大光明寺 〔相国寺〕 (京都市上京区)
Daikomyo-ji Temple
大光明寺 大光明寺 
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山門






庫裏







玄関


中門


中門


本堂






「心字の庭」「峨眉山(がびさん)の庭」


「心字の庭」


「峨眉山(がびさん)の庭」



「峨眉山の庭」、犬の石の置物



中庭


 相国寺境内に塔頭の大光明寺(だいこうみょうじ、大光明寺禅寺)はある。山号は梵王山(ぼんおうざん/ぼんのうざん)という。伏見宮家歴代の菩提寺になる。かつて、伏見殿傍らに建てられた寺は、離宮の役割も果たしていた。
 臨済宗大本山相国寺派、本尊は普賢菩薩。
 京都十三仏霊場めぐり第4番札所、札所本尊は普賢菩薩(四七日)。辰年、巳年生まれの守り本尊、法華経では女人往生を説き女性の信仰篤い。長寿の信仰もある。 
◆歴史年表 南北朝時代、文和年中(1352-1356)、1337年、1339年とも、第93代・後伏見天皇女御・広義門院西園寺寧子が、亡き天皇の菩提を弔うために創建した。(「智覚普明国師語録」)。開山は仏統国師(夢窓疎石)による。(『坊目誌』)。当初は、持明院の仙洞があった伏見殿(伏見離宮、伏見区桃山町)の傍らに置かれた。
 1363年、光厳院(北朝初代)は、崇光院(北朝3代)に対して、伏見御領を大光明寺塔頭に付し、領は崇光院子孫に伝領するよう置文した。(「光厳院置文写」)。春屋妙葩が広義門院の7回忌法要を営む。
 1364年、春屋妙葩が1年ほど住し天龍寺に移る。以後、夢窓派の五山派僧が入る。
 1380年、光明院没後、当寺に遺骨が納められる。(『山城名勝志』)
 1398年、崇光院は伏見殿で没し、当寺で葬送された。足利義満は伏見殿を没収する。(『椿葉記』)
 1399年、伏見殿は伏見宮家に返却される。(「椿葉記」)
 室町時代、1401年、伏見殿、大光明寺が焼失している。(『迎陽記』)
 1409年、栄仁親王は大光明寺塔頭・大通院を建立した。 
 1416年、栄仁親王没後、寺内に葬られる。以来伏見宮の菩提所になる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃、その後、復興する。(『蔭涼軒日録』)
 安土・桃山時代、文禄年中(1592-1596)、1594年とも、豊臣秀吉は伏見殿に伏見城を築造し、方丈が建てられる。庫裏、諸堂も徳川家康などの寄進により再興される。(「承兌和尚事蹟」)。西笑承兌を中興とするともいう。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年中(1596-1615)、焼失した。(『相国寺塔頭末派略記並歴代』)
 江戸時代、元和年中(1615-1624)、1614年とも、大光明寺、大通院は相国寺山内に移る。(「相国寺塔頭末派略記並歴代」)。徳川家の外護があったという。辰年生まれの家康が普賢菩薩を本尊としたという。
 1620年、焼失する。その後、復興される。
 1788年、天明の大火で相国寺山内の多くの伽藍を焼失している。大光明寺も焼失した。
 1818年、再興になる。
 近代、1868年、廃絶した。
 1873年、心華院に合併される。
 1906年、伏見宮家菩提所になっていた塔頭・心華院(しんげいん)、焼失した大光明寺、廃絶していた常徳院の3寺が合併される。心華院の寺域伽藍を改め、寺号を大光明寺として再興される。
◆西園寺寧子 鎌倉時代-南北朝時代の女性・西園寺寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、1292 -1357)。父は左大臣西園寺公衡、母は藤原兼子。1306年、女御として持明院統の後伏見上皇(第93代)の後宮に入る。1309年、第95代・花園天皇の准母、従三位に叙せられ、准三后・院号(広義門院)の宣下を受けた。1313年、量仁親王(後の北朝初代・光厳天皇)、1321年、豊仁親王(後の北朝2代・光明天皇)を生む。1318年、大覚寺統の第96代・後醍醐天皇が即位したが、1331年、後醍醐天皇による倒幕計画・元弘の変の責により退位、代わりに量仁親王が光厳天皇として即位し、広義門院は国母となる。だが、1333年、後醍醐天皇の巻き返しにより鎌倉幕府は滅亡、光厳天皇は廃立された。1335年、広義門院の甥・西園寺公宗の持明院統再興は失敗する。1336年、後伏見上皇没後、広義門院は出家した。後醍醐天皇を破った足利尊氏は、今度は光厳上皇を迎え、広義門院は上皇実母としての地位を取り戻した。1339年、広義門院は後伏見上皇の菩提のために大光明寺を創建した。1351年、尊氏・室町幕府勢力は足利直義との対抗上、南朝と講和したため再び光厳院政・崇光天皇の皇位が廃される。さらに1352年、南朝側は幕府軍を破り京都へ進入、光厳上皇ら北朝側の上皇、皇位継承者を拉致、大和賀名生へ連れ去った。天皇不在になり、幕府は広義門院に再三懇願し、広義門院は上皇代理として伝国詔宣を行う。女性でしかも皇室の出自ではなく治天の君(国王)の座に就いた唯一の例になる。1353年、北朝4代・後光厳天皇へ政務権継承後も、院政により影響を持ち続けた。
◆夢窓疎石 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・夢窓疎石(むそう そせき、1275-1351)。伊勢国に生まれた。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村?)の娘。1283年、市川・天台宗の平塩山寺・空阿大徳に師事、後に剃髪。1292年、奈良・東大寺の慈観につき受戒。平塩山寺・明真没後、建仁寺・無隠円範に禅宗を学ぶ。1295年、鎌倉に下向、東勝寺・無及徳栓、建長寺・韋航道然、1296年、円覚寺・桃渓徳悟、建長寺・痴鈍空性に参じた。1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、建長寺・一山一寧のもとで首座、1303年、鎌倉・万寿寺の高峰顕日に禅を学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。浄居寺開山。1311年、甲斐国牧丘の龍山庵、浄居寺に一時隠棲する。美濃国・虎渓山永保寺(古谿庵)を開き、北山、土佐、鎌倉、三浦、上総と移り、1325年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の請により上洛、南禅寺住持。1326年、北条高時に鎌倉・寿福寺の請を避け伊勢国・善応寺を開く。鎌倉・南芳庵に居し、1327年、瑞泉寺を開く。1329年、円覚寺に入り高時、北条貞顕の信を得る。1330年、甲斐・恵林寺を開き、1331年、瑞泉寺、1332年、恵林寺に移り、播磨・瑞光寺を開く。1333年、鎌倉幕府が滅亡、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、1334年、南禅寺に再住、1336年、臨川寺・西芳寺開山に迎えられた。足利家の内紛の観応の擾乱で調停し、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立、利生塔を設置した。1339年、天龍寺開山。1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1346年、雲居庵に退隠。1351年、天龍寺再住。最晩年は臨川寺・三会院(さんねいん)に移り亡くなった。
 夢窓国師・正覚国師など、歴代天皇より7度国師号を賜与され七朝帝師と称された。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏らの帰依を受け外護を得た。夢窓派としては、無極志玄、春屋妙葩など門下は13000人にのぼる。多くの作庭も行う。能書家としても知られた。
◆春屋妙葩 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・春屋妙葩 (しゅんおく みょうは、1311-1388)。国師号は知覚普明など。七朝の国師と称され、7代の天皇に国師号を贈られた。甲斐の生まれ。夢窓疎石の甥、1322年、甲斐・慧林寺の道満につく。1325年、得度、1326年、南禅寺住持の夢窓のもとで登壇受戒。夢窓に従い鎌倉の浄智寺・瑞泉院(後の瑞泉寺)に移る。1327年より、鎌倉・浄智寺の元の渡来僧・竺仙梵僊に師事、鎌倉・円覚寺に赴く。1334年より、竺仙の書状侍者、1335年、京都の夢窓に参じた。1336年、南禅寺・元の渡来僧・清拙正澄に梵唄(声明)を学んだ。1345年、天龍寺・雲居庵主、夢窓により春屋の号を受け印可を得た。1357年、等持寺に住した。1351年、夢窓没後、無極志玄につき、1359年、その没後は同派領袖の一人となる。1363年、天龍寺に住した。1368年、南禅寺山門破却事件で延暦寺と対立、管領・細川頼之の裁定に反発し、強硬派の春屋一派は朝廷、幕府に抗議したため、春屋らは丹後・雲門寺に10年間隠棲する。1379年、頼之失脚後、天龍寺・雲居庵、南禅寺住持に戻り、足利義満の外護により禅宗最高要職・天下僧録司に任じられた。宝幢寺住持、寿塔を建て鹿王院と名付ける。1382年、天龍寺再住。1384年、義満創建の相国寺勧請開山を夢窓とし、自らは2世に就く。鹿王院で亡くなり、当院に葬られる。相国寺・大智院にも分葬された。
 『夢窓国師年譜』などを著す。五山版の祖録、外典など出版事業に業績を残した。
◆栄仁親王 南北朝時代-室町時代の皇族・栄仁親王(よしひと/なかひと しんのう、1351-1416)。北朝崇光天皇第1皇子、母は権大納言庭田重資の娘資子。1368年、親王宣下を受け、1375年、伏見殿で元服した。観応の擾乱(1350-1352)余波により即位できなかった。1398年、崇光没後、後小松天皇に所領を召し上げられ、落飾し通智とした。洛北萩原殿に移り、1399年、伏見殿に戻る。1401年、伏見殿が焼け、嵯峨洪恩院に移る。1403年、有栖川山荘(有栖川殿)に移り、有栖川殿と称する。晩年は伏見御所に住み、没した。追号を大通院と贈られた。伏見宮初代当主。伏見殿、有栖川殿などと称する。琵琶、笙、和歌など諸芸能に秀でた。 
◆西笑承兌
 室町時代-江戸時代の臨済宗僧・西笑承兌(せいしょう/さいしょう じょうたい、1548‐1608)。山城に生まれた。一山派の仁如集堯ら学び、1584年、相国寺の住持、中華承舜の嗣法になり夢窓派に転じ相国寺中興の祖とされた。1585年、鹿苑院に入り僧録。南禅寺、再度鹿苑僧録。豊臣秀吉、徳川家康の政治顧問として重用され、寺社行政、外交に関わった。梵唄に優れた。
◆荻野独園 江戸時代後期-近代の臨済宗僧・荻野独園(おぎの どくおん、1819-1895)。備前国の人。13歳で出家、18歳で豊後国・帆足万里に儒学を学ぶ。相国寺・大拙承演に師事、師没後に心華院に移る。1870年、相国寺第126世住持、1872年、教部省設置により教導職として招かれ、増上寺の大教院・大教正に任じられる。臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の総管長を兼務した。廃仏毀釈政策に抵抗し、1875年、大教院廃止により神道国教化政策を食い止め、相国寺に戻った。南九州の仏教寺院再建に尽くした。「信教の自由」の立場から相国寺が薩摩藩に貸与していた敷地が同志社英学校用地になることを認めた。再興した京都・豊光寺で亡くなる。大光明寺に墓がある。
◆伏見殿
 平安時代、1093年頃、橘俊綱の伏見山荘が営まれ、その後、白河院、平範頼を経て、1167年に後白河院が伏見殿を建てた。鎌倉時代中期、後嵯峨院の後院として使われ、その後は伏見院、後伏見院に継がれた。後光厳院、栄仁親王以後、伏見宮家の御所になった。
◆心華院 心華院は、安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、西笑承兌が創建した。江戸時代、1620年、大光明寺に代わり伏見宮の仮菩提所になる。1788年、天明の大火により焼失、誠拙周樗が中興する。光源院の拙庵は1820年、伏見宮より恭礼門院旧殿、金100両を得て、客殿、庫裏、玄関などを再建した。1860年、荻野独園が客殿を新造する。旧客殿は書院となる。1892年、東嶽禅師が書院を改築した。近代、1906年、大光明寺と改号になる。
◆常徳院 常徳院は、室町時代、空谷明応(1328-1407)の塔頭であり、足利義尚(常徳院、1465-1489)の菩提寺になる。江戸時代、1664年、焼失している。寺号だけになり、近代、1906年に大光明寺に合併された。
◆仏像 本尊の「普賢菩薩」は創建時に安置されたものという。6本の牙をもつ白象の上の蓮華座に坐し合掌している。 脇持ではなく単体で本尊として安置されている珍しい例という。1614年、辰年に、家康は当寺を現在地に移転再興させた。辰年生まれの家康が普賢菩薩を本尊としたという。干支「辰」年の守り本尊、招福、延命の信仰を集める。
 なお、本山法堂に釈迦如来、大智院に文殊菩薩が安置され、当寺の普賢菩薩を含めて三尊が揃う。
◆建築 方丈は、江戸時代、1818年、伏見宮17代・邦頼親王17年忌に際して、新女御院宮殿を下賜され再建したという。
◆庭園 枯山水式の庭園「峨眉山(がびさん)の庭」がある。作庭は近年(昭和50年代?)、当時の住職による。山門と中門の間に白砂が敷かれ砂紋が引かれている。苔地に石組がある。峨眉山とは、中国四川省峨眉山に由来し、この地は普賢菩薩道場とされており、庭はこの山の険しさと禅修行の厳しさを表している。キキョウが植えられている。
 本堂南に石、白砂、刈込の松による枯山水式庭園がある。石組は「心」の字を形どり「心字の庭」といわれている。
◆文化財 鎌倉時代の絹本着色「羅漢図」(重文)1幅、伊藤若冲「芭蕉小禽図」、室町幕府9代将軍・足利義尚筆の「和漢朗詠集」「雲錦蒔絵硯箱」薩摩焼錦手「龍図茶碗」。鎌倉時代の臨済宗破庵派の来日禅僧、日本禅宗大鑑派の祖・清拙正澄(1274-1339)の墨書。
◆障壁画 1985年、版画家・徳力富吉郎(1902-2000)寄進の障壁画がある。
◆墓 9代将軍・足利義尚(1465-1489)の墓がある。僧・ 荻野独園(1819-1895)の墓がある。非公開。
◆大光明寺陵 かつて大光明寺のあった跡地に現在は、大光明寺陵(伏見区桃山町秦長老)がある。近代に入り築造された。南北朝時代の北朝第2代・光明天皇、北朝第3代・崇光天皇、伏見宮家第2代・治仁(はるひと)親王が葬られている。1911年、天皇家はそれまでの北朝系より南朝系が正統とされ、それに伴い光明天皇、崇光天皇両天皇は歴代より外されている。ただ、御陵は現在も宮内庁が管理している。
 安土・桃山時代、1594年、豊臣秀吉が指月伏見城の築城に伴い、大光明寺、伏見寺(即成就院、即成院)、般舟三昧院がそれぞれ移されている。
◆年間行事 縁日(毎月14日)。


*普段は一般非公開、建物内の撮影禁止。御朱印は呼び鈴を鳴らす。
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都事典』『京都の禅寺散歩』『事典 日本の名僧』『京都秘蔵の庭』『京の福神めぐり』


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 大光明寺 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町701,今出川通烏丸東入る  075-211-0454
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