護法堂弁財天・仙翁寺 (京都市右京区) 
Gohodo-benzaiten Shrine
護法堂弁財天 護法堂弁財天 
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「護法堂辨才天」


「辨財天道」の石標







「天女」の扁額




御堂



御堂






 五山送り火のひとつ鳥居形が点火される曼荼羅山(まんだらやま)の南東麓に、護法堂弁財天(ごほうどう べんざいてん)といわれる小社がある。堂宇は南東に面して建てられ、境内には神仏習合の痕跡がある。「嵯峨の弁天さん」とも呼ばれ、秋の紅葉の頃が美しい。
 祭神は不明。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 年代不詳、仙翁仙人が万灯籠山の頂に仙翁寺を創建したという伝承がある。
 鎌倉時代、1257年、仙音寺(仙翁寺)での大納言・歌人・藤原隆親の逆修結願に、後嵯峨上皇(第88代)が御幸したという。(「経俊卿記」)
 1259年、仙音寺で藤原隆親のために法華八請の仏会があり、後嵯峨上皇が御幸した。(『百錬抄』)
 鎌倉時代、仙翁寺は廃絶したという。
 江戸時代、1712年、愛宕山の一の鳥居の東の道傍に小堂があると記されている。(『和漢三才図会』)
◆仙翁寺・護法堂弁財天・八幡宮・畑山の霊社 境内の北西にある曼荼羅山は標高270m/278mあり、万灯籠山(まんとうろうやま/まんどろやま)、仙翁寺山(せんおうじやま/せんのうじやま)の異名がある。
 曼荼羅山とは伝承として、奈良時代-平安時代の僧・弘法大師空海(774-835)が、化野(あだしの)に両界曼荼羅を構想した際に、化野を金剛界とし、この山を胎蔵界としたことに因むという。
 万灯籠山には、五山の送り火(8月16日夜)の際に、山の南東面に火座があり、鳥居形の送り火、鳥居大文字が行われている。山の名も、この盂蘭盆会、精霊送りの万灯籠に因むという。
 仙翁寺山と呼ばれるのは、かつて山頂に仙翁寺(せんおうじ)という寺が建てられていた。仙翁寺は転訛し、仙園寺(仙音寺)と称された。仙翁仙人が創建したともいう。鎌倉時代、1257年、仙音寺での大納言・藤原隆親の逆修結願に、後嵯峨上皇が御幸したという。(『経俊卿記』)。同様に『百錬抄』『仁部記』『続史愚抄』などにも記されている。寺は、鎌倉時代に廃絶したという。
 この仙翁とは、仙翁花(せんのうげ/せんのうけ)という花の名に由来するという。寺と花の栽培にも関係があるとされる。(『下学集』、室町時代、1444年)。中国から渡来した仙翁という仙人が、薬草を寺で栽培していたという。山麓西にはいまも、鳥居本仙翁町(せんのうちょう)の地名が残されている。江戸時代には清凉寺の寺領のひとつであり、仙翁寺村と呼ばれた。町内ではいまなお、「嵯峨仙翁花」といわれる花が継承して栽培されている。
 護法堂弁財天は 仙翁寺山の麓にあることから、仙翁寺と何らかの関わりがあったという。その鎮守社だったともいう。護法とは、密教の奥義を極めた高僧、行者に使役する神霊、鬼神の意味を持つ。弁財天とは、仏教の尊格であるものの、神道の神、民間信仰とも混交した。仙翁寺は、鎌倉時代にすでに廃絶している。その、鎮守社だけが取り残されたともいう。なお、各地の弁財天は近代、1868年の神仏分離令以後、神社として寺より分離独立している。
 室町時代、1413年、足利義満の母・紀良子の没後、仙翁寺跡に洪恩院(清凉寺南)の鎮守社として八幡宮を祀ったという。(『鳥居本八幡宮神社略記』)。江戸時代、1682年、仙翁寺は絶え、畑山の霊社が祀られており、仙翁寺の鎮守八幡と記されている。(『雍州府志』)。江戸時代、1712年、愛宕山の一の鳥居の東の道傍に小堂があると記されている。(『和漢三才図会』)。護法堂弁財天と、八幡宮、畑山の霊社、小堂が関連しているかは不明。なお、護法堂弁財天の近くに鳥居本八幡宮が祀られている。
◆仙翁花 仙翁華、仙翁花はナデシコ科の多年草で、学名は"Lychnis bungeana Senno."とされる。シーボルト・ツッカリーニの『日本植物誌』(1835-1870)にも学名"Lychnis senno Sieb. et Zucc."と記されている。現在、正確な学名は"Lychnis bungeana(D.Don) Fisch. ex Hemsl."とされている。中国原産とされ、古くより観賞用、特に茶花として栽培されてきた。高さは60cmほどあり、葉にも茎にも細毛が密生している。葉は長さ5cmほどの卵形で対生で付く。夏に花弁先が裂けた深紅色の5弁花を付ける。漢名は剪紅紗花、剪秋羅ともいう。
 かつて中国から渡来した「仙翁」という仙人が、薬草を仙翁寺で栽培していたという。平安時代の東大寺の僧・奝然(ちょうねん、938-1016)が中国より種を持ち帰ったともいう。(『和漢三才図会』)。仙翁花の文献初例は、南北朝時代、1378年の貴族・近衛道嗣の日記『愚管記』になる。葉を火に炙り、打撲、筋肉痛などの湿布薬として使ったという。民間薬として生薬名「たくご」がある。この場合にはキク科のツワブキのことをいう。臨済宗の僧・愚中周及(1323-1409)は『丱余集(こうよしゅう)』中で、「火を噴く」花として太陽と対比して表現した。当時、七夕の頃、花の贈答が行われていた。七夕連歌御会には数千本を立てて愛でたという。京都五山僧は、漢詩に花を添えて贈る慣わしがあった。かつて白い花弁もあったという。室町時代には、7月の花として華道にも使われた。(『仙伝抄』)
 嵯峨は仙翁花の発祥地と記されている。室町時代に、「仙翁花。嵯峨仙翁寺、始めて此の花を出だす、故に仙翁花と云う」(『下学集』(1444年)とある。これを受けて、江戸時代に「センヲウハ嵯峨ノ仙翁寺ヨリ出タルユヘ名ツクト云。仙翁寺今ハナシ」(『大和本草綱目』(1708年)とある。『和漢三才図会』(1712年)にも記されている。『日葡辞書』(1603年)には、「Xenn?qe(センノゥケ)」とある。
 現在も仙翁町では「嵯峨仙翁花」と呼ばれる花の栽培が続けられている。ただ、これらは別種のマツモトセンノウ(松本仙翁、学名"Lychnis sieboidii."、ナデシコ科センノウ属の多年草)、フシグロ・センノウ(節黒仙翁、学名"Lychnis miqueliana Rohrb."、ナデシコ科センノウ属の多年草)という。かつて数十の品種があったという。近代以降に大部分は失われた。
 仙翁花は、江戸時代以降、絶滅したとされ「幻の花」といわれた。1996年、市民の調査が契機になり、島根県八束郡で栽培されていた株が再発見された。島根との関わりについて、江戸時代の七代目・松江藩主で茶人の松平不昧公(1751-1767)が介在したと考えられている。不昧公は江戸に生まれ、後に不昧流茶道を興している。島根で採取された苗は現在、研究用として東大付属植物園、京都府立植物園、富山県中央植物園の3か所に分けられた。 
 京都府立植物園には、村田源(元京都大学理学部講師)の紹介により、1997年に移植された。ただ、3倍体品種といわれるもので、染色体が基本数の3倍ある。これらは、自然にもあるが、主に人工的に2倍体と4倍体との交配で作られた。このため、初年の生育は盛んなものの、実はつけにくい。さらに、土壌線虫の害を受けやすく、連年障害が出て次年から衰弱、やがて枯死する。 このため、株は毎年、挿し木で繁殖させる。花期は7月中旬から2週間ほどになる。
 その後、西日本の9か所で11系統の品種の存在が確認された。すべて3倍体であることから、同一のクローンから株分けされた可能性が高いとみられている。また、中国浙江省天目山の調査により、現地では種子ができる2倍体のセンノウ属が発見された。これらと日本の種との関係については、まだ確定されていない。現在、仙翁花は環境省カテゴリで、絶滅危惧(レッドデータブック)ⅠB類(EN)に指定されている。
◆鳥居 鳥居は内宮源鳥居の型式の原型に近いとされる。角貫八角柱で五角の笠木になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都大知典』『京都大事典』『鳥居』『京都の地名検証』、サイト「花園大学国際禅学研究所」「富山県中央植物園」「京都府立植物園」『若冲の花』


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僧像、空海?

山車?



不動尊

地蔵尊

大日大聖不動明王

【参照】嵯峨仙翁花、松本仙翁の絞り花、嵯峨鳥居本。

【参照】フシグロセンノウ(節黒仙翁、学名:Lychnis miqueliana Rohrb.)、ナデシコ科センノウ属の多年草。貴船。

【参照】境内近くの竹林

曼荼羅山
map 護法堂弁財天 〒616-8431 京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町 
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