善想寺 (京都市中京区) 
Zenso-ji Temple

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地蔵堂、泥足地蔵尊


「洛陽第六番 泥足地蔵尊」とある。


本堂


本堂、内陣


玄関



庫裏
 六角通大宮西入に北面して善想寺(ぜんそうじ)が建つ。泥足地蔵(汗出し地蔵)が知られている。山号は大悲山という。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 安産守護、所願成就の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、この地には関白太政大臣・藤原頼忠(924-989)の本宅があった。(「百練抄」)
 979年、後院(別宮)になり四条後院と呼ばれた。(「百練抄」)
 天元年間(978-982)、980年とも、大内裏火災の際に、第64代・円融天皇は四条後院に行幸し一時、皇宮にする。
 鎌倉時代、1331年、元弘の乱で後院は荒廃した。 
 南北朝時代、1336年、建武の乱(延元の乱)により後院は廃墟になる。
 室町時代、1433年、足利直義の子・如意王丸より、六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進があり、この地に本応寺が本能寺と改め再建された。
 1536年、本能寺は天文法華の乱で比叡山僧徒の襲撃により焼失した。
 1542年、僧・想阿善悦は、 洛西の地に一寺を建立し、法名の一字により善想寺と称した。
 その後(年代不詳)、善想寺は兵火により焼失する。
 安土・桃山時代、1581年、想阿善悦が亡くなる。
 1582年、想阿善悦の孫弟子・法春和尚は、豊臣秀吉の命により現在地、六角大宮に善想寺を再建したという。
 1587年、正誉上人により坂本の泥足地蔵が当寺に遷された。
 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失する。
 その後、再建された。
◆藤原頼忠 平安時代中期の公卿・藤原頼忠(ふじわら の よりただ、924-989)。父は摂関実頼、母は左大臣時平の娘。三条太政大臣と称された。963年、参議、971年、右大臣。977年、左大臣、関白・藤原兼通は弟・兼家と不和により、兼通から譲られて第64代・円融天皇の関白(氏長者)になる。978年、太政大臣を兼務した。986年、第66代・一条天皇即位により兼家が摂政に就き、関白を辞任する。円融天皇皇后で娘の遵子(じゅんし)に皇子が生まれず、外戚はかなわなかった。死の直前に剃髪、受戒した。邸宅に三条殿と四条宮があり、三条殿と呼ばれた。「拾遺和歌集」に入集。
◆想阿善悦 室町時代-安土・桃山時代の浄土宗の僧・想阿善悦(そうあ ぜんえつ、?-1581)。詳細不明。藤原家の子孫。31歳の時、洛西の地に善想寺を建立した。帰依する者が何万人に及んだという。79歳。70歳とも。
◆法春 室町時代-安土・桃山時代の浄土宗の僧・法春(生没年不詳)。19歳で鎌倉・光明寺に入る。想阿善悦の孫弟子。1582年、25歳の時、豊臣秀吉の招きにより入京した。同年、大徳寺・総見院での織田信長大葬の法要に加わる。同年、秀吉の命により善想寺を再興した。正誉上人?。
◆池坊専好 江戸時代初期の僧で2代目・池坊専好(いけのぼう せんこう、1575-1658/1659)。池坊家32世、頂法寺の僧、専応花道の宗匠。1629年、紫宸殿での立花の催しを行う。1637年、第108代・後水尾天皇に召され立花を指導、宮中での立花会の判者、法橋に叙された。以来、七夕の立花の会は池坊の吉例になる。池坊中興の祖、天下の名人と称された。『秘伝書』(1649)を著わす。 
 墓は善想寺にある。
◆兜潟 江戸時代後期-近代の力士・兜潟(かぶとがた、1824-1882)。京都の人。父は大垣藩主・戸田侯側近・林久吉。本名は母方の姓を継ぎ畑弥吉。兜形、甲形ともいう。伏見の母方実家に土俵があり、力士が出入りしたため相撲に親しむ。30歳前、家元・五条家の京都相撲の初代・錣形岩右衛門の門に入る。師没後、2代・錣形岩右衛門の弟子。錣形が禁裏守護補佐、力士隊長を務め、兜潟も天皇の身辺警護を務めた。第121代・孝明天皇より御前でのあぐらを勅許された。1868年、第122代・明治天皇の大坂行幸で錦旗奉持を務める。1871年、五条為栄より横綱を免許され、祇園北林で披露した。京都相撲初・最後の横綱になる。1872年、引退、1873年、頭取。
 墓は善想寺にある。
◆仏像・石像・木像
 本堂安置の本尊「阿弥陀如来」と「泥足地蔵」の前に、神式の御神鏡が祀られている。これは、当寺の神仏習合期の様式を残したものという。
 本堂左脇壇の「三尊」は、長野・善光寺三尊仏(一光三尊仏)として信仰された。
 本堂に「法然上人木像」が安置されている。
 平安時代後期-鎌倉時代初期作と見られる石仏の「阿弥陀如来坐像」が墓地の一角に安置されている。かつて近くの古池の辺にあり、戦を逃れ土中に埋められていたものという。厚肉彫、花崗岩製(白川の赤石)、像高1.6m、厚さ90cm。
◆泥足地蔵
 山門脇の地蔵堂に、「泥足地蔵」が安置されている。身代わり地蔵、田植地蔵、汗出し地蔵とも呼ばれた。地蔵尊には逸話が残されている。
 地蔵尊はかつて近江・坂本にあり、平安時代初期の最澄(767-822)が一刀三礼し自刻したものという。その没後は、坂本に祀られていた。安土・桃山時代、1587年、正誉上人(開山・法春とも)により当寺に遷されたという。
 日照りが続いた年、農夫の作兵衛が日頃より信仰する地蔵尊に三日三晩、降雨祈願すると雨が降り出した。農夫たちは我先に田植えを終えたが、作兵衛は不意の腹痛のために一人だけ植え付けができなかった。翌朝、田に様子を見に行くと、自らの田圃も田植えが終わっていた。聞くところによると、夕方、一人の僧が田に出て植え付けをしていたという。地蔵尊にお参りにいくと、その腰から足にかけて多くの泥が付いていた。地蔵が代わりに田植えをしたことを知る。以来、地蔵尊は「泥足地蔵」、「田植地蔵」、「身代わり地蔵尊」とも呼ばれ信仰を集めたという。
 江戸時代、1808年、中京堺町の勘兵衛が、難産の妻に代わりに地蔵尊に安産祈願に訪れた。一日一晩祈願してると無事に安産したと家から知らせが入る。勘兵衛が地蔵尊を拝すると顔一面に汗をかいていた。地蔵尊は、妻の身代わりになり、その苦しみを引き受けていた。以後、「汗出し地蔵尊」とも呼ばれたという。
◆墓 池坊家家元歴代が葬られている。江戸時代、池坊32世(2代)・専好(1575-1658)が葬られ、35世(3代)・専好(1680-1734)、41世・専明(-1864)など、近代、42世・専正(1840-1908)までが眠る。
◆年間行事 正月(1月1日-7日)、春彼岸法要(3月18日-24日)、盆施餓鬼会(8月16日)、秋彼岸法要(9月20日-26日)。
 地蔵尊回願法要(願い事を書き記し読み上げることで祈願成就できるという。)(毎月23日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『新版 京のお地蔵さん』『京都古社寺辞典』『京都歴史案内』、当寺サイト、「星冑、斬られて候」のサイト


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阿弥陀如来坐像
池坊家家元歴代の墓
兜潟の墓
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