
 1762年、『京町鑑』に記されている。
 1867年、門前で高台寺党盟主・伊東甲子太郎が暗殺された。その後、油小路の事件が起きる。
◆伊東甲子太郎 江戸時代後期の御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(いとう かしたろう、1835-1867)。常陸志筑に生まれる。父・鈴木忠明、母・こよの長男。水戸藩士・金子健四郎に神道無念流剣術、水戸学を学び勤王思想に傾倒する。江戸の旗本・伊東精一に北辰一刀流を学び、跡目を継ぎ婿養子となる。1864年、藤堂平助の仲介で新撰組に加盟、参謀・文学師範となる。その後分離し、1867年、戒光寺の湛然長老の肝煎りにより御陵衛士が組織された。勤皇派の伊東ら15人が新撰組を脱退し参加した。山陵奉行・戸田大和守忠至の配下に入る。伊東は御陵衛士(高台寺党)盟主となり、薩摩と連携した。1867年、新撰組により七条油小路で粛清、斬殺された。(油小路事件)。
 供養塔が本光寺に立てられている。墓は戒光寺にある。
◆油小路事件 1867年12月13日(新暦)、新撰組局長・近藤勇は、伊東甲子太郎を相談(金子の件とも)があるとの口実で、七条醒ヶ井通の妾宅に誘い出した。酒宴になり、酩酊した伊東は、近藤の別邸を後にする。油小路の本光寺門前に差し掛かると、新撰組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された。その時伊東は、門前の門派石(題目石塔)によりかかり絶命したという。最期に「奸賊ばら(腹)」と叫んだという。
 伊東の遺骸は油小路七条の辻に駕籠で運ばれ放置された。御陵衛士7人が遺体を引き取りに来た時、待ち伏せしていた新撰組隊士数十人との間で斬り合いになる。双方に死傷者があり、御陵衛士のうち藤堂兵助、服部武雄、毛内有之助の3人が斬殺された。事件は油小路事件、七条油小路の変などともいわれる。伊東には薩摩と通じ、近藤の暗殺計画があったとの嫌疑がある。詳細は不明。
 伊東ら4人の遺骸はそのまま数日放置されたという。その後、光縁寺(下京区)に葬られ、翌1868年に、伊東の弟・鈴木三樹三郎らにより泉涌寺塔頭・戒光寺(東山区)に改葬されている。
 1867年12月18日、近藤は伏見街道で御陵衛士に狙撃され負傷している。新撰組は翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、近藤は新政府軍に流山で出頭、捕縛されている。1868年5月17日、板橋刑場で斬首、首は三条河原にまで運ばれ晒された。
◆文化財 門派石(題目石塔)は現在、門内に移されている。


*普段はおそらく非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『新選組大事典』『新選組事典』『京都新選組案内』『幕末京都』『新選組が京都で見た夢』



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 本光寺 〒600-8231 京都市下京区油小路町,油小路通木津屋橋上る  . 075-341-2863
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