浄光寺 (京都市上京区)
Joko-ji Temple
浄光寺 浄光寺
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「池大雅墳墓道」の石標


山門

 浄光寺(じょうこうじ)門前脇に、「池大雅墳墓道」の石標が立つ。境内墓地に、江戸時代中期の文人画家・池大雅の墓があり、大雅寺とも呼ばれている。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 
 京の通称寺霊場2番、大雅寺。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 安土・桃山時代、1596年、浄誉の開基によるという。かつて、鎮西派金戒光明寺(左京区)に属した。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1614)、愚公栄山上人の開基によるともいう。
 江戸時代、1730年、大火により類焼する。その後、再建された。
 1776年、文人画家・池大雅の没後、その遺言により当寺に葬られた。
◆浄誉 安土・桃山時代-江戸時代の浄土宗の僧・浄誉(生没年不詳)。詳細不明。慶長年間(1596-1615)権現寺を中興する。1596年浄光寺を開く。
◆池大雅 江戸時代の文人画家・池大雅(いけの たいが/いけ たいが、1723-1776)。京都に生まれた。父は京都銀座役人中村氏手代。4歳で父を亡くし、7歳の時、萬福寺で書を披露し「神童」といわれる。1737年、15歳で扇屋の袖亀堂(二条樋口町)を開く。16歳で彫印店を開き篆刻をした。文人画家・柳沢淇園に指墨画を学ぶ。20歳で聖護院門前に移る。1748年、富士山を踏破、1749年、白山、立山、1750年、紀州の祇園南海を知る。30歳頃に画家・玉瀾(町)と結婚し、知恩院袋町、祇園真葛原に住した。
 中国南宋画を学び、琳派、西洋画も取り入れ、文人画(南画)大成者のひとりになる。中国の故事、名所、日本の風景などを描いた。書家、俳人としても知られる。作品は40歳代に描いた「黄檗山萬福寺東方丈障壁画」30数面、与謝蕪村と共作した「十便十宜図」(1771)など。浄光寺に葬られた。
◆建築 表門(山門)は伏見宮から贈られた。透かしの入った門扉がある。
◆墓 墓地、西北角の覆屋に池大雅の墓碑が立つ。碑銘は「故東山画隠大雅池君墓」、側面に相国寺学僧・淡海笠常(たんかい じくじょう)の撰文が刻まれている。江戸時代、1777年に建立された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の寺社505を歩く 上』『京都市の地名』『京都事典』『京都歴史案内』『週刊 日本の美をめぐる 29 与謝蕪村 池大雅と文人画』


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本堂

本堂、軒丸瓦、「大雅堂(たいがどう)」は池大雅の雅号のひとつ。待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)なども知られた。また、池大雅没後、現在の円山音楽堂付近に、弟子らが建てた「大雅堂」があった。

なかよし地蔵

「池大雅先生の墓 この奥にあり」の石標

池大雅の墓がある覆屋

池大雅の墓。江戸時代、1777年建立。碑面に「故東山画隠大雅池君墓」、側面に江戸時代の学僧・淡海竺常(うみじんじょう、1719-1801)の撰文がある。書家・韓天寿(かん てんじゅ、1727-1795)の筆による銘文。
竺常は京五山の学僧。儒学者・宇野士新(1698-1745、明霞)に学ぶ。相国寺住持。『煎茶訣』、『茶経詳説』など煎茶に関して著す。

【参照】大雅堂旧跡(東山区下河原鷲尾町、円山公園の音楽堂南)、ここに池大雅と妻・玉瀾が住んだ。道の脇の土手に「大雅堂址」「和光同塵」の石碑が立っている。
 浄光寺 〒602-8495 京都市上京区新猪熊町421,寺之内通千本東入る北側   075-431-1887
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