宗仙寺 (京都市下京区) 
Sosen-ji Temple
宗仙寺 宗仙寺
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だ枳尼尊天社、大辨財尊天社


だ枳尼尊天社、大辨財尊天社



だ枳尼尊天社、大辨財尊天社
 高倉通五条下った宗仙寺(そうせんじ)一帯には、平安時代、源融(822-895)の六条河原院が営まれていたという。山号は大平山(小本山とも)という。
 曹洞宗、本尊は釈迦如来。
 京都の数少ない曹洞宗寺院であり、道元が創建したという「洛中三か寺(ほかに、慈眼寺、天寧寺)」の一つとされている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、曹洞宗開祖・道元(1200-1253)が京都に創建した三か寺の一つという。(寺伝)
 室町時代、1465年、寛正年間(1461-1466)とも、京都所司代・多賀高忠が創建したともいう。開基は不明という。当初は六条高倉にあり、大平山宗仙寺と号したという。(寺伝)
 安土・桃山時代、1579年、三田・海禅寺(青梅市)の僧・天江により再興された。
 1602年、天江により再興され、現在地に移ったという。
 江戸時代、曹洞宗本山・永平寺に代わり、宮中参内を許された役寺(やくじ、寺務代行)になる。
 1788年、天明の大火により類焼する。
 1858年、安政の大火により焼失した。
 1864年、元治の大火(禁門の変)により類焼した。塔頭・一滴庵、寿昌庵なども焼失し、廃寺になる。
 有栖川宮家7代・韻仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、1835-1895)の時、有栖川宮家御祈願所になる。
 近代、1903年以降、現在の建物が再建された。(『坊目誌』)
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。父は内大臣源(土御門)通親、母は太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘といわれている。その後、久我の地 に引き取られたとみられている。幼くして両親を喪った後、1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもと菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の公胤、1217年、臨済宗の建仁寺の栄西、明全に学ぶ。1223年、明全と共に宋に渡る。天童山・無際了派、後に曹洞宗・長翁如浄に師事し、曹洞禅を学んだ。1225年、師・明全が亡くなる。1227年、帰国し、1228年、建仁寺に入る。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受ける。1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草の極楽寺に観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。だが、天台宗からの圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1252年、病になり、 翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが悟りに至る唯一最高の修行とする、「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。正法禅は臨在禅を批判し、旧来の念仏、加持祈祷、末法思想も排した。仏法の正門は坐禅にあるとした『正法眼蔵』を著した。
◆多賀高忠
 室町時代の武将・多賀高忠(たが たかただ、1425-1486)。近江国の人。父は高長。1462年、京都侍所所司代を任ぜられた。1466年、主君・従兄の京極持清の失脚と共に解任される。1467年、応仁・文明の乱で持清と共に細川勝元らの東軍に属し、山城に如意岳城を築いた。1469年、六角氏の本拠・観音寺城を一時制圧、1470年、持清病死後、その子・政経を庇護、1472年、政経と共に越前へ逃れる。1475年、出雲の国人を擁し再起、西軍の六角高頼らと戦うがその後、敗北した。1477年、乱終結後、京都に隠棲した。1485年、再び京都侍所所司代に任ぜられ、土一揆を鎮圧する。武家故実に通じ、小笠原持長に弓術を学ぶ。弓術古典『高忠聞書』を著わす。和歌、連歌にも通じた。墓は宗仙寺にある。
◆面山瑞方 江戸時代中期の曹洞宗の僧・面山瑞方(めんざん ずいほう、1683-1769)。肥後の人。16歳で熊本流長院・遼雲により出家。21歳で江戸芝・青松寺に住し、卍山道白、徳翁良高を知る。損翁宗益に従い、仙台・泰心院で仏祖正伝菩薩戒を授けられた。1705年より、関東遊行。1706年、師・損翁宗益の没後各地を遊行する。1707年、相模・老梅庵、その後、常陸・東昌寺、1717年、肥後・禅定寺、1729年、若狭・空印寺などに移る。1741年、若狭・永福庵で退棲した。建仁寺・西来庵で亡くなる。曹洞宗であることから遺骸が問題視され、1769年、宗仙寺の寿昌庵に移された。
 学僧であり『面山広録』全26巻を著し、江戸時代以降、曹洞宗学の基礎になる。綿密、懇切丁寧な提唱から「婆々面山」と讃えられた。
◆大愚俊量 江戸時代の曹洞宗の僧・大愚俊量(たいぐ しゅんりょう、1759-1803)。詳細不明。永平寺で修行した。本山版『正法眼蔵』の開版事業に幹事として関わる。写本は後の俊量系統になる。
◆高橋道八 江戸時代の京焼(清水焼)窯元・高橋道八(たかはし どうはち)。茶道具、煎茶器を手掛ける。初代(1740-1804)は伊勢亀山藩士に生まれ、京都に出て陶器職人になる。粟田口に開窯、煎茶器の名品を手掛けた。池大雅、上田秋成、売茶翁らと交際し、南画を嗜む。号は松風亭空中。
 二代(1783-1855)は初代の次男で、仁阿弥道八とも称した。陶芸を父、宝山文蔵、磁器を奥田穎川に学ぶ。田中訥言、浦上春琴らと交わる。和風京焼、白磁青華を完成する。紀州徳川家の御庭焼、偕楽園焼などを指導した。
◆天野鵲橋 江戸時代後期の篆刻家・天野鵲橋(あまの じゃくきょう、1792-1857)。詳細不明。江戸の人。武蔵・川越藩に仕える。京都に移り篆刻家になる。
◆建築 書院は安土・桃山時代に建立された。
◆文化財 書院に室町時代-安土・桃山時代の絵師・狩野永徳(1543-1590)筆の障壁画がある。京都国立博物館委託。
◆河原院・籬井 源融の河原院の庭には、中の島・籬ノ島があり、井戸があったという。
 境内墓地内に、その遺跡という屋形の井筒がある。「籬井(まがきのい)」との銘がある。
 
境内に祀られているだ枳尼尊天社、大辨財尊天社は、かつての源融の念持仏を祀ったという。
◆墓 室町時代の京都所司代・多賀高忠、累代の五輪塔10基が立つ。
 江戸時代の学僧・面山瑞方の墳墓、江戸時代の僧・大愚俊量、江戸時代の京焼窯元の歴代・高橋道八の累世墓があり、井戸屋形をしている。江戸時代の篆刻家・天野鵲橋などの墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都歴史案内』『京都大事典』『京都史跡事典』


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