六角獄舎跡山脇東洋観臓記念碑近代医学発祥の地
勤皇志士忠霊碑
首洗井(京都市中京区)
The ruins of Rokkaku-gokusha(The Prison)
六角獄舎跡 六角獄舎跡
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「日本近代医学発祥之地」、「勤王志士平野國臣外十数名終焉之地」の石標






「平野国臣他勤王志士終焉の跡」の石碑


「平野国臣他勤王志士終焉の跡」の石碑碑は解剖に使われていた「手術台」ともいう。


「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」の石碑、「山脇東洋観臓之地」の文字は、東洋の『臓志』の自筆の文字を組み合わせている。花崗岩製。


延命地蔵尊、志士を祀る。
 住宅街のあるマンション入口に「日本近代医学発祥之地 山脇東洋顕彰」「勤王志士 平野國臣外十数名終焉之地」という二つの石標が立つ。
 かつてこの地には三条新地牢屋敷(六角獄舎)があり、囚人の死体解剖も行われた。日本初の人体解剖が行われ、「近代医学の礎の地」になる。 
◆歴史年表 
平安時代
、左獄、右獄を前身としている。右獄はすぐに廃止になる。
 安土・桃山時代、1585年、左獄(現府庁前付近)は、豊臣秀吉の時に小川通御池(小川牢屋敷)に移された。
 江戸時代、1708年、獄舎は宝永の大火後により焼失した。
 1709年、現在地の六角通(大宮西入)に獄舎は移る。1100坪を与えられた。「六角獄舎」「六角獄」「六角牢」「六角牢屋敷」などとも呼ばれる。京都町奉行所管轄下に置かれ、正式には「三条新地牢屋敷」と呼ばれ、未決囚を収容した。
 1754年、医学者・山脇東洋は、京都所司代・酒井忠用の官許を得て、西土手刑場で処刑された囚人を六角獄舎に戻し死体解剖(解屍観臓)を行った。
 1762年、東洋は六角獄舎内で死体解剖した。
 1771年、東洋の子・東門が六角獄舎内のきく(革+菊)門所の近くで女性囚人を解剖した。(『玉砕臓図』)
 1785年、伏見奉行の悪政に耐えかねた、京都伏見の町人・文殊(もんじゅ)九助らが幕府に直訴し捕らえられた。六角獄舎には、これら伏見義民(伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛)も投獄され、拷問の末に獄死する。
 1787年、天明の一揆の際に農民らが捕えられ、六角獄舎で多くが獄死した。これは、飢饉と米価の騰貴から、丹波地方で起きた大規模な打ち毀しだった。
 安政の大獄(1858-1859)以後、多くの政治犯が六角獄舎に収容され、「会所」といわれるほどだった。
 1864年、7月20日、前日の禁門の変(蛤御門の変)の際に、火の手(ドンドン焼き)が獄舎に迫る。混乱に乗じ、囚人の脱獄を恐れた町奉行・滝川具和の命により、獄吏は投獄されていた未決囚全員を獄内で斬首した。犠牲者は平野国臣、池田屋事件の古高俊太郎(枡屋喜右衛門)ら志士8人、天誅組の水郡善之祐ら16人、等持院の足利三代の木像の首を三条河原に梟首した長尾郁三郎ら37人(33人とも)という。だが、火の手は堀川で止まり、獄舎は類焼失しなかった。斬首に関して新撰組の関与は不明とされている。
 1867年、大政奉還後、府の監獄舎になる。二条城の北西(上京区智恵光院通丸太町下ル)に移る。1928年、昭和御大典に伴い山科刑務所に移る。
 近代、1899年、現在地の跡地には盟親会堂が建つ。京都感化保護院になる。
 昭和期(1926-1989)以降、更生保護事業が行われる。
 1940年、「平野国臣他勤王志士終焉の跡」の石碑が立てられた。
 現代、1976年、山脇東洋顕彰会により「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」(現在地の南西5m)の石碑が立てられた。
 1990年、京都感化保護院が改築され、明親寮になる。「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」の石碑が現在地に移された。
 1994年、旧供養碑は修復、保存処理が行われ、京都大学総合博物館に寄贈された。
◆六角獄舎 1102坪(3636㎡)、東西65m、南北53mの広大な敷地には、本牢、キリシタン牢、女牢、上り座敷(上り屋)があり、未決囚を収容していた。本来は、思想犯専用の獄舎であり、与力同心、獄吏の囚人に対する対応は丁寧なものだったという。獄舎内での自由な読書なども許されていた。六角獄舎は処刑場ではなかった。だが、拷問、粗末な食事、風邪、「牢瘡」などの病で体力を落とし、獄死する囚人も多かった。また、敷地の北西隅に処刑台があったともいう。敷地内南西隅(新館北の坪庭)に「首洗井(首洗いの井戸)」があった。井戸では、囚人を処刑した後、刀に付いた血糊を洗い落としていたという。井戸は後に埋められ、現在は井枠だけが残されている。
 江戸時代、毎年12月20日(果の二十日)には、罪人の市中引き回しが行なわれていた。獄を出された囚人は、市中を引き回され、三条、一条、一条戻橋から再び三条へ戻り、粟田口刑場へと向かった。
 六角獄舎内の前庭、番所よりの地点で解剖が行われていたという。現在の敷地、東北よりの地点という。また、きく(革+菊)門所の近く、表長屋門より入り右に折れた小門を潜った地点、構内西北隅の口聞所付近ともいう。
◆平野国臣 江戸時代の尊攘派志士・平野国臣(ひらの くにおみ、1828-1864)。筑前国足軽の家に生まれた。江戸屋敷普請方、長崎屋敷諸用聞次定役を勤める。王政復古のため、1858年、脱藩上京、月照を保護して薩摩に行く。1862年、薩摩藩士らと挙兵を企て、同年寺田屋の変で失敗、その後投獄された。1863年、赦免される。8月18日の政変では、七卿のひとり沢宣嘉を擁して生野代官所を襲撃した但馬生野の変で六角獄舎に収監された。1864年、禁門の変の際に未決のまま斬首された。
 六角獄舎内で国臣は講じ、志士らと和歌、詩を交換したという。辞世は「みよや人 嵐の庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある」「憂国十年 東に走り西に馳 成敗天に在り 魂魄(こんぱく)地に帰す」。獄舎内にあった同志・村井正礼の手記『縲史(るいし)』に記されている。
◆山脇東洋 江戸時代中期の医学者・山脇東洋(やまわき  とうよう、1706-1762)。京都に生まれた。 父・立安は医者・山脇玄修に学ぶ。東洋は、1726年、玄修の養子となる。1728年、家督を継ぐ。1729年、法眼となり養寿院の称号も継ぐ。古方派の学祖で医の後藤艮山にも学ぶ。1754年、京都所司代の官許を得て死体解剖(解屍観臓)を行う。この記録は『臓志(蔵志)』(1759)として刊行された。真宗院に葬られた。
◆解剖 1754年閏2月7日、六角獄舎から5人の罪人が引き出された。市中引き回しの後、西土手刑場で斬首された。このうち、屈嘉(くつか、嘉右衛門)という38歳の男の遺体は再び獄舎へ戻された。
 東洋は、京都所司代・酒井忠用(小浜藩主)の官許を得て、死体解剖(解屍観臓)を行う。弟子4人も加わった。執刀は牛馬の屠者による。この日本初の解剖により、漢方の五臓六腑説が誤りであり、蘭学の正確さが判明した。この際の記録は『臓志(蔵志)』(1759)として刊行された。1762年にもこの地で解剖を行っている。
 なお、江戸の杉田玄白らが千寿骨ヶ原で、死体の腑分けを実見したのは、これよりも遅く、1771年、翻訳書「解体新書」を刊行したのは1774年になる。
 観蔵から1カ月後、解剖された屈嘉(利剣夢覚信士)の慰霊祭が誓願寺で行われた。解屍者の供養碑が建立される。
 この地で日本で最初の人体解剖が行われたため、「近代医学の礎の地」になっている。1994年、旧供養碑は修復、保存処理が行われ、京都大学総合博物館に寄贈された。
◆右獄・左獄 平安時代、平安京には右獄(西獄)、左獄(東獄)の2つの獄舎が置かれた。右獄は右京一条二坊十二町(中京区西ノ京西円町付近)、左獄は左京一条二坊十四町(上京区勘兵衛町の一画)にあった。
 獄所は当初、刑部省(きょうぶしょう)の管轄下にあり、後に、検非違使庁(けびいしちょう)に移る。囚人はあえて、本貫とは異なる獄所に投獄され、紛争の当事者も離されて収監された。囚人は夜間は「鈦(だ)」を足にはめられ、日の出とともに外され労役を行っていた。
 獄門には樗(おうち、栴檀)の木が植えられていた。平安時代、朝廷に反逆し、追悼使に誅された者は、この木に掛けられ晒首にされた。律令制が崩れると、囚人には自由も認められるようになったという。右獄は、鎌倉時代、13世紀後半に廃される。左獄は、室町時代前期には廃れたという。
 

*碑は施設内にあります。
*参考文献 『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『増補版 京の医史跡探訪』『京の医史跡探訪』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都大事典』『京都 歴史案内』『京都はじまり物語』『平安京散策』『平安の都』


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 六角獄舎・首洗井 京都市中京区今新在家西町,六角通神泉苑西入る南側 

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