本願寺西山別院 (久遠寺) (京都市西京区)
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山門


山門




本堂



本堂


本堂


玄関


得度習礼教師教修研修道場


鐘楼


寺務所

 本願寺西山別院(ほんがんじ にしやまべついん)は阪急桂駅の東に位置する。山門は旧山陰道に面している。西山御坊(にしやまごぼう)、久遠寺(くおんじ)、桂御房、川島別院とも呼ばれる。西本願寺京都4別院の一つ。 
 現在、境内に浄土真宗本願寺派僧侶を育成する得度習礼・教師教修研修道場、西山幼稚園も併設されている。
 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、800年頃、延暦年間(782-806)とも、第50代・桓武天皇の発願により、伝教大師最澄は西山の地に久遠寺を創建し、これが西山別院の前身になるともいう。(寺伝)
 その後、荒廃する。(寺伝)
 鎌倉時代、1271年、亀山上皇(第90代)は、本願寺3世・覚如の父・覚恵に教えを受けた礼として、「久遠実成阿弥陀本願寺」の号を贈り、久遠寺の寺号になったともいう。
 1314年、本願寺第3代宗主・覚如が復興したという。(「西山御坊来由書」「山州名跡志」)。また、覚如の父・覚恵が梵音を教えた亀山上皇が宸居旧殿を贈り、覚如が父の遺志を継いで創建したともいう。(「別院縁由」・「大谷本願寺通記」)。また覚恵の開創によるともいう。(「大谷本願寺通記」)
 その後、久遠寺は浄土真宗の念仏道場になる。(寺伝)
 1321年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の勅により真宗の道場になるともいう。
 1331年、左少将・源隆貞の奉じた後醍醐天皇のものとみられる綸旨((りんじ、蔵人が天皇の意を受け発する命令文書)により浄土宗の専門道場になるともいう。(「西山御坊来由書」)
 1332年、1333年とも、左少将・隆貞が奉じた宮将軍令(南朝・護良親王、北朝・守邦親王とも)趣旨により御祈祷所になる。覚如は本願寺、久遠寺留守職の兼帯を命じられる。(「西山御坊来由書」)
 1333年、右中将・藤原実継が奉じた北朝初代・光厳天皇の綸旨により御願所になる。
 1336年、大谷廟が戦火により焼失し、覚如は当寺に移る。
 1351年、覚如没後、当寺に廟所が造られ葬られる。(「慕帰絵詞」)。以後、当寺は本願寺歴代宗主兼帯所になる。(寺伝)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃し、小宇のみが残される。
 天文年間(1532-1555)、天台宗化したという。 
 永禄年間(1558-1570)、川島の辻某が法林寺(上京区新町上ル御霊町)の開基・周善に帰依し、寺と寺地を寄進する。周善が当寺を保護し、法林寺の通寺になり真宗道場(門下別所とも)になる。 
 石山合戦(1570-1580)により、織田信長との抗争が続き当寺も荒廃する。
 文禄年間(1592-1596)、法林寺は西洞院通下立売に移る。以後、当寺は兼帯になる。
 江戸時代、本願寺13代・良如(1613-1662)が復興するが果たせなかった。
 第14代・寂如(じゃくにょ、1651-1725)の頃、整備が行われる。
 1670年、法林寺4代・善益は寂如の命により、川島の法林寺通い道場、敷地を本願寺に献上し、以後、本願寺別院になる。その後、再興が始まる。本堂、鐘楼などの伽藍が建てられ、大谷本廟の本尊が遷される。 
 1673年、慶讃法要が営まれる。(「大谷本願寺通記」)。その後、境内が拡張される。
 1756年、1751年とも、本願寺17代・法如は、本願寺旧本堂(阿弥陀堂)を新本堂造営に伴い移築する。久遠寺旧堂は黒谷・慈敬寺(左京区)に移す。以後、諸堂が建立され、一時は本願寺筆頭別院に列せられた。
 1771年、現在の山門が建立された。
 1774年、現在の鐘楼が建立される。
 1811年、本山・錦華殿を移す。
 1812年、現在の書院が建てられる。
 1849年、表書院を改築する。
 近代、1890年、21代・明如が大改修する。
 大正期(1912-1926)、学林が設けられ、現在の中央仏教学院になる。
 現代、1999年、江戸後期建立の対面所は老朽化のため取り壊される。
 2000年、御廟所の改修、本堂が全面改修される。得度習礼教師教修研修道場が建てられる。
 2001年、大玄関が改修される。
 2009年、江戸時代に建てられた太鼓楼が老朽化に伴い解体され今後の再建のために保存された。
 2010年、山門が修復される。その際に棟札が見つかる。
◆覚如 鎌倉時代末期-南北朝時代の浄土真宗の僧・覚如(かくにょ、1271-1351)。京都の人。親鸞の末娘・覚信尼の子・覚惠の長男。母は周防権守中原某の娘。1277年頃、隣房の天台宗・慈信房澄海に師事、1282年(1284年とも)、延暦寺・宰相法印宗澄入門。1283年、法相の興福寺一乗院の信昭に入室。その没後、弟子・覚昭に学ぶ。1286年、興福寺一乗院で出家、受戒し覚如房宗昭と号し行覚に学ぶ。1287年、上洛した如信(親鸞の孫)、1288年、上洛した河和田・唯円より学ぶ。1290年より、父・覚惠らと東国親鸞の遺跡を巡拝する。1302年、覚恵と唯善の間に留守職就任問題、唯善事件が起こる。1306年、覚如・覚惠は三条朱雀に避難する。1309年、青蓮院により大谷廟堂留守職は覚如に継承されるとの裁定が下る。1310年、東国へ勧進と留守職承認懇願に赴き正式に留守職を継承する。1311年、御影像と影堂を再建する。1312年、大谷廟堂(大谷影堂)に「専修寺」の額を掲げるが、比叡山の反対により撤去する。1312年-1321年、本願寺の原型が形成された。1314年、長男・存覚に留守職を譲り、一条大宮に隠居する。1321年、大谷廟堂を寺院化し本願寺と号する。1322年、存覚を義絶、自ら別当職に復職する。1332年、陸奥国大網に赴き、東国門徒に宗義の相伝者であると認めさせる。1336年、足利尊氏による戦乱を避け近江に疎開する。1337年、久遠寺に移る。1338年、存覚の義絶を赦免し、別当職を譲る。1342年、存覚を再度義絶し、別当職に復職する。1350年、存覚の義絶を再度赦免する。別当職は覚如次男・従覚の子、善如が継承するとの譲り状を記す。親鸞の一代記「報恩講私記」、伝記「親鸞聖人伝絵」などを著わす。
 没後、覚如は当初、東山・延仁寺で火葬された。遺骨はその遺言により妻・善照尼の眠る西山別院に納められた。現在、覚祖廟に葬られている。
◆寂如 江戸時代前期-中期の浄土真宗本願寺派の僧・寂如(じゃくにょ、1651-1725)。京都の人。良如の8男。1662年、12歳で浄土真宗本願寺14世となる。1672年、大僧正。法制により宗規を正す。1695年学林の講堂を再興した。
◆徳力善雪 江戸時代の絵師・徳力善雪(とくりき ぜんせつ、1599-1680)。京都の人。父は善宗。家は西本願寺の絵所6家のひとつ。江戸で修業し、父を継ぎ西本願寺の絵所預になる。狩野山雪か狩野探幽に学んだともいう。西本願寺御影堂障壁画作成、飛雲閣襖絵を補修した。作品に「親鸞聖人絵伝」8幅(西本願寺蔵)などがある。法名を善雪とした。
◆本尊 本尊の「阿弥陀如来像」は、江戸時代、1661年、本願寺第13代・良如作、大谷祖錨り遷されたものといい、本願寺の旧本尊、輪光青蓮二尺八寸(84cm)。
 2000年の修復の際に、台座底書が見つかり「大谷御本尊 御堂御建立ニ付御作也 尊像造営寛文元年(1661年)」とあり、「大佛師利 専政 康雲 尊命初斧刀」と記されていた。
◆建築 「本堂」(京都府指定文化財)、山門、西門、南門、目隠し塀、大玄関、書院、鐘楼、得度習礼教師教修研修道場(第一研修道場)などの建物がある。 
 「本堂」は七間四面、単層入母屋造、本瓦葺。江戸時代、1618年建立された。本願寺は1617年に焼失し、1618年に現在の仮本堂(阿弥陀堂)を再建した。その後の復興に伴い、1756年仮本堂を西山別院に移築した。現存する本願寺建物中で最古になっている。2000年に全面修復された。
 「書院」は、江戸時代、1812年に建てられた。75坪、座敷、茶室がある。
 江戸時代後期に建てられた「対面所」が1999年に老朽化に伴い取り壊された。2000年に新造された得度習礼教師教修研修道場1階に新対面所が設けられた。
 「山門」は、江戸時代、1771年に建立された。総ケヤキ造、切妻造、本瓦葺。薬医門。2010年の修復時に棟札が発見された。水口伊豆守藤原朝臣宗為の監督により建立されたことが判明する。
 「鐘楼」は、江戸時代、1774年に建立された。総ケヤキ造、切妻造、本瓦葺。2011年に修復された。
 かつて境内の山門北に「太鼓楼」が建てられていた。江戸時代、1756年頃に建立された木造二階建、入母屋造だった。2009年に老朽化により解体保存された。直径1.5mの檜一本彫りの大太鼓と、蝋燭桟瓦が使われていた。蝋燭桟瓦とは、平瓦と丸瓦を一体化させた瓦の葺き方による。桟瓦の古い葺き方とされ安土・桃山時代から江戸時代の1600年代に登場したという。平瓦に付けられた丸瓦は下が太く上が細い蝋燭の形状に似ていることから名付けられた。蝋燭桟瓦の使用例は少なく、ほかに大徳寺の東司などに見られる。
◆障壁画 本堂の襖絵、金地紙本著色「松に藤」「桜に牡丹」8面(重文)、江戸時代、1618年頃、徳力善宗作。
 本堂内陣天井絵「天人図」は、江戸時代、1618年頃、作者不詳。天井一面に一組の天人が描かれ、真宗寺院としては珍しい例という。
 本堂襖絵「燕子花に八橋」8面、1985年、徳力富吉郎作。八橋、燕子花(かきつばた)が描かれている。日本画家、版画家、本願寺絵所第12代当主、徳力富吉郎(1902-2000)の作。
 江戸時代後期に建てられた対面所が1999年に取り壊される。翌2000年に新造された得度習礼教師教修研修道場1階に、旧対面所の江戸時代の障壁画「松鶴図」が移された。二匹の雛鶴が描かれている。四条円山派・長澤芦洲(1767-1847)の作という。
◆文化財 古文書、後醍醐天皇、光厳天皇綸旨、豊臣秀吉折紙。
◆覚祖廟 境内北西隅に覚如が眠る覚祖廟がある。南北朝時代、1351年頃に造られた。覚如は当初、親鸞が火葬された東山・延仁寺で火葬される。その後、遺骨は遺言により妻・善照尼の眠る西山別院に遷されている。現在は、円墳状の墳墓が築かれている。
◆川島 地名の川島は、荘園革島庄に因る。かつて藤原道長(966-1027)の所領であり、土豪・革島氏が管理した。初代は義季になる。後に明智光秀(1528-1582)に加担し没落する。河島城も構築されていたという。
◆年間行事 元旦会(1月1日)、彼岸会・春季(3月20日頃春分の日)、覚祖会(3代宗主・覚如法要)(4月22日-23日)、彼岸会・秋季(9月20日頃秋分の日)、盆会(歓喜会)(8月中旬)、報恩講法要(10月22日-23日)、除夜会(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都市の地名』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『洛西歴史探訪』、当院サイト


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