金光寺 (京都市下京区)
Konko-ji Temple

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「日本最初念佛道場 称?勇躍 開基 空也上人 金光明?寺」





 本塩竃町に金光寺(こんこうじ)はある。かつて市屋道場、一夜道場、市姫金光寺などとも呼ばれた。六条道場市中山、市中山最勝王院ともいう。山号は市中山という。 
 時宗市屋派、本尊は阿弥陀如来(引接阿弥陀如来)。
◆歴史年表 平安時代、承平年間(931-938)、937年とも、空也が市姫の神勅により開基したという。当初は、左京東市(下京区七条堀川北西)にあったという。市場道場(いちやどうじょう)と呼ばれ、本尊は薬師仏を安置し、当初は天台宗だった。(「金光寺縁起」「山州名跡志」)
 鎌倉時代、1284年、一遍が洛中の複数の寺とともに、空也を偲び当寺にも訪れている。寺に踴躍念仏の躍屋を掛け、48日間の興行を行う。(「一遍上人絵伝」) 
 1286年、一遍による勧化に人々が寺に押し寄せたため、当寺の住持・唐橋法印胤恵(いんえ)が一遍に帰依し、時宗に改めたという。(「山州名跡志」)
 1324年、大仏師10代・康弁は、七条東洞院の地を寄進し、真教は弟子・呑海(有阿弥陀仏)に命じ、道場を建立させたという。七条道場、七条河原口道場とも呼ばれた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、市姫(市比売)神社を鎮守社とする。
 室町時代、大永年間(1521-1528)、12代将軍・足利義晴が当寺に宿し、一夜道場とも呼ばれたという。
 室町時代、市姫金光寺と記され、現在地の南西、興正寺に南接する七条堀川北西(下京区花園町)にあったという。(1753年「中昔京師地図」)
 安土・桃山時代、1591年、本願寺(下京区)の進出に伴い、豊臣秀吉の命により現在地に市姫(市比売)神社とともに移転した。朱印寺領28石を贈られる。
 江戸時代、1788年、天明の大火で焼失する。
 1864年、元治の大火(禁門の変)で類焼する。(「七条道場記録」)
 近代、1907年、東山の長楽寺に合併される。
 その後、再建された。
◆空也 平安時代中期の浄土教の僧・空也(903-972)。詳細不明。第60代・醍醐天皇の第2皇子として生まれたともいう。寺を持たず常に市井にあったことから、市聖(いちのひじり)、弘也、阿弥陀聖、市上人とも呼ばれた。幼少より在家の優婆塞(うばそく)として全国を遍歴した。919年、17歳で市中の遺骸を念仏を唱えながら埋葬した。924年、尾張・国分寺で出家し沙弥空也と名乗る。播磨、奥州、四国で修行し、934年、奥羽にも布教した。938年以来、京都で念仏を広める。939年、空也堂を開く。948年、比叡山・天台座主延昌から受戒し、光勝の法名を得たが、終生空也と名乗った。951年、都に流行していた悪疫退散のために、自ら十一面観音を刻み、車に乗せ市中を曳き廻した。病人に茶を授け、歓喜踊躍の念仏踊で病魔を鎮めた。病人は平癒したという。その典茶・皇服茶(おうぶくちゃ、王服茶)は、身分の隔てなく分け与えられた。その時の踊躍は六斎念仏として今も伝わる。963年、金泥『大般若経』 600巻の書写事業を完成させている。鴨川河原に一寺(のちの西光寺、六波羅蜜寺とも)を建て供養会を行う。東山の西光寺(六波羅蜜寺)で没した。墓は全国に複数ある。東山・西光寺で没した。
 各地で橋を架け、道路や井戸の整備、遺棄された骸を火葬して荼毘(だび)にふすなどの社会事業も行った。空也の菩薩行は行基につながる。称名念仏により、既存の国家、権勢、知識層の仏教から庶民の仏教を唱えた。後の法然、親鸞の専修念仏に影響を与える。一遍は空也を崇敬した。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別、1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに大宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事、肥前の華台にも学ぶ。智真と改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、大宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目となる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。「おのづから あひあふときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり」(『一遍上人絵伝』)
 1284年3度目となる京都を訪れた際には、金光寺も訪れた。道場を建て48日間の踊躍念仏の興行を行っている。
◆唐橋法印胤恵 鎌倉時代中期の僧・唐橋法印胤恵(生没年不詳)。詳細不明。名は俊暁。金光寺住持。一遍の弟子になり、作阿弥陀佛(作阿、さくあ)と改める。1286年、金光寺を時宗に改める。市屋派の祖。
◆本尊 本尊の「阿弥陀如来像(引接阿弥陀如来)」は、平安時代後期の仏師・定朝(?-1057)作という。平安時代中期の第65代・花山天皇の念持仏といい、空也が贈られたものという。
◆市 平安時代、官営市場、東市(七条北、大宮東)、西市(七条北、西大路西)が置かれた。二つの市は左京と右京に朱雀大路を挟んで七条二坊三町から六町に置かれ、周囲に外町が形成された。
 月の初め半月に東市、後半の半月に西市が開かれ、扱う品も定められていた。平安時代中期には西市が衰退する。平安時代末から東市も新しい町に取って代わられた。
◆慶派 近代、1906年、時宗総本山、七条道場金光寺は長楽寺へ合併になる。本尊、慶派仏師による上人像などが長楽寺へ遷された。
 七条道場金光寺と慶派との関わりは、鎌倉時代、1301年、運慶3男・大仏師第10代・康弁が道場に土地を寄進したことに始まるという。以来、21代まで七条道場に住し、造仏を行う。遊行上人は慶派歴代に、「覚阿弥陀仏」という最高の阿号を授けたという。
◆文化財  鎌倉時代の紙本著色「遊行上人絵巻(金光寺本)」巻4巻(巻第三、五、六、九)(重文)がある。
 作阿木像。


* 一般には非公開。
*参考文献 『遊行歴代上人肖像彫刻並びに七条文書』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都古社寺辞典』『日本の名僧』『京都 歴史案内』


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 金光寺 〒600-8119 京都市下京区本塩竃町586,六条通河原町西入る   075-361-2773

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