更雀寺 (雀寺) (京都市左京区)
Kyojaku-ji Temple
更雀寺 更雀寺 
  Home   Home





本堂


本堂


地蔵堂


地蔵堂



地蔵堂、厨子内に頭巾を被った地蔵菩薩(桶取地蔵)が安置されている。


雀塚



雀塚



雀塚、中将実方塚の五輪塔


雀塚、雀の焼き物
 静市市原町に更雀寺(きょうじゃくじ)はある。「雀寺(すずめでら)」とも呼ばれている。山号は森豊山(しんぽうざん)という。
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第3番札所、札所本尊は雀森地蔵(桶取地蔵)。 
◆歴史年表 奈良時代、793年、第50代・桓武天皇の勅願により賢憬が開創したという。(寺伝、『坊目誌』『山城名跡志』)。かつて藤原家の勧学院(大学別曹、寄宿舎)跡地に建てられた。中京区西ノ京勧学院町(三条通千本東入ル下ル)付近にあったという。当初は法相宗だった。
 平安時代、境内は千本三条付近にあった。
 1025年、焼失する。
 1097年、再興される。(『山城名跡巡行志』)
 南北朝時代、文和年中(1352-1355)、類焼した。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。
 江戸時代、寛永年間(1624-1644)、勧進僧・浄春が錦大宮町(中京区四条北大宮西入ル)に再興したという。浄土宗に改宗される。当初は、勧学院跡地に春日社が残されており、ある僧が傍らに庵を結んだ。その地が酒井氏の屋敷になるに及び、錦大宮町に移したという。(『山州名跡志』)。壇越・森豊後守により移されたという。その名に因み山号「森豊山」とした。(『坊目誌』)
 寛文年間(1661-1673)、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになった。
 1788年、天明の大火により焼失する。
 1863年、2月23日、江戸より入洛した浪士組の新見錦、井上源三郎、根岸友山ら59人がその夜、分宿した。翌24日に中村家へ移動する。
 現代、1977年、四条大宮周辺の都市化に伴い現在地に移転した。
◆賢憬 奈良時代-平安時代の法相宗の僧・賢憬(けんけい/けんきょう、714/705-793)。尾張国の人。尾張僧都、尾張大僧都とも呼ばれた。興福寺宣教に師事、唯識法相を学ぶ。743年、「師主元興寺賢璟」として同族子・麻呂を優婆塞(うばそく)に貢進推挙した。754年、唐僧・鑑真を難波に迎える。755年、旧戒を破棄し鑑真から具足戒を受けた。758年、唐招提寺に『一切経』420巻を奉納。774年、律師に任じられる。778年頃、大和国室生山で延寿法を修し、山部皇太子(後の第50代・桓武天皇)の宿痾を治す。以来信頼を得る。780年、多度大社神宮寺に三重塔を建立、宝亀年間(770-780)、室生寺を創建した。784年、大僧都に任じられる。785年、最澄の戒牒、『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に僧綱の一人として署名した。793年、遷都に伴い、撰定地として山背(山城)に派遣される。比叡山文殊堂供養で導師を務めた。
◆藤原実方 平安時代中期の貴族・歌人・藤原実方(ふじわら の さねかた、?-999)。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。中古三十六歌仙の一人。父没後、叔父の大納言・済時の養子になる。第65代・花山天皇、第66代・一条天皇に仕え、986年、従四位上、987年、左近衛中将に至る。995年、一条天皇の面前で藤原行成と歌のことで口論、怒った実方が行成の冠を奪い投げ捨てた。実方は天皇の怒りを買い、陸奥守に左遷される。999年、任国で騎上し笠島道祖神前で、馬が倒れ下敷きになり亡くなったという。馬の蹴殺ともいう。
 『拾遺和歌集』などに入集。伝承として清少納言と交際関係があったともいう。多くの女性と交際し、『源氏物語』光源氏のモデルの一人ともいう。死後、鴨川橋下に実方の亡霊が出たという。蔵人頭になれずに亡くなった怨念により雀に転生し、殿上の間の台盤上の物を啄んだという(入内雀)。
◆桶取地蔵 地蔵堂安置の地蔵菩薩は「桶取地蔵(おけとりじぞう)」と呼ばれている。右手に錫杖、左手に宝珠を掲げている。像高1m。
 寺伝によると、壬生近くの白拍子・松並千歳(まつなみ ちとせ)の娘・照子は、生まれつき左手の指が3本しかなかった。照子は、来世こそは、障がいのない人間に生まれることを願い、当寺(壬生寺とも)の地蔵尊に日参した。その際に、壬生の尼ヶ池の水(福田寺)を閼伽水として汲み、地蔵に供えていたという。そのため、桶取地蔵と呼ばれた。
 また、雀の森(雀が森、歓学院の森)に寺があり、「雀が森地蔵(雀森地蔵)」ともいわれた。これは、藤原実方(さねかた)の伝承に起因する。実方が親戚の藤原行成と内裏で口論した。実方は笏(しゃく)で行成の冠を打ち落とした。このことが一条天皇の耳に入り、実方は奥州に左遷され亡くなる。実方は、雀に化身し京都に戻り森にとどまった。殿上の台盤に居り、台飯を啄ばんだという。(『源平盛衰記』)。
 また、雀は当寺の住持・観智法印の夢中に現れ、望郷の苦しみからの救済を求めた。故あって奥州に左遷された。3年経っても帰洛はかなわなかった。陸奥国名取郡笠島の道祖神の前を馬で乗り通りかかる。神罰により落馬し、一命を失った。その後も帰洛の一念により、雀になり都の当寺の森に棲んでいるという。観智は、抜苦破罪の持念を行い、雀を塚に埋めて弔ったという。以来、更雀寺と呼ばれるようになる。森は「雀の森」と呼ばれたという。(寺伝)
 また、藤原家の勧学院の住職に夢告があった。自らを実方と名乗る雀は陸奥で亡くなり、神雀と化して都に戻った。朝は台盤所で米を啄み、夜に林で羽を休めている。勧学院で止宿するので読経してほしいという。翌朝、林に死んだ雀があり、住職はそれを手厚く葬り、五輪塔を建てて供養したという。
 また、故事「勧学院の雀は蒙求(もうぎゅう)を囀(さえず)る」に由来するともいう。勧学院に棲む雀は、学生が「蒙求」を読むのを聞き覚え、それを自然にさえずる。「門前の小僧 習わぬ経を読む」の意味に等しい。
 地蔵は、毎年4月下旬、壬生寺(中京区)で催される大念仏狂言「桶取」の題材になったことで知られている。
◆勧学院 「勧学院」は、平安時代の藤原氏有力氏族のための大学別曹、寄宿舎をいう。大学寮南(左京3条1坊5町)にあり、「大学南曹」とも呼ばれた。821年、藤原冬嗣により創建され、872年以前に大学別曹として公認された。のち任官試験を経ずに地方官に任命されるなどの特権(年挙)を朝廷から認められた。藤氏長者が管理し荘園寄付により賄われた。一族の祭祀を扱う氏院(うじのいん)としての政所も設置されていた。貴族社会衰退により、鎌倉時代に消滅したという。
◆桶取 壬生大念佛狂言の代表的演目「桶取(おけとり)」には、当寺の桶取地蔵が登場する。
 鎌倉時代後期、壬生寺の近くに松並千歳という白拍子が美しい娘と住んでいた。娘は照子といい、左手の指が3本しかなかった。娘は壬生寺に日参し、地蔵詣りを続ける。ある日、境内で和気俊清という男に出会う。俊清は妻がいたが、娘を見初め言い寄る。紫しごき帯を照子に渡して踊り(かいぐり、つばめ、つかみ)を教えようとする。臨月の妻が登場し、2人に怒り、夫婦の立ち回りの踊りが続く。照子は去り、俊清もその跡を追う。1人残された妻は自らの不器量を嘆き、化粧をし直そうと試みるが、やがて諦め頓狂死してしまう。
 狂言では更雀寺ではなく壬生寺に設定が変えられている。妻没後、2人は悔悛し仏門に帰依したことになっている。(『壬生寺縁起』)
◆雀塚 歌人・藤原実方が奥州に左遷され亡くなる。望郷の念から雀に化身し京都に戻る。法印により塚に埋め供養したという。 その雀塚が、境内の地蔵堂の傍らにある。墓と伝えられる五輪塔が立つ。石は五輪塔、宝篋印塔などを集めている。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都 歴史案内』 『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『京のお地蔵さん』『旧版 京のお地蔵さん』『京の寺 不思議見聞録』


  関連・周辺       周辺       関連壬生寺       関連福田寺・尼ヶ池みがわり地蔵(中京区)     
 更雀寺  〒601-1123 京都市左京区静市市原町738-1   075-781-2115
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光