久世神社 (城陽市) 
Kuze-jinja Shrine

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 城陽市の久世神社(くぜ じんじゃ)は旧久世村の産土神として祀られていた。かつて若王社(にゃくおうしゃ)、白鳥の宮(しらとりのみや)とも呼ばれた。
 祭神は本社に日本武尊(やまとたけるのみこと)、末社・稲荷神社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、龍王神社に級長津彦命(しいなつひこのみこと)、級長津姫命(しいなつひめのみこと)を祀る。 
 延喜式内社には比定されていない。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 室町時代末期、現在の本殿が建立された。かつて若王社と称した。
 近代、1868年、久世神社に改める。
 1874年、郷社に列せられた。
◆伝承 創建伝承として、祭神の日本武尊(やまとたけるのみこと)は、その死後、一羽の白鳥として飛翔した。この地、鷺坂(さぎざか)に飛来してとどまった。以来、この地に祀られたのが当社の始まりという。(『大和本紀』)。
 日本武尊妃の山代之玖玖麻毛理比売(やましろくくまもりひめ)は、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を産む。妃はこの地の古代豪族、栗隈県主(くりくまあかだぬし)の出自とされる。その伝承に因み、後世、栗隈氏が当社を勧請したともいう。栗隈氏は大和政権(大和朝廷)に服属し、この地、栗隈郷の開発、管理を行った。水路の栗隈大溝(おおみぞ)を開削したという。その後、少なくとも平安時代前期にはすでに勢力を失った。
 『万葉集』巻7-1286にある飛鳥時代の柿本人麻呂(660?-720?)は、「山背の久世の社の 草な手折りそ わが時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ(山背の久世の社の草を手折ってはならない、我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも、社の草を手折ってはならない)」と詠んだ。この「久世の社」に当たるともいわれる。ただ、「社(やしろ)」は「久世の杜(もり)」の誤りともされ、式内社には比定されていない。
 なお、境内東に面した坂はこの伝承より、「久世の鷺坂」と呼ばれている。この坂に、「山城の久世の鷺坂 神代より 春ははりつつ 秋は散りけり」(「柿本朝臣人麻呂之歌集」)の万葉句碑が立てられている。ただ、坂の位置については諸説ある。境内東の句碑の付近とも、境内西の旧大和街道(久世-寺田)付近、東部の丘陵地にある富野(との)の鷺坂山ともいう。
 なお、蟹満寺に伝えられる「蟹の恩返し」について、久世神社にあった蟹池の伝承がもとになっているともいう。(『日本霊異記の世界』)
◆建築 現在の本殿(重文)は室町時代中期に建てられた。南面しており、丹塗りの一間社流造、檜皮葺。柱上部、組物、庇水引虹梁、庇蟇股などを極彩色とし、内陣正面に弊軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を4枚立てる。
 内陣正面板扉に扉2枚の松、左右脇羽目板に草花を描く。内陣正面欄間中央に巴紋文、左右に六弁の花紋を飾る。外陣正面に透し彫り欄間、唐草文様が一間あり、中央に菊、左右に桐を配している。
◆久世廃寺 久世神社境内一帯は、奈良時代前半に創建されたとみられる古代寺院、久世廃寺跡の東側に当たり、境内に土檀が見られる。久世廃寺跡は国指定史跡になっている。
◆年間行事 新年祭(1月1日)、祈年祭(春祭り)(4月上旬日曜日)、夏祭(8月中旬日曜日)、例大祭・神幸祭(10月6日-7日、大篝火神事は、日本武尊が大和政権(大和朝廷)に敵対した者を討伐したという伝承に因む。御旅所<久世南垣内>で大篝火を献じる)(10月5日-7日)、新嘗祭・新穀感謝祭・お火焚き(12月第三日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『城陽町史』「城陽市教育委員会」説明板、『京都の地名 検証』『京都の地名 検証2』


  関連・周辺久世廃寺(城陽市)     周辺    関連      

参道、JR奈良線が参道の一部を横切っている。

拝所

拝所

拝所

拝所

拝所

本殿

本殿、透し垣

本殿

脇障子の松

稲荷神社

稲荷神社

龍王神社

龍王神社

手水舎

手水舎

社務所

神饌所
 久世神社 〒610-0102  城陽市久世芝ヶ原142  

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