了蓮寺 〔知恩寺〕 (京都市左京区)
Ryoren-ji Temple

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山門に「雲居寺(うんこじ)」の扁額が掛かっている。



 知恩寺境内の東に塔頭の一つ、了蓮寺(りょうれんじ)がある。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 水落地蔵(みずおちじぞう)は、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第22番札所の札所本尊になっている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 江戸時代以前、年代不詳、境内は京極通錦小路(中京区)にあったといい、本尊の阿弥陀仏は室町時代に廃寺になった雲居寺(うんこじ)の遺仏だったという。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、了蓮寺安置の水落地蔵は、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1693年頃、『洛中絵図』中に錦小路通の東端(中京区)に了蓮寺が記されている。
 1787年、『拾遺都名所図会』中に了蓮寺の記述があり、京極通錦小路にあり、知恩寺に属し、本尊・阿弥陀仏坐像を安置していたという。
◆雲居寺 雲居寺(うんこじ)は、東山の高台寺付近にあったという。詳細は不明だが、平安時代、菅原道真(845-903)が第50代・桓武天皇(737-806)の冥福を祈念し、八坂郷に建立した。八坂東院と呼ばれ、八坂寺(法観寺)と東西に立ち並んでいた。当初は天台宗で、後に浄土宗兼学になる。丈六の金色の阿弥陀仏を本尊とした。1436年、焼失、1439年、再足利義教の命により再興された。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、廃寺になったという。
◆鹿野峰吉 江戸時代後期-近代の鹿野峰吉(かの みねきち、1851-1918)。菊屋峰吉、鹿野安兵衛ともいう。父は京都・土佐藩御用達の書店(書肆)「菊屋」(中京区)主人・鹿野音吉。土佐藩を脱藩した中岡慎太郎が菊屋に下宿した際に、中岡、坂本龍馬の用使いをし「峰やん」と呼ばれ可愛がられていた。1867年、坂本、中岡が近江屋で暗殺された近江屋事件の際には、坂本好物の軍鶏を買いに「鳥新」に出掛けていた。事件後、峰吉は白川の陸援隊屯所に第一報を知らせたという。1870年、土佐の宮川助五郎(1844-1870)の遺骨を、霊山の坂本龍馬墓の近くに葬った。1877年、西南戦争では会計軍夫として従軍している。
◆板碑 書院の庭に大型の板碑が据えられている。了蓮寺板碑と呼ばれ、西向寺の地蔵図像板碑、東山正法寺の阿弥陀三尊種子板碑とともに「京の三板碑」の一つとされている。
 板碑は上部が山形に切られ、その下に二段の切り込みが入る。周囲に長方形の輪郭が彫られている。中央下の深く陰刻された蓮座上に阿弥陀如来立像が線陰刻されている。来迎相を結び、光背は頭部より放射光、下に宝瓶の無い対の供花が彫られている。造立年は不明。結晶片岩製で中世(鎌倉時代-室町時代)には板碑の材として用いられた。高さ2m。
◆地蔵 水落地蔵(みずおちじぞう)は、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第22番札所の札所本尊になっている。
 上京区に現在も、水落町(みずおちちょう)の地名が残る。かつて、油小路通沿いに小川が流れ、南と東に分岐した地点に水落ちがあったことから町名の由来になったという。また、水落寺というのもあったという。水落地蔵が安置されていた。その後、地蔵尊は知恩寺内に遷された。江戸時代、「山州名跡志」(1711年)にはすでに、知恩寺の地蔵堂があり水落地蔵が安置され、信仰を集めていたと記されている。
◆墓 幕末の書店「菊屋」の菊屋(鹿野)峯吉の墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』、サイト「京都上京さんぽ」


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 了蓮寺 〒606-8225 京都市左京区田中門前町103-23 知恩寺内   075-781-2787
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