亀の水不動明王・梅香庵(木食寺)跡 (京都市山科区)
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亀の水不動明王・梅香庵(木食寺)跡  亀の水不動明王・梅香庵(木食寺)跡
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亀の水不動尊(山科区日ノ岡ホッパラ町)


亀の水不動尊、亀の水は湧き続けている。かつて、水神が祀られ、奥に不動尊も安置されていた。水は茶の湯にも用いられた。黒御影。



旧東海道の町並


峠つながる「右 明見道」の道標、傍の小さい方には「右 かさんいなり道」とある。「明見道」とは大塚・妙見寺への案内ともいう。碑の傍の脇道は大石内蔵助が祇園の一力に通った道との伝承もある。


【参照】粟田口大名号碑(山科区日ノ岡朝田町)
 三条通(府道143号線)の日岡、車石公園近くに、南東方向に細い道が通じている。かつての東海道(旧三条街道)で、以前は現在よりも幅広い道があった。旧街道の峠を越えた崖の下に、亀の水不動尊(かめのみずふどうそん)と呼ばれる小さな祠が祀られ、いまも湧水がある。
 江戸時代、不動尊の場所には、梅香庵(木食寺)と呼ばれる庵があったという。峠道を整備した木食僧・養阿(木食正禅)が結んだものという。
◆歴史年表 江戸時代、1717年、木食僧・養阿は、重罪人の霊を弔った。寒夜を選び30日間念仏回向し、京都の11無常所(六墓五三昧)を永代供養のために廻った。各所に名号碑を建立したという。九条山には、京都最大の粟田口刑場があり、この地に一丈六尺(4m)の特大の名号碑(粟田口大名号碑)を建立したという。(「安祥院文書」、1740年)
 1734年、養阿は、旧東海道日岡峠の改修工事を京都町奉行所に願い出ている。
 1735年、養阿は、岡峠の改修工事の計画変更を願い出る。その後、百姓・善六の異議があり、元の計画に戻される。
 1736年、1734年-1736年、1734年-1738年とも、養阿は、旧東海道日岡峠の改修工事を独力で行い、人馬道、車道を完成させる。この頃、峠付近に給水所(亀の水)が開かれ、営膳・接待のための「梅香庵(木食寺)」が建てられた。
 1738年、日岡峠の普請が完成する。
 1744年、養阿は峠道脇に建てられていた「至芳庵」を2間東へ移築し、その改修(安祥院の竹簀戸門)を京都町奉行所に願い出ている。
 1749年、養阿は、休息所の井水「松養水」を改修した。衛生向上のために亀の口型に改め、「量救水(りょうぐすい)」と改称した。
 1763年、養阿は「梅香庵」で亡くなったという。その後、五条坂の安祥寺(東山区)に埋葬された。
 1780年、養阿、梅香庵、量救水などについて記されている。(『都名所図会』)
 1787年、木食寺と日岡峠のことが記されている。(『拾遺都名所図会』)
 1808年、「梅香庵」が衰微したため、心学者・脇坂義堂が補助した。庵はその後、廃絶する。
 1867年、京都町奉行所・平塚瓢齊により新道(現三条通)が改修される。
 近代、1875年、京都府は日岡峠道を大改修している。
◆養阿 江戸時代の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。木食正禅、木食養阿などとも称した。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち、木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃・善光寺、美濃・国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)、1720年とも、狸谷山不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興した。勧進により、1738年、日岡峠、1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。安祥院で即身仏になり墓塔に納められた。 
◆日岡峠の改修 江戸時代、日岡峠は車道が抉れ損傷激しく、並行している人馬道との間に7-8尺(2m)ほどの段差が生じていた。雨天時には、道が泥濘し、牛馬、旅人の通行が困難を極めた。
 江戸時代、1734年、養阿は京都町奉行所に日岡峠の改修工事の許可願を出した。車幅を拡張し、車道と人馬道の落差をなくすためのもので、費用は勧進によったという。
 1736年-1738年、養阿は日岡峠の改修工事を行う。峠の北側にあった民家を買い取り立ち退かせ、道路幅を拡張した。峠の勾配軽減のために掘下げ工事を行う。その土を坂下に運び、道と周辺の人家の嵩上げ工事も行った。道が雨の日にぬかるまないように、道に小石を入れ、所々に石を敷いた。排水のための水抜きも設けた。京都に向かい道の左側に車道、右に人馬道が付けられ、同じ高さに修復された。
◆亀の水不動尊 旧東海道の峠道途中、南側の山肌に「亀の水不動尊」(山科区日ノ岡ホッパラ町)といわれる祠が祀られいまも湧水がある。名の由来は、石刻の亀の口より水が落とされていることによる。地元の人の話によると、湧水地はかつて現在地ではなく、さらに奥の山中にあり、地域の生活用水として使われていたという。現在も上の水と呼ばれる湧水地があるという。
 亀の水不動尊付近には、養阿が建てた「梅香庵(梅香院)」があったという。「木食寺」とも呼ばれた。養阿の梅香庵は二つ存在し、当初は七条大宮に建てた。養阿が日岡峠の改修工事を完成させた頃、梅ヶ畑(右京区)の「至芳庵」を移築し、後に「梅香庵」と名付けた。庵には弟子が常駐し、地蔵尊が安置されていたという。庵は休息所であり、道路管理の役目も担った。
 庵では、東海道を往来する旅人のために接待が行われ、井戸が設けられた。当初、水の飲み口は浮き上がり式から、後に亀の口より水を落とし、水鉢に水を溜める形に変更した。これは、衛生上の理由による。湧水は「量救水(りょうぐすい)」と呼ばれ牛馬なども利用した。
 その時用いられていた石製井筒は「椿山荘」(東京都文京区)に現存し、「山科郷日岡峠車道木食正禅建立省方」と刻まれている。その後、庵は廃絶した。
 峠の改修に関わった木食上人は複数存在したともいう。養阿以外に、応其(おうご、1536-1608)、明満(みょうまん、1718-1810)とその弟子・白道(びゃくどう、1755-1826)らも加わったともいう。
 亀の水不動尊の敷地内には湯茶接待に用いられた石の釜戸があるという。側面の銘文に「南無阿弥陀佛 此の攝待量救水をもって貴賤の往来にそなへまた牛馬等も喉口を潤し往来無障ため通行有之やうに相企つ是梅香院守真省方尼公の志願につき猶又永代退転無之様に量救水に加修覆奉供養者也木食養阿宝暦二壬申年(1752年)十一月二十九日」と刻まれている。 


*亀の水不動尊は、現在、立入禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 中』『史料京都の歴史11 山科区』『京都市の地名』『車石-江戸時代の街道整備』『洛東探訪』、サイト「木食正禅上人と阿弥陀如来露仏-境内霊譚奇談集Ⅸ」『京都大知典』『京都の自然ふしぎ見聞録』


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亀の水不動明王 〒607-8497 京都市山科区日ノ岡ホッパラ町  
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