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   正覚庵 〔東福寺〕 (京都市東山区)
Shogaku-an Temple

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書家「川浪青漣先生筆塚在り」の石標

 東福寺境内の南に塔頭・正覚庵(しょうがくあん)が西面して建つ。筆供養で知られ、「筆の寺」とも呼ばれている。 
 臨済宗東福寺派、本尊は釈迦如来。
 技芸上達、書道上達の信仰がある。
◆歴史年表 鎌倉時代、1290年、陸奥の伊達家4代当主・伊達政依が開基した。開山は東福寺5世・山叟慧雲(さんそう えうん)による。また、政依の帰依により陸奥国に五か寺が創建される。(「坊目誌」)。当初は現在地の西南、正覚にあり寺号になる。
 江戸時代、文化年間(1804-1818)、境内に筆塚が築かれる。
◆山叟慧雲 鎌倉時代の臨済宗の僧・山叟慧雲(さんそう えうん、1227-1301)。武蔵国に生まれる。1258年宋に入り11年に渡り学ぶ。帰国後、東福寺の円爾の法をつぐ。博多・承天(じょうてん)寺、崇福寺の住持、1295年東福寺5世。諡号は仏智禅師。
◆伊達政依 鎌倉時代の武将・伊達政依(だて まさより、1227-1301)。陸奥国に生まれた。伊達義広の次男。伊達氏第4代当主。従五位下蔵人大夫。陸奥国梁川城主。剃髪し入道願西と称した。仏教の信仰篤く、伊達五山(現北山五山)、1283年、伊達家最初の菩提寺の東昌寺ほか、光明寺、満勝寺(現・万正寺)、観音寺、光福寺を創建した。
◆渡宋天神(渡唐天神) 威徳堂には、渡宋天神(渡唐天神)が祀られている。平安時代の菅原道真(835-909)の死後、その怨霊は天満大自在威徳天神と化したという。威徳天神は一夜のうちに宋へ渡り、南宋の禅僧・無準師範(1178-1249)の教えを受け、その衣を授けられたという。
 南北朝時代(室町時代)の東福寺・愚極礼才(1370-1452)がこの天神信仰を唱えたという。
◆文化財 鎌倉時代の絹本著色「山叟慧雲像」(重文)。「永仁七年(1229年)二月」の自賛がある。
◆筆塚 江戸時代、文化年間(1804-1818)、1805年ともに築造された。書家・川浪青漣、日本画家・西山翠嶂(1879-1958)、日本画家・西山英雄(1911-1989)、大形筆塚(1967)などの筆塚が立つ。
◆年間行事 筆供養(太平洋戦争後、境内の建造物や樹木などが荒らされた際に、平住温洲が制する文を墨書して張り紙したところ止んだという。毛筆の功徳を痛感し、筆供養を思い立ち、1947年以来続けられている。筆記具が護摩火で焚かれ、山内を筆で作った筆神輿、青竹で作られた2mの大筆が練り歩く。煙をあびると字が上達するという。)(11月23日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『京都の禅寺散歩』『京都大事典』『京都市の地名』『京都大知典』


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「浪宋?天満宮」とある

威徳堂
威徳堂扁額

「碧玉山」の扁額

「正覚庵」

筆塚の碑

「一日不作、一日不食(一日はたらかざれば、一日食らわず)」。「作」とは、作務(労働)を意味している。中国、南宗禅中、洪州宗の祖・百丈懐海(749-814)は、老いても作務を続けた。ある日、主事が懐海の身を慮り農具を隠した。百丈は農具が見当たらないのは、自らの不徳として食事を抜いた。終生にわたる日常の作務こそが仏法そのものであるの意。

西山英雄の筆塚、近代の日本画家・西山英雄(1911-1989)。京都に生まれる。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。叔父・西山翠嶂に師事、青甲社に入る。山岳画家。帝展特選。日展文部大臣賞など受賞。芸術院会員。

「西山英雄、西山翠嶂の筆塚在り」の石標。近現代の日本画家・西山翠嶂(にしやま すいしょう、1879-1958)。京都生まれ。京美工卒。竹内栖鳳に入門、内国勧業博覧会、全国絵画共進会受賞、文展・帝展に出品。京都絵専教授、校長、私塾青甲社を創立した。帝国芸術院会員、帝室技芸員、文化勲章受章。

「五條乃三位 志ゆんせい卿の おはかみち」、冷泉家門人建立の石碑。
 正覚庵 〒605-0981 京都市東山区本町15丁目808   075-561-8905

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