寂光院 (京都市左京区) 
Jakko-in Temple 
寂光院  寂光院
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参道石段


本門(山門)





「思ひきやみ山のおくに住居して雲井の月をよそに見むとは」、建礼門院
















本堂


本堂、「寂光院御再興黄門秀頼卿 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」の扁額


書院



鐘楼


ご神木の千年姫小松


「ひめ小松 一千年の おん姿 歴史の重さ 今に残さん」寂光院 智明


「阿波内侍 右京太夫局 大納言佐局 治部卿局」と刻まれた石標


宝篋印塔


南部鉄の雪見燈籠、豊臣秀吉の寄進による。かつて伏見城にあったものという。


汀(みぎわ)の池、「池水に みぎわのさくら 散りしきて なみの花こそ さかりなりけれ」、1186年、後白河法皇の御幸の際の歌に因む。


四方正面の池


三段の滝「玉だれの泉」


銘の入った手水鉢






茶室「孤雲」


茶室「孤雲」




鳳智松殿
 大原草生(くさお)町の翠黛山(すいたいざん、小塩山)麓に、寂光院(じゃっこういん)はある。建礼門院と関わりある尼寺として法脈を継いでいる。 
 山号を清香山(せいこうざん)、寺号は玉泉寺(ぎょくせんじ)という。かつて境内に多くの万両が自生したことから万両寺とも呼ばれたという。
 天台宗延暦寺派、本尊は六万体地蔵尊。
 神仏霊場会第105番、京都第25番。尼寺霊場の一つ。京都洛北・森と水の会。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、594年、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)が、父の第31代・用明天皇の菩提寺として開創したという。創建当時は「仏教」を唱えた。初代住職は、厩戸王(聖徳太子)の乳母(乳人)・玉照姫(たまてるひめ、慧善比丘尼)という。(寺伝)
 また、真言宗開祖・空海(774-835)の創建ともいう。
 平安時代、比叡山延暦寺三千坊のひとつだったともいう。念仏別所になる。
 承徳年間(1097-1099)、天台宗の良忍(りょうにん)の開基によるともいう。(『扶桑京華志』『京羽二重』)。来迎院の子院だったともいう。
 1165年、第2代・阿波内侍(あわのないし)が入寺し、中興開祖とされる。(『延慶本平家物語』)
 1185年、9月、建礼門院が入寺し、第3代・真如覚比丘尼としてこの地で6年間隠棲した。草庵を結ぶ。阿波内侍、大納言佐局が供になる。以後、御閑居(ごかんきょ)御所、高倉后(たかくらこう)大原の宮とも呼ばれた。
 1186年、4月下旬、後白河法皇(第77代)が建礼門院を訪れたという。(「大原御幸」)。(『平家物語』「潅頂の巻」、『閑居友』)。法皇は建礼門院のために、平重盛の摂津国領地、山城国葛野郡下山田村、山城国愛宕郡八瀬を寄進したという。同年、右京大夫が建礼門院を訪ねる。
 1187年、幕府は、女院領として平宗盛の旧領地・摂津国真井荘、嶋屋荘を贈る。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、近江国坂本・聖衆来迎寺に属した。以後、同寺で得度した尼僧が歴代住持に就いた。
 鎌倉時代、天台宗、浄土宗の兼学になる。尼寺末寺の一寺(葛野郡山田村)があったという。
 1192年、公卿・藤原隆房の北の方が建礼門院像を納める。(寺伝)
 13世紀(1201-1300)前半、官女だった5代・妙境、6代・妙照、7代・妙圓が継ぐ。  
 1229年、来迎院の寂如の発願により、旧本尊・地蔵菩薩立像(六万体地蔵菩薩)が造立される。
 室町時代、1513年、寺は荒廃し、真玄が修復する。
 安土・桃山時代、1599年、慶長年間(1596-1615)とも、淀殿の寄進により本堂の改築が始まる。片桐且元が堂宇を再建した。
 1603年、豊臣秀頼により本堂の外陣が再興される。徳川家康、淀殿は夭逝した鶴松を弔い、秀頼の身を案じて復興に尽力したという。寺領30石が寄進された。
 江戸時代、寂光院への行楽が盛んになる。
 1612年、装剣金工・後藤長乗は権中納言に所望し、『大原御幸縁起』を制作させる。寺領として八瀬村の一部30石がある。
 1689年、この地の草生(くさお)は半井通仙院領になる。(『京羽二重織留』)
 1775年、有栖川宮織仁親王は安徳天皇、後白河天皇像を描く。
 1800年、微重が母の三回忌を期して『平家物語』覚一本写本を寄進する。
 1801年、西尾芳重が平曲奉納し、祖父遺愛の平家琵琶「木枯」を寄進する。
 1813年、豊臣秀頼二百年御忌を催す。
 1815年、東照宮(徳川家康)二百年御忌を催した。
 1834年、安徳天皇650回忌に平曲家が平曲を奉納する。
 近代、1868年、太政官達旨により延暦寺末寺になり天台宗となる。
 1876年、寂光院後山御陵を建礼門院西陵とされる。
 1929年、第124代・昭和天皇大典に使用された茶室「孤雲庵」が山内に移される。
 現代、1986年、本尊・地蔵菩薩立像、小地蔵菩薩立像などが重要文化財に指定される。
 2000年、不審火により本堂が焼失、本尊、建礼門院坐像、阿波内侍坐像などが損焼、焼失している。汀の桜、千年姫小松も被災する。書院が建立される。
 2004年、ご神木の千年姫小松が枯死した。
 2005年、本堂は再建される。新本尊・地蔵菩薩立像の開眼法要が催される。千年姫小松が伐採される。
 2006年、宝物殿「鳳智松殿」が開館する。
◆玉照姫 飛鳥時代の女性・玉照姫(たまてるひめ、生没年不詳)。詳細不明。大連(有力豪族)・物部守屋(?-587)の娘とされる。厩戸王(聖徳太子)の乳人(めのと)、548年、出家したという。日本仏教三比丘尼の一人とされ、惠善比丘尼(えぜんびくに)と称した。
◆建礼門院 平安時代-鎌倉時代の第80代・高倉天皇皇后の建礼門院(けんれい もんいん、1155-1213/1191)。平徳子(たいら の のりこ)。平清盛の次女。母は二位の尼(平時子)。後白河法皇の子・第80代・高倉天皇の中宮になる。1178年、言仁親王(第81代・安徳天皇)を生み、国母となり、内裏外郭十二門のひとつ建礼門院の院号を受ける。1181年、高倉天皇と父・平清盛を相次いで失う。1183年、木曽義仲の軍に都を包囲され、兄・宗盛の命により安徳天皇、三種の神器とともに京都を離れた。1185年3月、平家が源義経の軍に敗れた壇ノ浦の戦いで、建礼門院は母二位の尼(平時子)、幼い息子・安徳天皇とともに船団の御座船に乗船していた。源氏の船に取り囲まれ入水する。建礼門院のみが源氏方の渡辺(むつる)に熊手で引き上げられ助かる。(『平家物語』)。義経に連行され入洛、前権律師・実憲の里坊(洛東・吉田村)に入り、長楽寺の阿証房上人印西(印誓)を戒師として出家した。5月、戒師は大原・来迎院・本成房湛教(たんごう、湛[學+支]、湛豪)ともいう。6月、花山源氏の野河の山荘(左京区吉田)に移る。9月、寂光院(貞憲入道の庵)に入る。この間、実妹・藤原隆房夫人が世話を焼く。3代住職・真如覚比丘尼としてこの地で6年間隠棲したという。庵室に阿弥陀三尊を安置し、祈る日々だった。
 大原、鷲尾で亡くなったともいう。境内西に庵室跡、井戸跡、墓所(建礼門院徳子大原西御陵)といわれるものがある。寂光院に入寺した際の歌「思いきや深山の奥にすまいして雲居の月をよそに見むとは」。59歳、37歳、69歳で亡くなったともいう。後に、洛東岡崎・善勝寺に移り亡くなったともいう。
◆阿波内侍 平安時代-鎌倉時代初期の尼僧・阿波内侍(あわ の ないし、生没年不詳)。実在も含め詳細不明。公卿、政治家で出家した信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とも、信西の子・藤原貞憲の娘、信西の孫・真阿弥陀仏ともいう。建礼門院徳子の女房として仕えたという。父の僧坊が大原にあったという。1185年、寂光院に入寺した建礼門院に従い、大納言佐(大納言典侍)と共に尼となる。女院に仕え、最期を看取ったという。1186年、後白河法皇の大原御幸で仕切ったという。
◆右京大夫 平安時代末期-鎌倉時代初期の女流歌人・建礼門院右京大夫(うきょう の だいぶ/うきょうだゆう、1157?-?)。父は源氏学者・藤原伊行、母は琴の名手・夕霧。1173年、建礼門院に右京大夫として出仕した。1175年、宮仕えを終えた。肖像画家・藤原隆信と、年下の右少将・平資盛(すけもり)との恋に揺れる。真実の愛を誓った資盛は、1185年、壇ノ浦の戦いで入水した。その死後、右京大夫は長楽寺・阿証により追善供養したという。1186年、寂光院の建礼門院を訪ねる。1195年頃、第82代・後鳥羽天皇に再び出仕した。『新勅撰集』に歌がある。「夕日うつる梢の色のしぐるるに心もやがてかきくらすかな」。
◆藤原輔子 平安時代後期の女官・藤原輔子(ふじわら の ほし/すけこ、生没年不詳)。藤原邦綱の3女。平重衡の妻、第81代・安徳天皇の乳母。従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。1184年、一ノ谷の戦いで平家が敗北すると重衡は捕えられ、京都、鎌倉へ送られた。1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、輔子は入水するが助けられ捕虜になる。その後、日野の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲した。
 重衡は鎌倉から奈良へ送られる途中、日野で輔子との再会が聞き入れられ対面がかなう。重衡は木津川で斬首され、般若寺門前で梟首された。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、高野山に納めた。自らは出家し重衡の菩提を弔い、寂光院の建礼門院に仕えたという。
◆真玄  室町時代の天台宗の僧・真玄(生没年不詳)。近江国守護・佐々木高頼の五男。近江・来迎寺を再興する。妹で弟子の等春が10代・寂光院住持になる。
◆淀殿 安土・桃山時代-江戸時代の豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの、1569?-1615)。茶々。近江国に生まれる。1573年、父・浅井長政は、母の兄・織田信長に攻められ切腹している。母・お市は、織田氏家臣・柴田勝家と再婚するが、1583年、豊臣秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いに敗れ、勝家とともに自害した。茶々ら三人の娘は秀吉の保護を受けている。1588年頃淀殿は秀吉の側室となる。鶴松、秀頼を産んだが、1615年大坂の役で大坂城落城により秀頼らと自害した。
◆小野寺久幸 現代の仏師・小野寺久幸(1929-2011)。宮城県生まれ。1975年、財団法人美術院国宝修理所所長に就任。1988年より、東大寺南大門の仁王像修理を指揮し、「東大寺大仏師」の称号を贈られた。1991年、東京芸術大学美術学部客員教授、2000年、美術院国宝修理所所長引退、常務理事就任。3000体を超える仏像修理を手掛けた。2005年、寂光院の損傷した地蔵菩薩復元では製作指揮を執る。
◆伝承 寺建立についての伝承がある。厩戸王(聖徳太子、574-622)は浪速で、父・用明天皇の菩提のために六万体の地蔵を造立したという。地蔵を駒(馬)に載せて大原まで来ると、この地で動かなくなった。厩戸王は有縁の地としてここに寺を建立し、地蔵菩薩を本尊として安置したという。
◆壇ノ浦の戦い 平安時代、1183年、木曽義仲の入京前に、平氏は安徳天皇、三種の神器(鏡・剣・玉)とともに京都を離れた。摂津・福原、備前、大宰府へと船で都落ちする。だが、大宰府で裏切った緒方三郎惟義の攻撃により撤退、平氏はやむなく讃岐・屋島を拠点にした。1184年平氏の別働隊は水島合戦、室山合戦で勝利するが、1185年屋島合戦で敗北した。
 3月、壇ノ浦の戦い(山口県下関市-北九州市門司)では、源氏の総大将・源義経の軍に敗れ、平氏の大将・平宗盛も捕えられる。建礼門院、母二位の尼(平時子)、安徳天皇は船団の御座船に乗船していたが、源氏の船に取り囲まれる。一同は三種の神器とともに入水した。建礼門院のみが源氏方の渡辺(むつる)に熊手で引き上げられ助けられた。
◆大原御幸 建礼門院は、平家一門と6歳で亡くなった子・安徳天皇の菩提を弔うために、1185年より寂光院に住していた。1186年4月下旬、義父の後白河法皇が供を連れて寂光院を訪れたという。法皇は、源氏の目を避けるため牛車に乗り、鞍馬街道から静原、江文峠(えぶみとうげ)を越えて大原に入った。『平家物語』中「大原御幸」の段として知られている。
 「甍(いらか)破れては、露不断の香を焚き、扉落ちては、月常住の燭火をかかぐとは、かようのところををや申すべき」。法皇は、花摘みに出ていた建礼門院を見る。一丈四方の質素な庵室に暮らす建礼門院に、摂津国などの領地を与えたという。建礼門院の歌が残る。「いにしへも夢になりにしことなれば柴のあみ戸も久しからじな」。ただ、御幸は史実ではなかったともいう。
◆仏像・木像 旧本尊は丈六の「六万体地蔵尊(地蔵菩薩立像)」(250㎝)(重文)で、厩戸王(聖徳太子)作ともいう。ただ、鎌倉時代、1229年造仏の像内願文があり、願主は来迎院の寂如(じゃくにょ)という。像高では日本一とされる。吊り袈裟、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を掲げ持つ。彫眼。
 胎内、背面にそれぞれ3万体の小地蔵を有するとされた。実際の小地蔵は胎内に納められていた。17個の桐箱内に木造の3417体(5-17㎝)があり、さらに、体外に3210体が納められていた。1体が六道救済(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)をするとされ、無数の衆生の苦しみを救うという意味で六万体地蔵菩薩といわれたという。ほかに、願文、法華経、香袋、連珠、木の実、刀子、横笛、宗銭、厨子入り地蔵などが納められていた。2000年の放火による火災で、地蔵菩薩の全身が黒焦げに炭化したものの体は崩れなかった。
 損焼し全身が炭化した旧本尊 (引き続き重文指定)は1988年-1990年に、財団法人美術院国宝修理所により修復された。黒く変容し表情も彩色も失われたにもかかわらず、巧みな消火活動により像の大破は避けられたといわれている。焼失を免れた胎内に納められていた小地蔵(旧本尊胎内仏小地蔵像)(重文)がある。鎌倉時代作の3416体(別保存されていた1体がある)であり、彩色され、像高は10cm-15cmになる。焼失しなかった願文、経文(大乗大集地蔵十輪経、理趣経、陀羅尼経、法華経、梵網経)、経典包紙、鎌倉時代の横笛、刀子、唐・宋銭などは現在、収蔵庫(宝物殿)に安置されている。春秋に特別公開される。
 本堂には現在、2005年に大仏師・小野寺久幸(1929-2011)と財団法人美術院により復元された「地蔵菩薩立像(六万体地蔵菩薩立像)」(256.4㎝)が安置されている。形と大きさは旧本尊を引き継いでいる。顔、肌は白く塗られ、衣は極彩色、光背などは金色に美しく彩色復元されている。制作費一億四千万円。檜、寄木造、彩色。
 本堂正面左奥に、かつて平安時代作の結跏趺坐する「建礼門院木像」(69cm)が安置されていた。鎌倉時代、1215年、女院の妹・冷泉大納言隆房の北の方により造仏された。右奥の阿波内侍の「張子像」(69.5cm)は、建礼門院が造らせた。高倉天皇、平家一門、自身、女官の写経などを集めて貼ったものという。子の第81代・安徳天皇形見の御衣の菊華模様布地、建礼門院自らの麻の衣を纏っていた。室町時代の作とみられている。いずれも木造、檜材、寄木造で、2体とも2000年の本堂火災により焼失した。その後、平安仏所の仏師手江里康慧により復元された同様の2体が安置されている。
◆建築 「旧本堂」は2000年に焼失し、現在のものは2005年に再興されている。旧本堂の内陣、柱は、飛鳥時代、藤原時代(平安時代中期、後期)、平安時代それぞれの様式を遺していたという。内陣四隅の柱は推古式、柱上部に葡萄唐草が描かれていた。藤原時代の天井は折上格天井になっていた。外陣は、安土・桃山時代、1603年に豊臣秀頼により片桐且元を工事奉行として修理させた桃山様式だった。本来は改築予定だったが、大坂城落城により実現しなかった。
 再建された本堂は3間4面、こけら葺。正面左右2間の跳ね上げ式蔀戸、側面には1間の蔀戸、まわりに縁がある。
 「山門」は、江戸時代に建立された。檜皮葺。
 
「鐘楼」は、江戸時代、1752年頃に建立された。
 「書院」は、2000年に新たに建立されている。
◆庭園 本堂の南にある池泉回遊式「みぎわの池」は、平安時代に作庭されたという。心字池と、池の畔にかつて樹齢900年とも1000年ともいわれた五葉の姫小松、汀の桜などがあった。2000年の本堂焼失後、2本は樹勢衰え、やがて枯死した。現在は池の周りにさまざまな草花が植栽され、四季折々の花を咲かせる。 
 書院北庭は池泉式の「四方正面の池」ともいわれる。自然の北の山、木立、池により構成されている。池縁に護岸石が組まれている。奥に岩清水が流れる三段の滝「玉だれの泉」がある。滝の高さと角度が変えてあり、それぞれが異なった滝音の音色を持つ。それらの滝音が、一つに調和するように石は組まれているという。南に池泉が広がり、清流に鯉が放たれている。池端には山野草が植えられている。
 なお、『平家物語』に因み、背後の山は「翠黛山(すいたいざん)」、谷の林を「翠羅(りょくら)の垣」と呼ぶ。
◆茶室 南の庭の茶室「孤雲(こうん)」は、床下を水が流れている。号は『平家物語』「潅頂巻」中、大江の貞基法師が清凉山で詠じたという「笙歌遥かに聞ゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」に因むという。第124代・昭和天皇の1928年の即位、御大典の際の悠紀殿、主基殿の付属の部材をもとに建てられた。数寄屋大工・岡田永斎が手掛けた。1931年、裏千家14代・無限斎千宗室宗匠の供茶が催された。
 勾欄付、書院造、貴人席。西より入る。南に付書院のある6畳の茶室、東に3畳間、1畳の出窓の水屋。墨跡床は1畳の畳床、床柱は北山杉しぼり丸太、琵琶床、三角の明り取りの窓、襖は雲の地模様、引手は日、月。天井は木曽桧に胡粉、濡縁は屋久杉、水屋天井に竹。
 客殿に表千家13世・即中斎宗匠好みの茶室もある。
◆文化財 「六字名号髪繍」は建礼門院の髪を用いて刺繍にしたといわれ、「南無阿弥陀仏」の字、浄土教の要文、年紀、僧尼二人の帰依者の名、瓔珞、天蓋、下に水瓶に挟まれた獅子などが織り込まれている。
 安徳天皇らが乗った御座船(龍船)の船板の一部という「御船板」は、江戸時代、1791年に光相院殿が寄進したものという。後白河法皇御召物といわれる藺草の草履「おぶと(緒太)」などがある。
 
本堂に扁額「寂光院御再興黄門秀頼卿 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」が掛かる。聖護院宮道證親王筆淀殿の寄進により院が再興されたの意味になる。扁額は豊臣秀頼が寄進したという。ただ、かつて掛けられていたものは2000年の本堂焼失の際に失われたため、現在のものは復元による。
 南北朝時代の絹本著色「不動明王三童子像」には、不動明王と三童子を描き、ほかの例は少ないという。室町時代の「阿弥陀三尊来迎図」、絹本著色「菅原道真像」。
 江戸時代、1612年、狩野派による「大原御幸絵巻」。江戸時代、1775年の有栖川宮織仁親王賛の絹本著色「安徳天皇像」、絹本著色「後白河法皇像」。江戸時代の絹本著色「浄土曼荼羅図」、絹本著色「涅槃図」。慶長年間(1596-1615)、狩野派による絹本著色「大原御幸絵巻」、円山応挙筆ともいう絹本著色「大原御幸図」、江戸時代の絹本著色「洛中洛外図屏風」6曲1双がある。
 書院障壁画は近代・現代の画家、三宅呉暁の紙本墨画淡彩「枯木野猿園」4面、谷口春嶠の紙本墨画淡彩「晩桜散花図」4面、山本春挙の紙本墨画淡彩「穉松図」4面による。
 三宅呉暁・谷口春嶠・都路華香・今尾景年の1995年の紙本著色「花鳥図」1幅。望月玉成の紙本著色「鶉と八千草図」1幅。都路華香の紙本墨画「山水図」1幅。徳岡神泉の紙本墨画淡彩「山家図」1幅。村上華岳の「観音図」1幅。金島桂華の紙本著色「花鳥図」1幅。竹内栖鳳の紙本著色「燕図」1幅・「芋図」1幅。都路華香の紙本墨画「山水図」。
 火災により枯死した姫小松により、2007年に大原御幸ゆかりの能面3種(小姫、若女、深井)が作られている。
 「梵鐘(諸行無常の鐘)」は、江戸時代、1752年の鋳造による。黄檗宗の16世・百癡元拙(1683-1753)の撰文が入る。鋳物師は近江国の太田西兵衛重次による。総高126cm、口径70.8cm。
 本堂傍の「雪見灯籠」は、安土・桃山時代に豊臣秀吉が寄進したという。上より宝珠、軒先が花咲形の笠、五三の桐紋透し彫り、上部に欄間、格狭間の煙出しの火袋、円形の台、猫脚三脚の脚による。鋳鉄製、総高115.3cm。
 書院北に江戸時代、「慶長十一年(1606年)」の銘ある手水鉢がある。豊臣秀頼寄贈とされ、左に「寂光院」の銘が入るという。長さ97cm、高さ42cm。
◆建礼門院御庵室跡 境内の裏門の北に、建礼門院が結んだという庵「御庵室」(40坪)があったという。現在は「御庵室遺蹟」の石標が立てられている。
 近くに女院が使っていたという井戸遺構もある。
◆能 能「大原御幸」では、寂光院を訪ねた後白河法皇と建礼門院が語り合う。
◆大原女 建礼門院、女官たちは、大原の地で慎ましい暮らしを送ったという。阿波内侍は大原の里人のために柴売りを発案し、大原女のいでたちも考案したといわれている。阿波内侍が山に薪拾いに出掛けた時の姿がもとになっているという。
 正装は、頭に紺木綿地の繍(ぬい)の手拭を載せ、巻き、あるいは吹き流しに被る。これに輪(わ)を載せた。きりくずしの着物(型の木綿)を瀬田からげ(褄<つま>をとり帯に挟む)、白い裾よけを見せる。帯は御所染で、とんぼ様に結ぶ。これを細帯(ほそび)でおさえる。手に紺木綿の甲手(こて)を付ける。襦袢(じゅばん)は白木綿になる。足に白木綿の脛巾(はばき)、打掛、甲掛を付けた。
 略装は、白手拭の吹流し、紺無地木綿、単衣、袷(あわせ)、綿入の着物に黒繻子(くろじゅず)か、ビロードの掛衿、細帯、三幅前垂(みはば まえだれ)を丈を短くした坊主からげにし、襷掛(たすきがけ)にした。なお、八瀬では二幅半前垂になった。
◆しば漬 京都三大漬物のひとつに数えられる「しば漬(柴漬)」の発祥地は大原といわれている。茄子、赤紫蘇、塩を漬込み、本来は1年間かけて乳酸発酵させる。古くより大原では紫蘇を栽培しており、冬場の保存食としてこれに野菜を漬込んでいた。
 平安時代、建礼門院がこの地に隠棲した折、里人は慰めるために漬物を献上したという。建礼門院は漬物を「紫葉漬(むらさきはづけ)」と名付けたという。また、建礼門院は献上された野菜を塩漬にし、漬物を作ったともいう。 
◆墓 境内に隣接して建礼門院徳子大原西陵がある。近代、1876年に比定された。歌人・与謝野晶子(1878-1942)は、ここを訪れ「ほととぎす治了承寿水のお国母三十にして経よます寺」と詠んだ。
 近くの翠黛山(すいたいざん)麓の森中に、建礼門院に仕えた女官の阿波内侍(あわのないじ)、大納言佐局(すけのつぼね)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)、右京大夫(うきょうのだいぶ)、小侍従局(こじじゅうのつぼね)の墓といわれるものが並ぶ。
◆千年姫小松 ご神木の「千年姫小松」は、樹齢は1000年ともいわれた。樹高15mあった。2004年に枯死し、2005年にやむなく伐採される。現在は切り株だけが残っている。
 『平家物語』「灌頂巻(かんちょうのまき)」の「大原御幸」にも登場する。「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」
◆文学 立命館大学生・高野悦子(たかの えつこ、1949-1969)は、1967年5月24日、「雨の寂光院」を訪れた。同年11月30日、閉門間際の「たそがれの寂光院」を再訪し、帰途は真暗な山道を下りている。(『二十歳の原点序章』) 
◆花暦 
梅、辛夷、桃、桜、海棠、木蓮、山吹、小菊(5月中旬-6月中旬)、皐月、キリシマツツジ、ハナミズキ、ショウジョウバカマ、石楠花、錦ウツギ、沙羅、木槿、白百日紅、擬宝珠、秋海棠、紅葉(11月中旬-12月初旬)、山茶花(11月-4月)、石蕗(12月)、南天、椿。
◆修行体験 写経(9:00-15:00、随時)。
◆年間行事 建礼門院御逝晨日祭典(宮内庁による。非公開)(2月1日)、春の特別拝観(建礼門院庵室跡、収蔵庫の公開)(4月下旬-5月上旬)。建礼門院御忌(非公開)(2月15日)、地蔵盆(8月24日)。秋の特別拝観(建礼門院庵室跡、収蔵庫の公開)(10月下旬-11月上旬)。
 地蔵供養(六万体地蔵の奉納)(毎月23日)。


*本堂内は撮影禁止。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古都から 10 寂光院』『古寺巡礼京都 38 寂光院』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都の寺社505を歩く 上』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『庭を読み解く』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』『名庭 5 京都尼寺の庭』『京都府の歴史散歩 中』『平安京散策』『京の尼寺 こころの旅』『古都の尼寺』『京都隠れた史跡100選』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『京に燃えた女』『史跡探訪 京の七口』『京都はじまり物語』『平成29年度 春期 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の仏像 第14号 三千院 国宝阿弥陀三尊と大原』『週刊 京都を歩く 5 大原』『週刊 古社名刹巡拝の旅 21 大原道 京都』、サイト「高野悦子『二十歳の原点』案内」


  建礼門院徳子大原西陵      大原      宝泉院     実光院      一言寺(醍醐山金剛王院)      善願寺               

西門

「沈黙」、「沈黙はよい 木々が語ってくれるから 岩むした石が物語ってくれるから 岩清水のひびきが耳を澄ましてくれるから み佛のこえがきこえてくるから」智光

収蔵庫

建礼門院御庵室跡

「御庵室遺蹟」の石標

建礼門院御庵室跡、女院が使っていたという井戸跡。

【参照】隣接する建礼門院徳子大原西陵

【参照】建礼門院徳子大原西陵

【参照】「高倉天皇中宮 建礼門院徳子大原西陵」の石標

【参照】建礼門院徳子大原西陵、御陵にもかかわらず五輪の塔の仏教式の陵は珍しいという


【参照】寺の西、草生川を挟んだ翆黛山麓の森にある阿波内侍らの墓。阿波内侍は崇徳天皇の寵愛を受けた女官であり、建礼門院により宮中に仕えた。
 五輪の塔三基と宝筐印塔一基があり、阿波内侍、大納言佐局、治部卿局、右京大夫の墓(中央の五輪塔)も並んでいる。墓所の下の道は静原へと向かう。


【参照】寂光院途中の道に「朧(おぼろ)の清水」がある。小さな井泉は、建礼門院が朧月夜に井水に姿を映し、やつれ果てた自らの姿を見て、身の不運を嘆いたと伝えられている。
 歌枕になっている。「ひとり澄む おぼろの清水 友とては 月をぞすます 大原の里」。寂然。

【参照】大原女

 寂光院 〒601-1248 京都市左京区大原草生町676  075-744-3341  9:00-17:00(冬季9:00-16:30)

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