梁川星巌邸跡  (京都市上京区)
The ruins of the residence of YANAGAWA Seigan

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 鴨川河畔、川端通りに面した駐車場の北西隅に「梁川星巌邸址(やながわ せいがん ていあと)」の石標が立っている。ここにはかつて、幕末第一の詩人と謳われた梁川星巌が過ごした「鴨沂(おうき)水荘(鴨沂小隠)」があった。鴨川を挟んで頼山陽が住んだ「山紫水明処」の向かいになる。当時、二邸は互いに大声をあげれば聞こえる程に近く、両者はそれぞれ行き来していた。また、それぞれ多くの文人が集った。   
◆歴史年表 江戸時代後期、1846年、梁川星巌は京都に移り住んでいる。
 晩年、山紫水明処の川向かいの「鴨沂(おうき)水荘」(川端丸太町上ル東)に移り、「鴨沂小隠」と号した。
◆梁川星厳 江戸時代後期の漢詩人・梁川星巌(やながわ せいがん、1789-1858)。美濃国安八郡曾根村の富農・長高の子。1807年、江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り儒学、詩文を学ぶ。市河寛斎の江湖詩社に参加。1817年、帰郷し私塾梨花村舎を開く。1819年、京都で頼山陽と出会い意気投合する。1820年、同郷の詩人・紅蘭と結婚。1822年、妻を伴い西遊し九州に入る。1834年、江戸神田お玉が池に住し、詩社の玉池吟社を起こす。藤田東湖、佐久間象山と交わる。1845年、帰郷、1846年より、京都に移り、晩年は山紫水明処の川向かい「鴨沂(おうぎ)水荘」(川端丸太町上ル東)に住み、「鴨沂小隠」と号した。1849年、ペリー来航後は尊王攘夷を唱える。1858年、安政の大獄に連座し捕らえられる直前、流行っていたコレラにより亡くなる。5000首の作詩を残した。梁川夫妻の墓は、南禅寺・天授庵にある。
 多くの文人と交流があった。頼山陽・頼三樹三郎父子、兵学者・思想家の佐久間象山(1811-1864)、漢詩人の河野鉄兜(1825-1867)、尊攘派の桜任蔵(1812-1859)、儒学者の梅田雲浜(1815-1859)、思想家・教育者の吉田松陰(1830-1859)、福井藩開明派志士の橋本左内(1834-1859)、長州の尊攘派・久坂玄瑞(1840-1864)、尊皇攘夷派僧の月照(1817-1858)、儒学者の横井小楠(1809-1869)、軍人・政治家の西郷隆盛(1828-1877)など。 
◆梁川紅蘭 江戸時代後期-近代の漢詩人・梁川紅蘭(やながわ こうらん、1804-1879)。美濃国安八郡曽根村の郷士・稲津長好の次女。8歳頃、曽根村の華渓寺・太髄に師事、句を学び、1817年、14歳で星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学ぶ。星巌とはまた従兄妹になる。1820年、17歳で梁川星巌と結婚。1822年、星巌とともに全国を周遊した。1827年、京都に移る。1832年、夫と江戸に移る。1845年、美濃に帰る。1846年、京都・木屋町二条、1849年、川端丸太町上ルに移る。1858年、星巌病死直後、その身代わりとして安政の大獄で捕らえられる。激しい拷問に半年間耐えた。1859年、釈放される。星巌の遺稿を出版、晩年は京都で私塾を開く。漢詩、絵画も残した。梁川夫妻の墓は、南禅寺・天授庵にある。


*参考文献 『新選組と幕末の京都』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』


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 梁川星巌邸跡 〒606-8395 京都市左京区東丸太町5 
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