伏水(伏見)刑場跡 (京都市伏見区)
ruins of Fushimi-keijo(The execution site)
伏水(伏見)刑場跡 伏水(伏見)刑場跡 
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観月橋と宇治川、手前の河原、堤防一帯が刑場跡とみられている。




平戸橋


平戸橋


【参照】八千代大明神
 宇治川に架かる現在の観月橋は、かつて豊後橋と呼ばれ、大和街道の往来があった。その西、宇治川北岸の河原・堤防一帯には、伏水(伏見)刑場(ふしみ けいじょう)が置かれたという。
 その北は、平戸(ひらど)と呼ばれている。宇治川流派に架かる平戸橋が渡され、道(旧御役所大道)は北へ向かい伏見御奉行所(現在の奉行町)の西側に通じていた。 
◆歴史年表 江戸時代、1614年、キリシタン武士・ジョアン兵右衛門が、京橋近くの宇治川本流の河原(平戸町-弾正島付近?)で斬首される。
 1758年、平戸の伏水刑場で、医師・伊良子光顕は、刑屍人の腑分を行っている。(「伏陽宅諸事控」)
 1783年、医師・橘南谿、蘭方医・小石元俊は、豊後橋(観月橋)西の平戸で刑屍人・平次郎を腑分した。(「平次郎腑分図」)。伏見奉行・小堀政方の刑死人下げ渡しにより実現した。その後、刑場での腑分は行われなかったとみられている。 
 1808年、平戸の南端、宇治川岸付近に「セイバイ場」と記されている。(「伏見市街地図」)
◆ジョアン兵右衛門 江戸時代のキリシタン武士・ジョアン兵右衛門(?-1614)。兵左衛門。安芸の生まれ。毛利家に仕える。駿河のイエズス会パウロ・レオジン修道士により洗礼を受けた。キリシタンのため、駿河を追われ伏見に移る。棄教せず、奉行所に夫婦とも捕われる。ほかの信者とともに京橋で2日間に渡り俵に入れられ晒された。一旦釈放され、再び夫婦で投獄された。その後、妻は釈放される。ジョアンは京町通で裸で柱に括り付けられ6日間晒された。市中を引き廻され、数か月間投獄される。ジョアンは、担当した3人ほどの役人に洗礼を授けたという。1614年12月、京橋の河原でキリシタンの1婦人、2男子とともに斬首処刑される。
◆伊良子光顕 江戸時代中期の医師・伊良子光顕(いらこ みつあき、1737-1798)。伏見の生まれ。父は伊良子好問。祖父の伊良子道牛が始めた伊良子派外科を継ぐ。1758年、伏見・平戸で男子刑屍の腑分を行う。山脇東洋、栗山孝庵に次ぐものだった。この時、大腸と小腸を初めて見分けている。1767年、『外科訓蒙図彙』を著した。1777年、典医、滝口武者に列し、後に長門守。1769年、『金創秘授外科訓蒙図彙』を著わした。墓は伏見・宝塔寺にある。
◆橘南谿 江戸時代後期の医者・国学者・橘南谿(たちばな なんけい、1753-1806)。伊勢の生まれ。上洛し、医師・香川修庵に師事、賀川玄悦、畑柳安らに学ぶ。1782年-1786年、全国を周り『東西遊記』を著す。京都で開業し、朝廷に召された。1783年、蘭方医・小石元俊らと解剖を行う。その記録『平次郎臓図』 (吉村蘭洲筆)、解剖術式『解屍運刀法』などを著す。和歌も嗜む。墓は金戒光明寺にある。
◆小堀政方 江戸時代の伏見奉行・小堀政方(こぼり まさみち、1742-1803)。伏見生まれ。1752年、姉の子・政寿の廃嫡により嫡子。1761年、前年に没した父を継ぐ。田沼意次の幕政に参与、大番頭、1778年、伏見奉行に就く。1785年、伏見元町年寄・文殊九助ら7人の直訴により、小堀藩各種御用金取立て、配下の収賄などの咎により罷免され、1787年、領地没収された。(伏見騒動)。小田原藩主・大久保忠顕に預けられ、小田原で没した。近江小室藩の第6代(最後)藩主、小室藩小堀家7代、遠州流茶道7世家元。
 政方の罷免罪状の一つに刑屍者の腑分下げ渡しの件も含まれていた。大徳寺・孤篷庵に墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『伏見の歴史と文化』『増補版 京の医史跡探訪』『京都大事典』


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伏水刑場跡 〒 京都市伏見区平戸町   
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