山本亡羊読書室旧蹟 (京都市下京区) 
Yamamoto Boyo reading room historic ruins
 山本亡羊読書室旧蹟   山本亡羊読書室旧蹟
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 油小路五条上ル西に「山本亡羊読書室旧蹟(やまもと ぼうよう どくしょしつ きゅうせき)」の石標が立つ。江戸時代後期の本草家・医師の山本亡羊の生家になる。 
◆歴史年表 江戸時代、1786年、山本亡羊の父・封山は、西本願寺の儒医を辞し、現在地に医業を開く。西本願寺18世・文世(もんにょ)上人の学問所を与えられ、自邸内に移して読書室と称した。
 1788年、この地に、亡羊が生まれた。
 1810年以降、亡羊は邸内で、毎年、物産会を開く。
 1819年、亡羊は邸内に講堂(講習所)を構え、薬草園を開く。読書室も使用した。毎月、医書、本草書、経書を講じる。
 1865年、1864年とも、読書室は焼失した。蔵書、標本は難を逃れる。
 近代、1874年、読書室は焼失している。
 1875年、現在の読書室が再建された。
 1885年、亡羊の子・章夫は本草研究会「聚芳社」を創立する。
 1893年、京都本草会と改めた。
 1896年、京都博物会と改める。
◆山本封山 江戸時代後期の儒医・山本封山(1742-1813)。山本家8代、次男に亡羊。西本願寺18世・文世上人の儒医として仕えた。1786年、西本願寺を辞し、自宅で医業を開く。
◆山本亡羊 江戸時代後期の本草家・医師・山本亡羊(やまもと ぼうよう、1778-1859)。京都生まれ。父は封山。父に儒学、医学を学ぶ。16歳より小野蘭山の衆芳軒に入り本草学(薬用植物学者)を学ぶ。幕命により蘭山が江戸に移ると、書簡を通じて教えを請う。1810年、蘭山没後、本草学界の中心になる。同年以降、物産会(薬学会)を開き、資料の交換も行う。1819年、講堂を構えた。1823年、幕府に抱えられたドイツのシーボルトと知識を交わした。自宅で医業を開き、毎月、読書室で教えた。薬草園(2000㎡)を開き、数百種の内外の植物を栽培していた。中国、オランダなども含め動植物、鉱物の標本を数万点集めた。著作に「百品考」「救荒本草記聞」など。545人の門弟があったという。墓は宝塔寺にある。
◆山本錫夫 江戸時代後期の本草家・山本錫夫 (やまもと せきふ、1809-1864)。京都生まれ。山本亡羊の次男。山本渓愚の兄。家業を継ぎ西洋物産を輸入した。蘭書を求め、読書室を充実させた。物産会を継承し主宰した。号は榕室(ようしつ)。著作に『山陰四州採薬記』『大和国土産考』など。
◆山本章夫 江戸時代後期-近代の本草学者・写生画家・山本章夫(やまもと あきお、1827-1903)。京都生れ。号を渓愚・渓山。山本亡羊の六男。父に経史、詩文、本草学を学ぶ。絵は浦生竹山に習う。20歳より諸国で写生を行う。近代以降、本草学の再興をした。第122代・明治天皇に進講、久邇宮・賀陽宮の侍講。1885年、本草研究会の聚芳社(後の京都本草会、京都博物会)を創立し、毎年、物産会を催した。20余年をかけ4000種を採録した彩色写生図『本草動植物鉱物魚介類写生帖』41帖を著す。墓は宝塔寺にある。
◆文化財 ドドウネス著『ハーバル(草木誌)』、1554年、アントワープの初版本。稀少本とされる。亡羊の高弟・西村広林によってもたらされたものという。
 西尾市岩瀬文庫(愛知県)は、山本亡羊が主宰した「平安読書室旧蔵本」の和漢洋典籍書写を収蔵している。5人の子(錫夫・秀夫・章夫・正夫・善夫)が蒐集、筆写して支えた。亡羊の著作のほか、錫夫の写本類・写生画、ほかの本草家の遺稿・旧蔵書・著作が含まれている。本草書のほか、医書、薬学書、儒学、国学、歴史、文学、地誌など多岐にわたり1000点を超える。
◆樹木 邸内の香椿(チャンチン)はセンダン科の落葉高木になる。京都市の巨樹名木の一つに数えられている。樹高8m。
 裏庭に植えられていた薬草は、その後、府立植物園に移された。


*非公開
*参考文献 『増補版 京の医史跡探訪』『京都府の歴史散歩 上』『京都大事典』 『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』


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 山本亡羊読書室旧蹟  京都市下京区上金仏町,油小路通五条上る西側   
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