大福寺 (京都市中京区)
Daifuku-ji Temple

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 大福寺(だいふくじ)はかつて、広大な寺域を有した。いまは夷川通に面して小堂の本堂だけが建つ。 
 「菩提薬師さん」と呼ばれている。山号院号は瑠璃光山利生院という。
 天台宗、本尊は薬師如来(菩提薬師、ぼだいやくし/ほていやくし)を安置する。
 京都十二薬師霊場会第10番札所、札所観音も薬師如来。かつて、京都七福神の一つとされ布袋尊を安置する。京の通称寺霊場15番、菩提薬師。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、599年、大和国宮田郷(富田郷とも)に、瑠璃光山利生院大福寺として建立された。開山、開基は厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)ともいう。(寺伝)
 南北朝時代、1356年、室町時代とも、勅旨により平安京に移されたという。かつて、方八丁(8ha)もの広大な境内を有していたという。
 江戸時代中期、菩提薬師の信仰が高まる。
 1788年、天明の大火で炎上し、寺域の多くを失う。
 幕末、尊攘派志士・梅田雲浜が寺に仮寓し、近くの望南軒に通っていたという。
 近代、雲浜の妻・千代は、寺に住み、女紅場の講師として通ったという。
◆梅田雲浜 江戸時代後期の尊攘派志士・梅田雲浜(うめだ うんぴん、1815-1859)。父は矢部義比、母は武川又兵衛の娘。若狭小浜藩藩士。闇斎の提唱した朱子学・崎門学を修めた。1843年京都で小浜藩塾・望楠軒講主となる。1852年、海防に関する建言により、藩主・酒井忠義は士籍剥奪とし浪人となる。1853年、ペ リー来航後、1858年、京都で梁川星巌と条約不可、一橋慶喜擁立、井伊直弼排斥を青蓮院宮に説く。「反逆の四天王」とされ、同年、幕政批判により安政の大獄で逮捕された第一号になる。江戸の小倉藩邸で拷問死した。
◆梅田千代
 江戸時代後期-近代の教育者・梅田千代(うめだ ちよ、1824-1889)。大和生まれ。勤皇家・村島内蔵進の娘。1855年、梅田雲浜の後妻として嫁ぎ、2児を産む。1872年、新英学校・女紅場で製品係となる。
◆仏像・木像 本堂に安置の本尊・「薬師如来」は、聖徳太子(574-622)の自刻とされている。菩提薬師(ぼだいやくし)ともいわれる。古くは布袋薬師とも称された。かつて、洛中の名薬師と謳われた。
 本尊の左に、恵心僧都(源信、942-1017)作という安産の腹帯地蔵が安置されている。
 京都七福神の一つとされた「布袋尊」(50cm)が安置されている。杖を肩にしている。
 平安時代中期の天台僧・「元三大師(912-985)像」もある。
◆旧境内 当寺は、歴代皇室の崇敬を集め、最盛期には八丁四方の境内に七堂伽藍が建ち並んだ。北は夷川通、南は二条通、西は富小路通、東は麹屋町通で囲まれた地域が、かつての境内だった。
◆大福帳 正月(節分とも)、商家の大福町には宝印を授与する慣わしがあった。大福寺の「大福」という縁起に因み、江戸時代の商人が商売繁盛を願い宝印を貰ったことに始まるという。
 出納帳を大福帳というのも、当寺に起因するという。
◆布袋屋町 付近に布袋屋町の町名が残る。語源は、かつて「ほてい屋」という屋号を掲げた細工人の家があったことに由来するともいう。
 また、中古以来、存在した薬師堂の菩提薬師(ほていやくし)を誤り、布袋薬師(ほていやくし)と呼び慣わし、後に布袋屋町になったともいう。(「坊目誌」)。
◆梅田雲浜旧跡 境内は、江戸時代後期の尊攘派志士・梅田雲浜の旧跡とされている。ここに仮寓し、妻子を迎えたという。現在の本堂が史跡という。雲浜は、この地より望南軒に通っていたという。
 維新後も、妻・千代は寺に住み、女紅場(丸太町橋西詰)の講師として通ったという。
◆年間行事 正月(商人は大福帳に商売繁盛の朱印を受ける。)(1月1日)。本尊開帳(1月17日)、地蔵盆(8月22日-23日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京の福神めぐり』『京都 歴史案内』『京都大事典』


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 大福寺 〒604-0963 京都市中京区布袋屋町498番地,麸屋町通二条上る西側   075-231-3624

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