蓮光院 (北向不動明王) (京都市中京区)
Renko-in Temple
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玉吉大明神、太郎大明神
 蓮光院(れんこういん)は神泉苑の真南にあり、姉小路通に面している。いまは小堂のみがある。北向不動明王と呼ばれ、本堂は北を向く。 
 かつて、神泉宛の境内はさらに南の三条通まで広がっており、苑が縮小された際に小堂だけが取り残されたという。創建以来その位置は変わっていないという。山号は弘仁山(こうにんさん)。
 真言宗、本尊は不動明王。
◆歴史年表 平安時代、812年、真然の創建ともいう。異説もある。かつては神泉苑内の南門、乾臨閣の南に位置していた。以後、その位置は動いていないという。
 鎌倉時代、1284年、一遍は、釈迦堂、因幡堂、三条悲田院、この蓮光院に立ち寄っている。(「一遍聖絵」巻7)
◆真然 平安時代前期の真言宗の僧。僧・真然(しんねん/しんぜん、804/811-891)。讃岐国に生まれた。空海の甥。中院僧正、後僧正とも称される。9歳で出家、大安寺に入る。空海、真雅に師事。831年、真雅より両部灌頂を受ける。834年、空海より高野山経営を託されたともいう。その没後、葬儀を指揮した。中院に住し高野山の経営を行う。836年、真済と入唐を試み遣唐使船が難破、奇跡的に助かる。838年、入唐の円行に託し、空海の遺品を師・恵果の墓に供える。874年、権律師(律師とも)、875年、弘福寺検校に任ぜられる。876年、東寺長者真雅より『三十帖冊子』(空海による密教の典籍を書写した冊子)を借覧、高野に持ち帰る。その後、返却せず東寺と高野山との長期の紛争になる。882年、高野山の年分度者制の改革に取り組む。883年、権少僧都、884年、東寺一長者、885年、少僧都、888年、権大僧都、890年、僧正に任ぜられる。高野山中院で亡くなる。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別、1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに大宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事、肥前の華台にも学ぶ。智真と改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、大宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目となる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。
◆一遍の歌 鎌倉時代、1284年に一遍が寺を訪れている。一遍が発つ時、住職は次の歌を送った。「うつつとて 待つべき事も なかりけり 昨日の夢よ 見しは見しかば」。一遍が返歌している。「うつつとて 待ちて得て見れば 夢となる 昨日に今日な 思い合はせそ」。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『一遍辞典』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』


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