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清和院 (京都市上京区) Seiwa-in Temple |
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清和院 | 清和院 |
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![]() ![]() ![]() 「勅願所清和院」 ![]() 「洛陽第三十三番」 ![]() 本堂 ![]() 本堂、扁額 ![]() 本堂 ![]() ![]() 賓頭盧(びんづる)尊者 ![]() ![]() 爪形天満宮 ![]() 「白梅殿古跡 爪形天満宮」の石標、白梅殿は菅原氏累代の邸宅であり、菅原氏との関係があるのかもしれない。 ![]() 爪形天満宮 ![]() 爪形天満宮 ![]() 爪形天満宮 ![]() ![]() ![]() 宝篋印塔 |
北野七本松一条、一観音町(いちかんのん-ちょう)に、清和院(せいわ-いん)はある。「一本寺」ともいう。平安時代の第56代・清和天皇ゆかりの寺であり、かつて隆盛を極めた。 真言宗智山派、本尊は地蔵菩薩。 本堂脇壇の聖観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第33番札所、結願所。洛陽七観音の一つ。洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第13番札所、札所本尊は玉体等身地蔵。 ◆歴史年表 平安時代、851年、第55代・清和天皇は、染殿第南(現在の京都御苑内東北、正親町の南、京極の西)の右大臣・藤原良房の染殿邸に生まれる。 仁寿年間(851-854)、染殿第南に第55代・文徳天皇(在位850-858)が、染殿后(藤原明子)の請いにより仏心院を建立した。地蔵菩薩を安置したことに始まるという。 876年、第56代・清和天皇は第57代・陽成天皇に譲位後、女御・染殿の南部分を御在所(後院)にした。「清和院」と改称され、皇子親王の住院と定めた。 中世(鎌倉時代-室町時代)、室町通上長者町下る清和院町(上京区)に移る。 鎌倉時代、1308年、1307年とも、勅令により再建され、寺院になる。この時、地蔵菩薩立像が安置された。 室町時代、室町将軍足利氏歴代も深く帰依し、その保護を得て栄えた。清和天皇が清和源氏の祖だったことに因む。 1425年、清和院地蔵堂の参詣について記されている。(『薩戒記』) 1467年、兵火により以後、衰微する。 1492年、清和院地蔵堂の再建勧進が行われた。 1531年、感応寺(上京区)の河崎観音堂が焼失し、本尊・観音菩薩が当院に遷される。(『山城名勝志』) 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、洛陽三十三観音の一つとして庶民の信仰を集める。 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、百万遍の北隣に移り、「清和寺」と称した。 江戸時代、1661年、御所が炎上し、清和院も類焼した。(『京師巡覧集』) 寛文年間(1661-1673)、玉体等身地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48カ寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場の一つになる。 後水尾院(第108代)の中宮・東福門院(1607-1678)により現在地(北野七本松一条)に移る。院内にあった仏心院(地蔵堂)をもって清和院の名を継いだ。 明暦年間(1655-1658)、近くの河崎観音堂を合併した。 現代、2005年、「平成洛陽三十三所観音」が復興された。 ◆文徳天皇 平安時代前期の第55代・文徳天皇(もんとく-てんのう、827-858)。男性。道康(みちやす)、田邑(田村)帝。京都の生まれ。父・第54代・仁明天皇、母・順子(じゅんし)(太政大臣・藤原冬嗣の娘)の第1皇子。842年、嵯峨上皇(第52代)の死により、廃された淳和上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王に代わり、16歳で皇太子になる。藤原良房の画策による。(承和 [じょうわ] の変)。850年、父の病死により即位した。紀名虎(きのなとら)の娘・静子の産んだ寵愛した第1皇子・惟喬(これたか)親王を立太子する。藤原氏の反対により、良房の娘・明子(あきらけいこ)の産んだ第4皇子・惟仁(これひと)親王(後の第56代・清和天皇)を生後8カ月で皇太子に立てた。以後、良房との間に対立が生じた。858年、京都・新成殿で亡くなる。良房による暗殺説もある。32歳。 天皇親政は行うことができず、政治は太政大臣・良房によって行われる。内裏に住まず、東宮雅院、梨下院、冷泉院に住んだ。藤原氏の勢力が拡大する。『続日本後紀』の編纂を開始する。天皇一代の歴史を編年体で記した藤原良房、春澄善縄らが編纂した『日本文徳天皇実録』10巻がある。851年、仁明天皇の亡くなった清涼殿を解体し、深草の陵墓の傍らに移築し嘉祥堂とした。 陵墓は田邑陵(右京区)になる。 ◆藤原明子 平安時代前期の第52代・文徳天皇の女御・藤原明子(ふじわら-の-あきらけいこ/めいし、829-900)。女性。染殿后(そめどの-の-きさき)。父・人臣最初の摂政・藤原良房、母・源潔姫(きよひめ)(第52代・嵯峨天皇の皇女)。通康親王(第55代・文徳天皇)の東宮の時に入内し、女御になった。850年、4男・惟仁親王(第56代・清和天皇)を産み、親王は立太子した。?年、賀茂の斎院・儀子内親王を産む。853年、従三位に叙せられる。858年、清和天皇の即位とともに皇太夫人、従一位に叙された。清和天皇と共に東宮に遷御した。864年、清和天皇から皇太后の号を贈られる。866年、常寧殿に遷る。882年、孫の第57代・陽成天皇の元服により、太皇太后の号を贈られた。73歳。 文徳天皇以来、6代の天皇に50年にわたり後宮に仕えた。染殿后と呼ばれ、藤原氏の外戚としての地位確立に寄与した。父・良房は「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし」と明子を桜花にたとえて詠んだ。(『古今集』)。伝承が残る。染殿后の美しさに迷った聖人は鬼と化し、后を悩ませた。(『今昔物語集』)。 ◆清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ-てんのう、850-880)。男性。惟仁(これひと)、水尾帝(水尾天皇)、水尾御門。父・第55代・文徳天皇、母・明子(あきらけいこ、染殿皇后)(藤原良房の娘)の第4皇子。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子になる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。良房が権勢を誇った。876年、天皇は27歳で、基経の妹・女御・藤原高子との間の生後3カ月の貞明(さだあきら)親王(第57代・陽成天皇)に譲位した。以後、藤原北家良房一門の権勢は確立された。879年、出家し、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅に出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。880年、粟田山荘に移り没した。31歳。 金戒光明寺裏山に火葬塚(左京区)がある。嵯峨水尾山(水尾山陵)(右京区)に葬られた。僧の身になった天皇は生前に、薄葬、陵墓を造営しないようにと遺詔している。後世、武門の棟梁になる清和源氏の始祖とされた。 ◆仏像 ◈本尊は「地蔵菩薩立像」(165cm)(重文)であり、鎌倉時代作になる。染殿皇后が天皇に造立を勧め、一演が、鞍馬寺・毘沙門天の余材により刻んだという。天皇の身の丈に等しく「玉体地蔵」、また「清和地蔵」とも呼ばれた。眼に仏舎利、胎内に宸筆法華経を納める。江戸時代前期、1661年、御所炎上に際して清和院も類焼した。後水尾院(第108代)中宮・東福門院により現在地移転にあたり、仏心院より本尊として遷された。 右手は上げ中品中生印、左手は上げて宝珠を載せる。胸に截金の装飾がある。二重円光火焔形の珍しい光背を背負う。木造、等身大、玉眼嵌入、截金文様、極彩色。 ◈「木造聖観音立像(河崎観音)」(153.5㎝)(重文)は、現在は当院にはない。平安時代前期、9世紀後半作になる。室町時代後期、1531年に、感応寺(上京区一条鴨川西岸)の河崎観音堂が焼失し、清和院に遷される。(『山城名勝志』)。本来は十一面観音像だったとみられる。空海作ともいう。一演(壱演)の念持仏だったともいう。霊験あらたかな観音として信仰を集めていた。 頭に宝髻を結い、天冠台を戴く。額中央に後補の縦の第三眼がある。条帛、裙、天衣を懸ける。翻派式衣文。左手は曲げ持物を、右手は臂をわずかに曲げて下げ、掌を前に向けて第一、二指を捻ずる。右脚を小さく踏み出し、蓮華座に立つ。 神奈川県の財団法人所有を経て、現在は九州国立博物館蔵になっている。 木造、カヤの一木彫像、彩色、内刳はない。 ◈弥勒堂にかつて、平安時代作の巨大な石仏があった。現在は、北村美術館に遷された。 ◆建築 山門、本堂、庫裏が残されている。 ◆文化財 ◈絹本著色「清和天皇像」1幅は、江戸時代前期、1683年作になる。束帯像であり、第56代・清和天皇800年遠忌に清和院住持・良恭が描いた。東寺長者・有雅が開眼法要を行っている。漆黒漆木箱に納められていた。100.5×56㎝。 ◈絹本著色「清和上皇像」1幅は、江戸時代前期、1683年作になる。法体像であり、第56代・清和天皇800年遠忌に清和院住持・良恭が描いた。東寺長者・有雅が開眼法要を行った。漆黒漆木箱に納められていた。100×56.1㎝。 ◆感応寺 感応寺(かんのう-じ)は、平安時代前期、貞観年間(859-877)、奈良・薬師寺の僧・一演(壱演)が一条末(一条通東端、鴨川西岸、上京区梶井町付近)に建立したという。「一条河崎観音寺」とも呼ばれた。「河崎観音堂」として信仰を集める。 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により延焼した。その後、再興され、1531年にも焼失する。その後、清和院に合併されたという。また、中世(室町時代)末に退転し、本尊・聖観音立像は清和院に遷されたいう。その後、像はほかに遷された。 ◆蜘蛛塚 近代、1898年に「蜘蛛塚」(七本松通一条西入ル、清和院の西門前)が発掘された。墳丘からは石仏、墓標、石塔、破損した石燈籠などが出土した。(『坊目誌』)。現在、石燈籠の火袋部分は、東向観音寺(上京区)に移されている。 ◆洛陽三十三観音巡礼 清和院は洛陽三十三観音巡礼第33番札所になっている。六角堂(中京区)を起点として京都を時計回りに巡り、北野の清和院(上京区)で終わる。 平安時代末、第77代・後白河天皇(1127-1192)が、巡礼困難な西国三十三所巡礼に代わるものとして定めたという。 室町時代中期、1431年に、当初は行願寺(中京区)から始まり北野天満宮(上京区)で結願した。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により札所が廃絶になる。 江戸時代前期、清和院は京都御所東部にあった。1661年に焼失後、現在地に移転している。このため、札所番号も当初の5番から33番に変更されている。 1665年に、第112代・霊元天皇(1654-1732 )により現在の札所・札所の順で再興された。 現代、2005年に「平成洛陽三十三所観音」が復興された。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『旧版 京のお地蔵さん』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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