光縁寺 (京都市下京区)
Koen-ji Temple
光縁寺 光縁寺 
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寺紋「丸に右離れ三つ葉立葵」










歴代の墓


山南敬介藤原知信の墓(元治2年2月23日)


大石造酒蔵源守仲の墓(慶応2年2月5日)
 四条大宮の南西、綾小路通に面して光縁寺(こうえんじ)がある。新撰(選)組隊士局中法度違反とされ切腹、粛清された元隊士、隊士が多く眠っている。 
 山号院号は、満月山普照院(まんげつざんふしょういん)、知恩院末寺。 
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、創建ともいう。
 江戸時代、1613年、即玄が開いたともいう。
 1788年、天明の大火により本堂、山門を焼失した。
 1819年、現在の本堂が再建された。
 1846年、現在の山門が再建される。
 近代、1898年、新撰組隊士の墓が立てられた。
◆山南敬助 江戸時代後期の武士・山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、1833-1865)。詳細不明。仙台藩を脱藩し江戸に出たともいう。小野派一刀流の免許皆伝、北辰一刀流の千葉周作門人。近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み敗れ、以後、近藤に従う。1863年、清河八郎の浪士組に近藤らと加わる。清河の江戸帰還に伴い、芹沢鴨、近藤らと京都に残る。その後、芹沢と袂を分かった近藤派の副長に就く。1863年、呉服商・岩城升屋事件で浪士を撃退し功を上げる。1863年、八月十八日の政変で御所警固、長州系浪士らを斬る。その後、壬生浪士組3番手の総長に就く。その後、表舞台から消え、1865年、新撰組を脱走、大津で親しかった沖田総司により捕縛される。1865年、2月23日切腹、介錯は沖田が務めた。33歳。
 光縁寺に葬られた。
◆伊東甲子太郎 江戸時代後期の御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(いとう かしたろう、 1835-1867)。常陸志筑に生まれる。父は鈴木忠明、母はこよの長男。水戸藩士・金子健四郎に神道無念流剣術、水戸学を学び勤王思想に傾倒する。江戸の旗本・伊東精一に北辰一刀流を学び、跡目を継ぎ婿養子となる。1864年、藤堂平助の仲介で新撰組に加盟、参謀・文学師範となる。その後分離し、1867年、戒光寺の湛然長老の肝煎りにより御陵衛士が組織された。勤皇派の伊東ら15人が新撰組を脱退し参加した。山陵奉行・戸田大和守忠至の配下に入る。伊東は御陵衛士(高台寺党)盟主となり、薩摩と連携した。1867年、新撰組により七条油小路で粛清、斬殺された。(油小路事件)。供養塔が本光寺に建てられている。墓は戒光寺にある。
◆大石造酒蔵 江戸時代後期の武士・大石造酒蔵(おおいし みきぞう、?-1866)。父は大石捨次郎。新選組隊士・大石鍬次郎(人斬り鍬次郎)の実弟。一橋家家臣。1862年、家督を相続。新撰組の今井祐三郎に祇園石段下で斬られたという。病死ともいう。
 光縁寺に墓がある。施主は鍬次郎。
◆松原忠司 江戸時代後期の新選組隊士・松原忠司(まつばら ちゅうじ、1835? -1865)。播磨国小野藩の藩士の子。安政年間(1854-1860)、「徘徊御免」となり、大坂で関口流柔術(北辰心要流、不遷流とも)の道場を開いたという。1863年、壬生浪士組に入隊、八月十八日の政変で仙洞御所前、禁裏御所南門の警備し、今弁慶の異名をとる。1864年、池田屋事件で戦功を挙げる。1865年、新撰組四番組組長・柔術師範。病死、切腹、銃殺ともいう。
 墓は光縁寺にある。
◆田中寅蔵 江戸時代後期の新選組隊士・田中寅蔵(たなか とらぞう、1841-1867)。寅三。加賀国の生まれ。加賀藩脱藩し、1864年頃、新選組に入隊。撃剣師範となる。伊東甲子太郎の御陵衛士を拒絶され、本満寺に隠れた。攘夷論を唱え切腹となる。
 墓は光縁寺にある。
◆中島来章 江戸時代-近代の画家・中島来章(なかじま らいしょう、1796-1871)。近江に生まれた。渡辺南岳、円山応瑞に入門。円山派の大家、山水・人物・花鳥画を描く。平安四名家の一人。門下に幸野楳嶺。
 墓は光縁寺にある。
◆中島有章 江戸時代-近代の画家・中島有章(なかじま ゆうしょう、1837-1905)。中島来章の子。円山派。父に学ぶ。1855年、内裏造営に加わり、1873年、第2回京都博覧会で席上揮毫に参加。1880年、京都府画学校、1888年、改組後も教える。1884年、第2回内国絵画共進会で褒状を受ける。
 墓は光縁寺にある。
◆仏像 本堂に本尊の「阿弥陀如来像」を安置する。左脇侍(向かって右)に観音菩薩、右脇侍に勢至菩薩、右脇に善導大師、法然上人を安置する。
◆新撰組 寺には新撰組についての逸話が残されている。幕末期、22世・良誉の時、葬式を出すことがかなわない困窮者は、遺骸を筵に包み、門前に放置したという。住職はそうした死者も手厚く葬った。
 門前近くに新撰組の馬小屋があり、日々、隊士たちが往来していた。中に新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門の瓦に、山南家家紋と同じ寺紋「丸に右離れ三つ葉立葵」を見つけ、住職と親しくなる。良誉は山南と同い歳だったという。寺では、以後、命を落とした隊士らが葬られるようになる。新撰組を離脱したため切腹になった山南はその3人目になった。
◆墓 境内北の墓地に新撰組関係者の名が刻まれた墓石が立ち並んでいる。かつての墓地は、現在地の北にある京福電鉄の軌道付近にあり、線路敷設に伴い南に移転した。新撰組隊士局中法度に反したとして新撰組隊士の手により粛清、切腹された人たちの墓が多い。墓は22世・良誉により、1898年に立てられた。
 寺側の説明(過去帳)によると葬られた順に、切腹の副長助勤・野口健司(1843-1864)、切腹の伍長・葛山武八(?-1864)、切腹の総長・山南敬介(1833-1865)、切腹・事故死ともいう平隊士・大谷良輔(1836-1865)、切腹の平隊士・施山多喜人(?-1865)、切腹の平隊士・石川三郎(?-1865)、切腹未遂ともいう四番隊組長・柔術師範・松原忠司(1835?-1865)、死因不明の隊士・桜井勇之進(1804-1865)、斬首とも病死ともいう隊士・大石造酒蔵(?-1865)、切腹の隊士・勘定方・河合耆三郎(1838-1866)、切腹ともいう隊士・小川信太郎(1845-1867年)、頓死の七番組組長・谷三十郎、切腹の隊士・柴田彦三郎、死因不明の隊士・市橋鎌吉(?-1867)、1868年?切腹の隊士・田内知(1839-1867)、切腹の隊士・撃剣師範・田中寅(虎)三(1841-1867)、1976年建立の死因不明の眞明院照誉貞相大姉(沖田総司の縁者とも)、切腹の平隊士・見廻組並御雇・矢口健一郎(?-1868)、切腹の隊士・富川十郎(1844-1867)、切腹の隊士・中村五郎(1849-1867)、切腹とも惨殺ともいう隊士・佐野七五三之助(1836-1867)、切腹の隊士・茨木司(?-1867)、切腹ともいう隊士・加藤羆(?-1867)、油小路事件で新撰組に斬殺された八番隊組長・御陵衛士(高台寺党)・藤堂平助(1844-1867)、油小路事件で斬殺の隊士・御陵衛士・服部武雄(1832-1867)、油小路事件で斬殺された隊士・御陵衛士・毛内有之助(1835-1867)、新撰組に斬殺された新選組参謀・文学師範・御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(1835-1867)、討死という平隊士・宮川延吉(信吉)(1843-1868)、1870年斬首の隊士・諸士調役兼監察・大石鍬次郎(1838-1870)(大石造酒蔵の兄)。
 光緑寺二十二世 良誉上人 明治三十一年(1898年)十二月十日 新撰組関係者全員を弔う。
 なお、9人(野口健司、葛山武八、大谷良輔、谷三十郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、伊藤甲子太郎、宮川延吉)の名は墓石に刻まれていない。
 1867年に油小路の変で斬殺された伊東ら4人の御陵衛士の遺体は、当初、戒光寺、西本願寺の勤王僧らが引き取ろうとした。だが、新撰組が許可しなかったため、新撰組の墓所だった光縁寺に埋葬された。新撰組が京都を去った後、1868年、伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4人は泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されている。
 たった一人の女性・眞明院照誉貞相大姉の墓石は当初なく、近年、1976年に立てられている。詳細は不明。寺では過去帳より、新撰組一番隊組長・撃剣師範の沖田総司(1844?-1868)が亡くなる1年ほど前に、喪主となり葬った人という。総司の戒名「賢光院仁誉明道居士」に比しその内縁の人ともいう。また、実在不明の島原の天神・明里(あけさと、生没年不詳)ともいい、山南敬助の恋人だったともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 「光縁寺案内書」『京都大事典』『新選組事典』『京都歴史案内』


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*墓石にあるもののみ、年月日は光縁寺の資料による。

眞明院照誉貞相大姉(慶応3年4月26日)


江戸時代-近代の画家・中島来章(なかじま らいしょう、1796-1871)の墓

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 光縁寺 〒600-8389 京都市下京区四条大宮町36,綾小路大宮西入る北側  075-811-0883
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